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花を踏む男【ショートショート】
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どうしてこんなことをしてしまったのだろう?
私は頭を抱えていた。目の前には妻が倒れている。その首にはベルトが巻き付いている。私が巻いたのだ。私がベルトを締めたのだ。そう、私が妻を殺したのだ。
とにかく、このままにしておくことはできない。1日、2日くらいなら、妻の死を隠すこともできるかもしれない。風邪を引いて寝込んでいる、とでも言って。だが、いつかは妻の実家や職場の人が不審に思うだろう。ここはやはり、妻が失踪したことにするのが一番だろう。
私は決断し、立ち上がった。
どこか山奥に、遺体を埋めて来よう。できるだけ私と接点のない場所がいい。インターネットだと閲覧履歴が残るので、私は紙の道路地図を開き、1度も行ったことのない山を選び、ルートを確認した。
遺体を毛布に包み、車の後部座席に載せる。少し考えて、軍手、シャベル、懐中電灯、泥で汚れた手を洗うための水、着替えを用意して車に積んだ。私は家の戸締りをすると、車を発進させた。
カーナビを使うと検索履歴が残ってしまうので、あえてカーナビは使わずに道路地図を頼りに運転する。また、Nシステム――自動車ナンバー自動読取装置――にナンバーを記録されないように、幹線道路を避けることも忘れないようにする。
私はなぜ、妻を殺してしまったのだろう。
運転をしながら考える。
あんなに妻のことを愛していたのに。あんなに幸福だったのに。自分で自分が分からない。
高嶺の花、という言葉がある。遠くから見るだけで手の届かないもの、という意味だ。妻は私には高嶺の花だったのかもしれない。あるいは、高嶺の花であるべきだったのかもしれない。
遠くから見ているときが一番幸せだったような気がする。美しく聡明な妻を、私は持て余していたのかもしれない。
だが、だから殺した、というのは違う気がする。妻のことが憎かったわけではない。疎ましく思っていたわけでもない。それなのに、妻の美しい寝顔を見ているうちに、急に殺意の衝動が沸き起こり、抑えることができなくなってしまったのだ。
……まあいい。もう考えないようにしよう。妻を失ってしまった悲しみが、この手で妻の命を奪ってしまったという後悔が、増すだけだ。
山道を一時間ほど運転し、この辺でいいだろうという場所に辿り着いた。路肩に車を駐車し、軍手を嵌め、シャベルと懐中電灯を取り出す。道路から歩いて十数秒の場所に、懐中電灯の灯りを頼りに黙々と穴を掘った。空が白み始める頃には、どうにか深さ2メートルほどの穴を掘ることができた。
車から遺体を降ろし、穴に落とした。急いで土を被せ、野生動物などが掘り起こしてしまわないように、近くから大きめの石を転がしてきて穴の上に載せた。
用意しておいた水で手を洗い、再び車のエンジンをかけた。そして――気付いた。ガソリンが少ないことを示すランプがついていることに。
この辺りにガソリンスタンドはあっただろうか? 道路地図を開いて確認すると、数十キロ先までなかった。
とにかく、行けるところまで行こうと、車を走らせる。数分後に、ガス欠で動かなくなった。
「くっく……あははははは」
咽喉の奥から、狂った笑い声が漏れた。
こんなミスをするとは。手を洗うための水まで用意したくせに、ガソリンのことに頭が回らなかったなんて。
こうなってしまっては、どう足掻いても証拠が残ってしまう。警察は私が妻を殺して埋めたことに気付くだろう。
不意に、どうでもよくなった。散歩でもしてみようか、と思いつく。刑務所に入ったら自由に外を歩くこともできないのだから。
珍しい高山植物がたくさんあり、散歩は楽しかった。やがて朝になり、私は1人の男を見つけた。
その男は花の写真を撮っていた。声をかけようとしたとき、何と男はその花を踏み潰してしまった。一瞬、これはまずい相手かもしれないと思ったが、口から出かかった言葉を止めることはできなかった。
「おはようございます」
私がそう言うと、男は花を踏み潰した状態のまま足を止めた。どう反応していいのか迷っている様子だったので、私はもう1度おはようございますと繰り返した。
「お、おはようございます……」
ようやく、相手の男は挨拶を返した。
「実は、車がガス欠になってしまったのですが、ガソリンを分けていただけないでしょうか? もちろん、お礼はします」
私がそう言うと、花を踏んだことに対して声をかけたのではないと分かったのか、男は薄ら笑いを浮かべた。
「それはお気の毒に。しかし、残念ながら俺はここまでバイクで来たから、ガソリンを分けることはできませんね」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね。ところで、先ほどせっかく写真に撮った花を踏み潰していたみたいですが、どうしてそんなことをしたんですか? いえ、勘違いしないでください。別に咎めているわけじゃないんです。ただ、理由を知りたいだけでして……」
