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四、妄想の終わりと何かの縁
しおりを挟む仕事を終えてロッカーで着替えをしていると、少し遅れてやって
来た美夕が私のふたつ隣のロッカーの前に立った。
今月から私が本館で美夕は新館勤務をしている。
仕事を終えても新館勤務だと、ロッカーのある本館まで少し時間
が掛かる。
コロナウイルス対策で私達コンシェルジュも、マスク着用を余儀
なくされていた。
「お疲れ」、と、互いに言葉を掛け合った後、美夕は外したマスク
を近くのゴミ箱に投げ入れながら溜息混じりに言った。
「ねえ、聴いた?
樋口さん寿退社するんだってよ」
私は咄嗟に二期上の先輩の樋口華連さんを連想した。
一期下の後輩の樋口香奈子がもしそうなら、必ず私の耳に入って
くる筈だからである。
それにもしそうなのなら、竜君からも言ってくるだろう。
やはりここは樋口香連さんしか考えられない。
「ベルの樋口さんかぁ、研修のとき世話になったなぁ」
私が樋口さんとの感慨に耽っていると、制服のジャケットを脱ぎ
ながら美夕は呆れ顔を向けた。
「違うわよ。
後輩の樋口香奈子の方」
美夕の言葉に私は立ち止まったまま動けなくなった。
次いで一瞬で真っ白になった頭の中に或る音が鳴り響く。
そう、ちょうどフィレンツェに留学したときの、あの朝の目覚ま
し代わりに鳴り響く教会の鐘の音が。
ゴン、ゴーン、ゴン、ゴーン、ゴン、ゴーン、ゴン、ゴーン。
しかも私とじゃなく、樋口香奈子と竜君への祝福の鐘の音だ。
一頻り鐘の音を聴きながら棒立ちになっている私の耳に、再び美
夕の声が届き現実に引き戻された。
「ちょっと、大丈夫。
ちょっと麗香」
掌を私の眼の前で振ってくれた美夕のお陰で我に返った私は、こ
こに来て漸く言葉を発することが出来た。
「樋口ってそっち!」
こけそうになりながら美夕が言った。
「遅っ、今気付いたのかぃ」
平静を装うこともまた取り繕う必要も無い美夕に対しては、私は
いつものように正直なリアクションを返した。
「ごめん・・・・・余りにも突然で」
落胆を隠せない私だったけれど、漸く我に帰った私の姿を見て安
ー17ー
心したのか美夕は再び着替え始めた。
「何時何処でとか詳しいことは聴いてないけど、麗香のとこにもそ
のうち招待状届くんじゃない。
まだ本人から聴いた訳じゃないけどさ、今日課長と係長が立ち話
してるの聴いちゃったんだ。
ま、麗香にはショックだろうけど、仕方ないよこればっかは。
竜君との妄想もこれで御終いにしないとね。
て、ことで、今日吉田さんに残業つってどっか呑み行こうよ。
付き合うよトコトン。
それとも男子揃えるから、合コンディナーでもする?」
美夕の言葉を聴いても内容は全然入って来ない。
脱力感に包まれた私は着替える気さえしなくなり、取り敢えず今
の時点で思い付く言葉を吐いた。
「私、何か無理」
ロッカーに身体を預けて項垂れる私。
そんな私の言葉を聴いて大きく溜息を吐いた美夕を見遣れば、早
くも着替え終わっている。
美夕は私の身体から制服のジャケットを引き剥がしながら言った。
「マジェスティクラブに居るから。
ゆっくりでいいから、ちゃんと着替えしておいでよ。
それからスカーフ取るの忘れちゃ駄目だよ。
ファイブスターマークが入ってんだから」
「うん」
何とか着替え終わってロッカールームを出たときには、早や30
分が経っていた。
我ながら何をやっているのか。
こんなにショックを受けるとは思ってもいなかった。
竜君と樋口の結婚は先輩としてお祝いすべきものなのに、とても
そんな気分にはなれそうにもない。
肩を落としたまま社員通用門を出て、何となくボーっとしてマジ
