奇人街狂想曲

かなぶん

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第二節 雨上がりの逃走劇

第4話 雨の椿事

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 ――それを見た時、珍しい、と思った。
 街の構造上、遠回りしなければ辿り着かない芥屋向かい。そこに居を構える神代史歩は、鍛錬の合間に水を求め、ふと見た窓の外に少しばかり目を見開いた。
 雨に煙る街の中、優美に咲く朱の大輪。
 もしもここが史歩の元居た場所であったのなら、珍しくもなんともない光景だろう。今はもう遠い記憶だが、雨降りにおいてはもっと多くの彩りがあった。
 しかし、史歩がいるのは紛れもない奇人街。
 彼の地にあった絡みつく湿度は、際限なく雨を呑む乾いた大地には存在せず、汗を拭いた後に肌を撫でる風にも、心地よさしか感じられない。
「……から傘とは珍しい。いや、酔狂というべきか?」
 歩みに合わせて上下する朱色の傘をしげしげ眺めながら、史歩は呟いた。
 一応は奇人街にも傘は存在している。ただ、使う者を見ることはほとんどない。それは奇人街の住人が、濡れる前に駆け抜ける移動法を選ぶせいだ。体力バカも甚だしい話だが、確かにそんな動きで傘など差そうものなら、道具の一生は一瞬で終わるだろう。
 視線は傘に釘付け、湯のみに汲んだ水をすする。
 と、またしても史歩の目が大きく開かれた。
 奇人街の住人も億劫にさせる雨の中、邪魔になるだけの傘を差した者が、わざわざ立ち寄った先は、芥屋。店先の箱の脇に畳んだ傘を置き、薄暗い店内に白服の後ろ姿が消えるまでを認めては、再びの呟きが史歩から漏れる。
「ますます、酔狂な」
 芥屋の食材は、ただでさえ美味いモノが溢れている奇人街の中でも、群を抜いて美味。反面、店主が人間以外には碌でもない応対しかしないため、普段でも来店する住人は稀だ。
 今は従業員がいるから、店主のみの時より客足は多いだろうが、あの店主が人間を働かせっぱなしにすることはないため、接客で店主に当たる確率は五分五分。こんな雨の日に、半ば博打染みた買い物を好む者はいないだろう。
 では、人間のような姿形の後ろ姿から、奇人街にいる数少ない人間が買い物に来た――と言うのも、あり得ないと史歩は断ずる。
 人間好きを豪語するワーズだが、不気味な容姿と言動から、一応、同族らしい人間からはとことん敬遠されていた。仮に客として現われようものなら、彼が嬉々として取り出す食材は、大抵の場合、その人間が共に暮らす住人の種と同じモノになる。友人・恋人と多岐に渡る関係性を考慮せずとも、親しい相手と同種のブツをありがたがる者などいない。
 そうして嫌悪も露わに離れていく人間たちを前にしても、店主はへらへら笑い続けるのだから、余計、人間を取り扱っていないにも関わらず、人間の客層は遠退いていくばかり。
 難儀な奴と思わないでもないが、だからといって、一人暮らしでどんな種族の肉でも気兼ねなく物色する史歩へ、何でもタダ同然に勧めるのはいただけない。なにせ芥屋は猫のモノ。まともな金額を支払わなければ、猫に嫌われてしまうかもしれないのだ。
「はあ……猫。私の想いは、いつお前に届くのか」
 うなだれため息を零したところで、独り身の部屋から返る声はない。
 やるせない想いを抱えた史歩が顔を上げたなら、いつの間にか戻っていた朱い傘が、芥屋から出て行く場面にかち合った。
 何かを抱えているらしい肩部分は傘に隠れて見えないが、先ほどは史歩と同じ人肌であった袖口から黒い毛並みが覗くのを見て取り、やはり人間ではなく、夜に獣の姿を取る人狼と知れた。
 つられるように空を見上げれば、薄まってきた曇り空の色が黒くなりつつある。
 夜と一口に言っても、昼との境は人狼それぞれの感覚で決まるらしい。さすがに陽が落ち切れば、自力で人間に似た姿を維持できる者はいないが、陽の光が弱まっている程度なら、好きな時間に変化できるという。ただし、一度人狼本来の姿になると、基本的には朝日が昇るまで姿を変えることは出来ないとも聞く。
 酔狂な奴だが、この短時間で食材を手に入れたということは、運良く泉が接客をしたのだろう。
 良かったな、と大して気もなく祝福し、また鍛錬に戻ろうと顔を背け、
「…………いや、ちょっと待て?」
 違和感にもう一度視線を戻せば、絶妙のタイミングで荷物を抱えなおす仕草。
 瞬間、朱の影から覗く、縛られた両手と結わえられた褐色の髪。
「まさか、綾音……?」
 そして、それを抱える鋭い緑の眼光。
 雨で霞もうが、はっきり分かる悦に入った様子。
「それに……シウォン? いやいや、待て待て。待つんだ私。結論を急くものではないぞ?」
 自分の眼で見たものが信じられず、くるりと窓に背を向けて考え込む。
 史歩の知っているシウォン・フーリという人狼は、相当な自信家。
 わざわざ雨の日に出歩き、あまつさえ自分になびかなかった従業員を拘束してまで連れ去る面倒を起こすはずがない。従業員が女で許容範囲内の年齢・体格なら、ワーズの嫌がらせに誘うが、史歩のように興味を持たなかった女は、珍獣扱いで終わるはずだ。
 珍獣呼ばわりは腹立たしいが、仕方ないとも思う。
 それほど、シウォンの誘いに惹かれない女は珍しい。
 では、別人か?
 しかし、それはあり得ない。
 拘束を受けていたあの荷物が泉であるなら、芥屋から盗みを働いたことになる。
 自分の意思で出て行った訳でもない従業員は、確実に芥屋の――引いては猫の支配下。
 つまりは猫の懐から毛を一本抜いたに等しい暴挙だ。
 ――あの影の揺らめきが一本単位で抜けるかどうかは別として。
 奇人街の住人なら誰しもが恐れ慄く猫相手に、そんな死に急ぐ行動を起せる者はいない。
 神出鬼没の猫を探知し、回避できる能力を持つシウォンならともかく。
「ならばあれは、綾音ではない……?」
 芥屋から丸々一体買い取った、という考えも過ぎるが、シウォン程の実力者なら自分の獲物は自分で狩るだろう。
 とどのつまりは、分からない。
「……考えても埒が明かん。直に確認するしかあるまい」
 面倒だが、この状態で鍛錬を再開しても身が入らないだろう。
 万が一、あれが綾音でシウォンだとしたら、四の五の言っている暇などないのだ。
 念のため、得物を手にして雨の中を一気に駆け抜ける。
 芥屋に辿りつくなり、
「店主!」
 呼びつ駆け込んだ先の黒一色は、いつものへらり顔を歪ませており、その足元には脱ぎ捨てたような黒コートがあった。
 万が一が事実だったと察した史歩は、己の不甲斐なさを悔やむ。

 程なく、芥屋から店主を連れ出す史歩の姿が、雨脚遠退く夜を駆け抜けていった。
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