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蛙の子は蛙
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日が暮れ、夕食時を家族水入らずで過ごした後、クルイーズは自室で夫であるアロイス・ブリオ男爵と食後の紅茶を楽しんでいた。二人の婚姻は資金繰りに困ったルイーズの実家が、家格はないものの資金は潤沢にあるブリオ男爵家に目をつけ結ばれた政略結婚だった。けれども二人の仲は、すこぶる良好で歳を重ねた今もなお、彼らの愛は深まるばかりだ。
彼らはそれほど子宝には恵まれなかったが、だからこそ一粒種であるクロエのことは、何よりも大切であり、そして心配の種でもあった。
「あなた。クロエのことですけれども。どなたかよい方は、いらっしゃらないものでしょうか。妻がお料理をしても許して下さるような酔狂な殿方。この際、贅沢は申しません。貴族でなくとも、そのように寛容な方がいらっしゃれば良いのですが」
愛娘が嫁ぎ先で幸せになれるとするならば、彼女の貴族らしからぬ振る舞いを好意的に捉え、教養のなさすらも愛嬌だと笑い飛ばしてくれるような。そのような海よりも広い心を持った男性へ嫁ぐ外はない。
「――いえ。そのように都合の良い方など。本当はいらっしゃらないことぐらい、私も分かっておりますの。けれどもクロエは、私たちの可愛い一人娘ですもの。あの子が常に笑顔でいられるよう、好きなことをさせてやりたいのです」
どうして愛おしい娘を苦しめたい親がいるだろうか。普段は口酸っぱくクロエに苦言を呈しているルイーズだけれども、可能であれば娘を愛してくれる男性を探し出し、無事に縁談をまとめ上げ、娘が好きなことを好きなだけ出来る環境を用意してやりたい。
「そうだね。私もそう思っているのだけれど。そう都合の良い独身男性がいるかどうか。貴族でなくとも富裕層の婦人は、同じように教養を求められるのに変わりはない。やはり女主人は料理をしないものだよ」
アロイスは険しい表情を浮かべ目を閉じた。強面の彼がそのような表情になると凄味が増し、使用人や取引相手によっては、威圧されているように感じてしまう者もしばしばいる。まるで武人のような雰囲気を持つ彼だが、剣は一度も持ったことのない商人貴族なのだから驚きだ。
「かと言って中間階級以下にクロエが嫁ぎ、上手くいくとはどうしても思えない。なに一つ苦労を経験していない娘だ。それにあの子の菓子作りは、何かと金が掛かるからね。いや、それを責めているわけではないよ。幸い我が家は家格こそ低いけれども、資産は公爵に並ぶほど潤沢にある。クロエの菓子作りにかかる金など微々たるものだ。ただ、それは上流階級であればの話だが」
そもそも菓子とは贅沢品だ。上流階級では身近にある嗜好品だが、中流階級以下では毎日のように楽しめるものではない。特にクロエが作る菓子は、材料が高級だ。どうせ売るわけではないのだからと、クロエはこだわり抜いた材料を使用している。
「ええ、仰る通りですわ。婿を取ることも考えましたの。けれども、あの様に変わり者の娘を持つ我が家に、婿に来ても良いと仰る方はきっと――」
ルイーズは自身のことを棚に上げる訳ではないけれども。金目当ての結婚がそうそう上手くいかないことを理解していた。彼女はたまたま上手くいっただけだ。
はなから金目当ての人間が、宛てがわれた伴侶とその子供を深く愛することはまあない。それは逆も然り。また金目当てだと思われた伴侶が、実はそれほど物欲がなく金遣いが荒くなかったということも、川を流れる一枚の花弁に小石を当てるよりも希なことだ。
「君の言いたいことは分かっているよ。金目当ての男に碌なのはいないだろうね」
商売をしているからこそ、アロイスは嫌というほどそれを実感している。いとも容易く金は人を狂わせる。彼は何度も裏切りを経験し、そして彼自身もまた金の為に非情にならざるを得ないことが幾度かあった。
「私はね、ルイーズ。いっそのこと、クロエが生涯独身でいても良いのではないかと思っているんだよ。それこそ苦労はするだろうけれど。無理に嫁いであの子の心が酷く傷付いてしまうよりは、遥かにましではないだろうか。だから君も、そのように覚悟をしておいて欲しい」