ェスティクラブに向かっていると、後ろから北村さんの声がした。
「おぅ、久しぶりだなお嬢」
振り返ると優しい食パンマンそっくりの顔があった。
この北村さんも私の素性を知る数少ない人のうちのひとりだ。
ベーカリーの元責任者で、ファイブスターで焼かれる総てのパン
の責任者だった人だ。
私がここで働いている原因となった人物、と、言っても過言では
無い。
幼い頃からこの北村さんの焼くブリオッシュが大好きで、北村さ
ー18ー
んの焼いたブリオッシュを食べてからと言うもの、他の人の焼いた
ブリオッシュでは満足出来なくなったのだ。
口に拡がるバターの風味と絶妙な食感。
橘和家の系列であるハーモニーホテルのパンは元より、ファイブ
スターで売っているブリオッシュでも、北村さんが焼いたものじゃ
ないと駄目で、幼い頃よく廻りを困らせていた。
私が泣いていると食パンマンそっくりの北村さんが、『はい、お
嬢ブリオッシュをどうぞ』と、直接焼きたてのを持って来てくれた。
今は定年になって、ベーカリーとは違う部署で雑用のアルバイト
をしている北村さん。
調理師学校の教員と掛け持ちで、週に何回かアルバイトをしてい
るだけの彼に会えるとは何とも運命的だ。
「北村さぁん」
私は無防備にも本心を曝け出すような顔を北村さんに向けた。
「ははぁーん、何かあったな。
お嬢がそんな顔をするときは大体嫌なことがあった後だ。
まぁ働いてりゃ色々あらあな。
ほぃ、ブリオッシュ。
俺が焼いたやつだから」
そう言って差し出された紙袋の包みを受け取った私は、思わず笑
顔になってしまった。
これから北村さんのブリオッシュが食べれると思うと、他の一切
の事が脳内からすっかり弾け飛んだのだ。
それよりも何故定年になった北村さんが、自分の焼いたブリオッ
シュを持っているのかが気になった。
「でも、北村さんこれファイブスターで焼いたの」
「そうなんだよ。
今日はな珍しく松涛の大奥様がいらしたみたいで、たまたま俺が
居たから、焼いてくれって言うからさ」
大奥様と言う北村さんの言葉が気に掛かり、私は思いついたまま
を北村さんに訊いてみた。
「ひょっとして松涛の大奥様って、花柄のジャケットに象牙のステ
ッキのお洒落なお婆ちゃまのこと?」
北村さんは食パンマンおの眼を丸くしながら返し来た。
「そうだよ、知ってたのかぃ。
あの大奥様も舌がしっかりしててね。
俺の焼いたブリオッシュじゃないと駄目なふたりのうちの、一人
なんだ。
もうひとりは目の前に居るけどね」
私は北村さんと喋っていて、知らないうちに何か嬉しくなってい
ー19ー
て頬が緩むのを感じていた。
「そっか、あのお婆ちゃまも北村さんのファンなんだ」
私が微笑むと北村さんも微笑んでくれた。
「いいねえ、笑顔になった。
冷めないうちに食べな、ブリオッシュ」
そう言って片手を上げながらクルリと向きを変えた北村さんであ
ったが、立ち止まると私の方を振り返った。
「何か縁があるみてえだな」
クロワッサンの入った紙袋を振りながら、私もすかさず返した。
「北村さんと私とはブリオッシュで繋がってるからね」
北村さんはにやってした後でさらりと言い放った。
「俺とじゃなくて松涛の大奥様とお嬢がだよ。
じゃ、またな」
北村さんの意味深な言葉を噛み締めている間は、そのこととクロ
ワッサンのことで頭がいっぱいだったけど、暫くすると竜君と樋口
香奈子の結婚のことが脳裏に蘇った。
気が付くと肩を落とした私は、美夕の待つマジェスティクラブへ
脚を引き摺りながら向かっていた。
よし、こうなったら吉田さんを何とか言い包めて、美夕と一緒に
朝まで呑むぞぉーっ。
ー20ー
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