そのクレーム処理係、令嬢に付き取扱注意

十字 架運太(クロス カウンタ)

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二、落ちる瞬間の眼を見る為に

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 社員通用門を抜け玄関口でアルコール消毒液を手に吹き掛ける。
 インフルエンザやノロウイルス、最近ではコロナウイルスなど感
染症の予防上、ホテルに勤める全従業員は出勤時にマストでこの行
為をする。
 5年目の今となっては違和感なんて無くなったけど、入社当初は
美夕とふたりでよく言ったものだ。
『何か私達が黴菌扱いされてるみたいで、最悪』、って。
 二十九年間の人生でお嬢様と呼ばれていた時代の方が長い訳で、
私も美夕もこの玄関口で受ける一般人としての洗礼を始め、今の勤
め人としての生活をよく五年間も我慢出来たものだ。
 それにはふたりとも仕事を辞めれば、その瞬間自動的に作動する
時限爆弾を抱えていると言うことが大前提としてある。
 もし退職しようものならばマッチングアプリ全盛のこの新時代に、
時代錯誤も甚だしい『お見合い』と言う名の爆弾の時限装置が自動
的に作動する、そんな私と美夕なのだ。
 何と言ってもこっちが三十路ともなれば、相手も売れ残っている
男と相場が決まっている。
 お父様やお母様に『結婚相手は私が見付けます」、などと啖呵を
切っていたのも数年前までの話で、今となってはそんな現実離れし
た話はSFか、或いはホラー映画のストーリーを語るに等しい。
 つまり好きでも無い男と結婚なんてするくらいなら、このままで
充分、と、言うのが第一。
 でも、5年間辞めずに続けれた理由は他にもある。
 第二に私も美夕も勿論捏ね入社だけど、お父様の息が直接掛かっ
ていないこのホテルで働いていると、厳しい面も有るとは言え二人
共お嬢様扱いされないことだ。
 つまり橘和麗香と山野美夕と言う二十九の一人の女としての人格
が保持されると言う、ごく当たり前のことだけど実家に戻ると味わ
えない感覚を味わえることだ。
 そして第三には今の部署が気に入っている。
 始めの頃は毎日泣いた。
 何でこんなことをしなきゃならないの、と、このホテルでこの部
署に配属されたことを呪った。
 文句言われて、どなられて、頭を下げて、いっそ今日辞表を書い
て実家に帰ろうか、と。
 実家に帰れば吉田さんが何でも代わりにしてくれるし、こんな仕
事絶対辞めてやる、と、ところがそう決心したその日の勤務終了時
間30分前、『スマホが無い』、と、大声で騒ぐ私のお母様と同世
代の女性客が現れ、私の退職に待ったを掛けてくれたのだ。
 ほぼパニックの女性客に迫られ、半泣きになっていたフロント配
             ー7ー




属一年目の樋口香奈子。
 見るに見兼ねた私は樋口を下がらせて一歩前に出た。
 ベテランとは言えない二年目の私が、よくもまあ積極的にあんな
ことをしたものだと、今となっては我ながら何とも不思議だ。
 もう今日で辞めると決心すると何もかもが吹っ切れていて、最後
にきっちり仕事するか、と、思ったからなんだけど、私に取っては
初めて積極的に仕事をした記念日でもあった。
 そうあの日こそがクレームを処理し切った瞬間、そのクレーマー
が見せる『落ちる瞬間の眼』を見た記念すべき日だったのだ。
 宿泊した部屋中探してもスマホが出てこないと謝っていた香奈子。
 彼女を下がらせて私はその女性客に言った。
「お客様今一度だけ、ご宿泊戴いたお部屋を係りの者に清掃させて
戴きたいと存じます。
 付きましてはご確認でございますが、お客様のスマートフォンは
電源が入ったままになってございますでしょうか。
 眞に恐縮でございますが、ご記憶がございましたらお教え戴けま
すでしょうか」
「ええ、勿論よ。
 電源は入っていたわ」
 私の言葉に自信満々にそう返してきた女性客。
 でも実はそのとき私のお母様がスマホを失くしたと言って大騒ぎ
したときのことを思い出し、そのときと同じ結末を迎えるのではな
いかと、内心私は何か確信めいた予感を抱いていた。
「然様でございますか。
 それでございましたら大変恐縮でございますが、今から清掃に入
るタイミングで、お客様のお電話を鳴らして戴いても宜しゅうござ
いますでしょうか。
 もしお部屋の中にございましたら、何処にあるか係りの者が気付
き易くなるかと思いますので」
「それはそうね」
 と、その女性客はまんまと私の策に乗っかってくれた。
「では念の為お客様のスマートフォンが通話状態になっているかど
うかを、今一度ご確認下さいませ。
 私共で子機をご用意して参りますので、そのままで少々お待ち下
さいますよう」
 そう女性客に言い置いて、私はコンシェルジュデスクに戻り子機
を持って戻った。
 するとその女性客は、私の手から子機を毟り取るようにしながら
言い放った。
「分かったわ。
             ー8ー