無理をさせ、娘をぼろぼろにしてしまうくらいならば、嫁になど出さなければ良い。目に叶う人物がいないのならば婿も迎えなくて良い。嫁ごうが嫁ぐまいが、心無い言葉で娘が傷付くのならば、せめて好きな菓子作りで心を慰める方が娘の為になるに決まっている。その事は分かってはいるけれども、思わず出そうになる溜息をルイーズは紅茶と共に飲み込んだ。
「もともとは祖父さんが、先の戦争で国に大金を寄付して棚ぼたで手に入った爵位だ。クロエの代で途絶えても構わないさ。それに事業にしたって親族で商会を経営しているのだから問題はない。弟夫婦もいることだし、我が家の担う事業は彼らの子孫が継いでくれるだろう。それにねルイーズ。君も私も、そもそも貴族らしいとは、お世辞にも言えないのではないかな。クロエだけが変わり者ではなく、蛙の子は蛙だよ」
夫はそう言うとテーブルの上にあるカップへと視線を移した。それに釣られたルイーズは、夫と同じようにふと自分の手元にあるカップへ視線を移し、はっとした。そこにはすっかりと冷めてしまった紅茶があったからだ。
冷めた紅茶は茶葉の甘みを感じやすくなり、それはそれで美味しいとルイーズは気にもしたことはないが、一般的な貴族であれば、熱いものは熱いうちに冷たいものは冷たいうちに頂くのが嗜みであり、冷めたものや温くなったものは決して口にしない。
落ちぶれた貧乏子爵家の出であるルイーズは、それはとても勿体ないことだと思って育ち、その考えは裕福な男爵家に嫁いで来てからも変わらなかった。
「――蛙の子は蛙。左様ですわ。どうにも私は生家が貧乏で馬鹿にされて育ってきたところがあるからか、人並みに貴族らしくと、そのことばかりを考えてしまうのでしょうね。ですから、女は必ず嫁がなくてはならないという固定観念に囚われておりますの。けれども、クロエにとってはあなたの仰ることの方が幸せかもしれませんわね。――それでもあなた。貴族じゃなくとも結構です。どなたか良い方がいらっしゃらないか、探して頂きたいのです。今回で最後に致します。もし何方もいらっしゃらなければ、これ以上は何も申しません」
無理に結婚させない方が、娘にとって幸せだということはルイーズも理解が出来る。けれども、もし彼女を心から愛してくれる人がいるならば、それに越したことはない。ルイーズは、どうしても自分たち夫婦が天に召された後、娘の人生を孤独なものにはしたくなかった。
彼らはそれほど子宝には恵まれなかったが、だからこそ一粒種であるクロエのことは、何よりも大切であり、そして心配の種でもあった。
「あなた。クロエのことですけれども。どなたかよい方は、いらっしゃらないものでしょうか。妻がお料理をしても許して下さるような酔狂な殿方。この際、贅沢は申しません。貴族でなくとも、そのように寛容な方がいらっしゃれば良いのですが」
愛娘が嫁ぎ先で幸せになれるとするならば、彼女の貴族らしからぬ振る舞いを好意的に捉え、教養のなさすらも愛嬌だと笑い飛ばしてくれるような。そのような海よりも広い心を持った男性へ嫁ぐ外はない。
「――いえ。そのように都合の良い方など。本当はいらっしゃらないことぐらい、私も分かっておりますの。けれどもクロエは、私たちの可愛い一人娘ですもの。あの子が常に笑顔でいられるよう、好きなことをさせてやりたいのです」
どうして愛おしい娘を苦しめたい親がいるだろうか。普段は口酸っぱくクロエに苦言を呈しているルイーズだけれども、可能であれば娘を愛してくれる男性を探し出し、無事に縁談をまとめ上げ、娘が好きなことを好きなだけ出来る環境を用意してやりたい。
「そうだね。私もそう思っているのだけれど。そう都合の良い独身男性がいるかどうか。貴族でなくとも富裕層の婦人は、同じように教養を求められるのに変わりはない。やはり女主人は料理をしないものだよ」
アロイスは険しい表情を浮かべ目を閉じた。強面の彼がそのような表情になると凄味が増し、使用人や取引相手によっては、威圧されているように感じてしまう者もしばしばいる。まるで武人のような雰囲気を持つ彼だが、剣は一度も持ったことのない商人貴族なのだから驚きだ。
「かと言って中間階級以下にクロエが嫁ぎ、上手くいくとはどうしても思えない。なに一つ苦労を経験していない娘だ。それにあの子の菓子作りは、何かと金が掛かるからね。いや、それを責めているわけではないよ。幸い我が家は家格こそ低いけれども、資産は公爵に並ぶほど潤沢にある。クロエの菓子作りにかかる金など微々たるものだ。ただ、それは上流階級であればの話だが」
そもそも菓子とは贅沢品だ。上流階級では身近にある嗜好品だが、中流階級以下では毎日のように楽しめるものではない。特にクロエが作る菓子は、材料が高級だ。どうせ売るわけではないのだからと、クロエはこだわり抜いた材料を使用している。
「ええ、仰る通りですわ。婿を取ることも考えましたの。けれども、あの様に変わり者の娘を持つ我が家に、婿に来ても良いと仰る方はきっと――」
ルイーズは自身のことを棚に上げる訳ではないけれども。金目当ての結婚がそうそう上手くいかないことを理解していた。彼女はたまたま上手くいっただけだ。
はなから金目当ての人間が、宛てがわれた伴侶とその子供を深く愛することはまあない。それは逆も然り。また金目当てだと思われた伴侶が、実はそれほど物欲がなく金遣いが荒くなかったということも、川を流れる一枚の花弁に小石を当てるよりも希なことだ。
「君の言いたいことは分かっているよ。金目当ての男に碌なのはいないだろうね」
商売をしているからこそ、アロイスは嫌というほどそれを実感している。いとも容易く金は人を狂わせる。彼は何度も裏切りを経験し、そして彼自身もまた金の為に非情にならざるを得ないことが幾度かあった。
「私はね、ルイーズ。いっそのこと、クロエが生涯独身でいても良いのではないかと思っているんだよ。それこそ苦労はするだろうけれど。無理に嫁いであの子の心が酷く傷付いてしまうよりは、遥かにましではないだろうか。だから君も、そのように覚悟をしておいて欲しい」
無理をさせ、娘をぼろぼろにしてしまうくらいならば、嫁になど出さなければ良い。目に叶う人物がいないのならば婿も迎えなくて良い。嫁ごうが嫁ぐまいが、心無い言葉で娘が傷付くのならば、せめて好きな菓子作りで心を慰める方が娘の為になるに決まっている。その事は分かってはいるけれども、思わず出そうになる溜息をルイーズは紅茶と共に飲み込んだ。
「もともとは祖父さんが、先の戦争で国に大金を寄付して棚ぼたで手に入った爵位だ。クロエの代で途絶えても構わないさ。それに事業にしたって親族で商会を経営しているのだから問題はない。弟夫婦もいることだし、我が家の担う事業は彼らの子孫が継いでくれるだろう。それにねルイーズ。君も私も、そもそも貴族らしいとは、お世辞にも言えないのではないかな。クロエだけが変わり者ではなく、蛙の子は蛙だよ」
夫はそう言うとテーブルの上にあるカップへと視線を移した。それに釣られたルイーズは、夫と同じようにふと自分の手元にあるカップへ視線を移し、はっとした。そこにはすっかりと冷めてしまった紅茶があったからだ。
冷めた紅茶は茶葉の甘みを感じやすくなり、それはそれで美味しいとルイーズは気にもしたことはないが、一般的な貴族であれば、熱いものは熱いうちに冷たいものは冷たいうちに頂くのが嗜みであり、冷めたものや温くなったものは決して口にしない。
落ちぶれた貧乏子爵家の出であるルイーズは、それはとても勿体ないことだと思って育ち、その考えは裕福な男爵家に嫁いで来てからも変わらなかった。
「――蛙の子は蛙。左様ですわ。どうにも私は生家が貧乏で馬鹿にされて育ってきたところがあるからか、人並みに貴族らしくと、そのことばかりを考えてしまうのでしょうね。ですから、女は必ず嫁がなくてはならないという固定観念に囚われておりますの。けれども、クロエにとってはあなたの仰ることの方が幸せかもしれませんわね。――それでもあなた。貴族じゃなくとも結構です。どなたか良い方がいらっしゃらないか、探して頂きたいのです。今回で最後に致します。もし何方もいらっしゃらなければ、これ以上は何も申しません」
無理に結婚させない方が、娘にとって幸せだということはルイーズも理解が出来る。けれども、もし彼女を心から愛してくれる人がいるならば、それに越したことはない。ルイーズは、どうしても自分たち夫婦が天に召された後、娘の人生を孤独なものにはしたくなかった。
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