 今、鳴らしてみるから」
 女性客が番号を押してから数秒後のことであった、私がこの勝負
に勝ったことが判明したのは。
 買い物をして来たのであろうか、マダム御用達ブランドのネーム
が入った手提げのペーパーバッグから、盛大にコール音が聴こえた。
 しかもそれは昭和の演歌だった。
「あ、あら。
 ま、どうしましょ、こ、こんなところに」
 果たしてその女性客は、所在無さ気に照れ隠しの笑みを浮かべる。
 さぁ、今からが本番だ。
 たとえば『何だ、そんなとこに入ってたのに気付かなかったんで
すか』、などと言おうものなら何もかもが台無しになって、せっか
くスマホを見付けたのに再クレームを喰らってしまう。
 それこそ何の為に『通話状態かどうか確認して欲しい』などと、
わざわざ回りくどいことを言ったのか、その手間さえ無駄になる。
 つまり次の私の対応が、天下分け目の関が原なのだ。
 先ずはわざと驚いてみせる。
 少しオーバー気味に、だ。
 そしてそこで初めて笑顔を見せる。
「宜しゅうございました。
 大変ご造作をお掛け致しましたが、見付かって何よりでございま
すお客様。
 それよりお疲れになられましたでしょう。
 チェックアウトの手続きは私が代わって進めて参りますので、ど
うぞ宜しければあちらのラウンジの方で、お飲み物など召し上がっ
てお待ち下さいませ。
 コンシェルジュデスクの方でお好きなドリンクをご用意致します。
 後程チェックアウトに伴うご精算とサインだけ、私が頂戴に上が
りますので少々あちらでお待ちを」
 そのとき女性客が私に向けた『眼』。
 それこそが生まれて初めて目にした、クレーム客の『落ちたとき
の眼』だった。

 恥を掻かかさずに迅速にクレームをその場で処理する。
 そして他のゲストへの影響を最小限に抑える。
 尚且つホテルの被害をも最小限に。
 それがクレーム処理の三原則、と、そう私は執事兼運転手兼教育
係の吉田さんに徹底的に叩き込まれていた。
 実のところ吉田さんは橘和コンツェルンの系列ホテルである、ハ
ーモニーホテルの総支配人まで勤めた元ホテルマンなのだ。
            ー9ー




 それがそうした総ての条件が揃ったときにだけ見れる、クレーム
客の『落ちたときの眼』、と、吉田さんが私に教えてくれた。
   
 そして私はその奇跡の起こったあの日、退職願を出すのを止めた。
 あの『落ちたときの眼』を見たときの快感は、何にも代え難い。
 令嬢だの、お嬢様だの、と、言われることなんかよりも、ずっと、
ずっと、私に取ってそれは価値がある。
 何故なら橘和コンツェルンの令嬢でも何でもない、私、橘和麗香
の力だけで為し遂げたクレーム処理だからだ。
 その時救ったと言うか、救われたと言うか、とにかく私が今ここ
にこうして居る原因を作ってくれた可愛い後輩の樋口香奈子も、今
や押しも押されもせぬ4年目の中堅、否、『お中老』、か。
 私達フロントコンシェルジュは女しかいない部署なので、男性社
員達に『大奥』と呼ばれているのだ。
 と、言うことは私って大奥で言うと、『お中老』、否、『お局』、
か。
 否々、直属の上司である前田係長を差し置いて、『お局』はない
か、と、それにしても、三十路を迎える私。

 そんなことを考えながらロッカールームで濃紺の制服のスーツに
着替えていると、手許が疎かになったせいかスカーフの結び目が今
いち決まらなかった。
 見兼ねた美夕が直してくれた。
「はいよ、行こっか」
 やっぱり美夕は出来る女だ。
 私に勝るとも劣らぬ『落とし屋』でもある。

 ロッカールームを出て従業員用エレベーターホールに向かう。
 そこで私が仕事を辞めない第四の、否、第一か、の、理由に出会
った。
 これで彼がもし令息だったとしら、実家に連れてけるんだけど。
 なんて・・・・・付き合ってもないのに、私にそんなことを考え
させてくれる竜造寺顕幸(りゅうぞうじあきゆき)君。
 私が竜(りゅう)君と呼ぶ一期後輩の彼は5ヶ国語を話す。
 帝都大出身の俊才である。
 去年経営企画部からフロントに転属してきたのだ。
 顔はどストライク、で、デカい、とも言われてきた身長178セ
ンチの私が見上げることの出来るくらいの高身長も、スタイルも、
非の打ち所がない彼だけど、超の付く貧乏であった。
 竜造寺などと込み入った名前の癖に、超、超、超貧乏なのだ。
            ー10ー



 それに私の可愛い後輩の樋口香奈子と付き合っている、と、もっ
ぱらの評判だし、私の出る幕など有ろう筈も無い。
「おはようございます、橘和さん」
「あ、竜(りゅう)君おはよう」
 在り来たりの挨拶。
 そう言ったきり後は何も喋らずに三人でエレベーターに乗る。
 ふと竜君の横顔を・・・・・やっぱり、見てるだけでヤラレル。

 エレーベーターを降りて、竜君の背中が遠ざかると美夕は私の脇
腹を突っ突いてきた。
「まぁた、見てるぅ。
 何なら私が何とかしよっか、竜君のこと」
 私は無言のまま顎を振った。
 何とかなるなら、私が何とかするんだけど。
 昼食は従業員食堂さえ高くつくって言って、いつも卵掛けごはん
か納豆ごはんの竜君だけど、それに古着しか着れない竜君だけど、
しかも樋口香奈子と付き合ってる竜君だけど、でも・・・・・それ
でも、私は頑張りたい。

 竜君の、私に『落ちる瞬間の眼』を見る為に。
 
 なんて、夢見たいなことを考えながら、今日も私はいつものコン
シェルジュデスクの前に立つ。


















             ー11ー
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