「理由ですか。そんなの決まってるでしょう」
「と言いますと」
「ここにこの花が残っていたら、例えばあなたのように俺の後から来た人も、俺と殆ど同じ写真を撮ることができるでしょう。それを防ぐために、花を踏み潰したんですよ」
そう言い残すと、男は足早に立ち去っていった。
私は無残に潰された花を見ながら、そういうことだったのか、と納得した。
あの男は、美しい高嶺の花を永遠に独占するために踏み潰した。
私も同じ理由で妻を殺したのだ。
【了】
私は頭を抱えていた。目の前には妻が倒れている。その首にはベルトが巻き付いている。私が巻いたのだ。私がベルトを締めたのだ。そう、私が妻を殺したのだ。
とにかく、このままにしておくことはできない。1日、2日くらいなら、妻の死を隠すこともできるかもしれない。風邪を引いて寝込んでいる、とでも言って。だが、いつかは妻の実家や職場の人が不審に思うだろう。ここはやはり、妻が失踪したことにするのが一番だろう。
私は決断し、立ち上がった。
どこか山奥に、遺体を埋めて来よう。できるだけ私と接点のない場所がいい。インターネットだと閲覧履歴が残るので、私は紙の道路地図を開き、1度も行ったことのない山を選び、ルートを確認した。
遺体を毛布に包み、車の後部座席に載せる。少し考えて、軍手、シャベル、懐中電灯、泥で汚れた手を洗うための水、着替えを用意して車に積んだ。私は家の戸締りをすると、車を発進させた。
カーナビを使うと検索履歴が残ってしまうので、あえてカーナビは使わずに道路地図を頼りに運転する。また、Nシステム――自動車ナンバー自動読取装置――にナンバーを記録されないように、幹線道路を避けることも忘れないようにする。
私はなぜ、妻を殺してしまったのだろう。
運転をしながら考える。
あんなに妻のことを愛していたのに。あんなに幸福だったのに。自分で自分が分からない。
高嶺の花、という言葉がある。遠くから見るだけで手の届かないもの、という意味だ。妻は私には高嶺の花だったのかもしれない。あるいは、高嶺の花であるべきだったのかもしれない。
遠くから見ているときが一番幸せだったような気がする。美しく聡明な妻を、私は持て余していたのかもしれない。
だが、だから殺した、というのは違う気がする。妻のことが憎かったわけではない。疎ましく思っていたわけでもない。それなのに、妻の美しい寝顔を見ているうちに、急に殺意の衝動が沸き起こり、抑えることができなくなってしまったのだ。
……まあいい。もう考えないようにしよう。妻を失ってしまった悲しみが、この手で妻の命を奪ってしまったという後悔が、増すだけだ。
山道を一時間ほど運転し、この辺でいいだろうという場所に辿り着いた。路肩に車を駐車し、軍手を嵌め、シャベルと懐中電灯を取り出す。道路から歩いて十数秒の場所に、懐中電灯の灯りを頼りに黙々と穴を掘った。空が白み始める頃には、どうにか深さ2メートルほどの穴を掘ることができた。
車から遺体を降ろし、穴に落とした。急いで土を被せ、野生動物などが掘り起こしてしまわないように、近くから大きめの石を転がしてきて穴の上に載せた。
用意しておいた水で手を洗い、再び車のエンジンをかけた。そして――気付いた。ガソリンが少ないことを示すランプがついていることに。
この辺りにガソリンスタンドはあっただろうか? 道路地図を開いて確認すると、数十キロ先までなかった。
とにかく、行けるところまで行こうと、車を走らせる。数分後に、ガス欠で動かなくなった。
「くっく……あははははは」
咽喉の奥から、狂った笑い声が漏れた。
こんなミスをするとは。手を洗うための水まで用意したくせに、ガソリンのことに頭が回らなかったなんて。
こうなってしまっては、どう足掻いても証拠が残ってしまう。警察は私が妻を殺して埋めたことに気付くだろう。
不意に、どうでもよくなった。散歩でもしてみようか、と思いつく。刑務所に入ったら自由に外を歩くこともできないのだから。
珍しい高山植物がたくさんあり、散歩は楽しかった。やがて朝になり、私は1人の男を見つけた。
その男は花の写真を撮っていた。声をかけようとしたとき、何と男はその花を踏み潰してしまった。一瞬、これはまずい相手かもしれないと思ったが、口から出かかった言葉を止めることはできなかった。
「おはようございます」
私がそう言うと、男は花を踏み潰した状態のまま足を止めた。どう反応していいのか迷っている様子だったので、私はもう1度おはようございますと繰り返した。
「お、おはようございます……」
ようやく、相手の男は挨拶を返した。
「実は、車がガス欠になってしまったのですが、ガソリンを分けていただけないでしょうか? もちろん、お礼はします」
私がそう言うと、花を踏んだことに対して声をかけたのではないと分かったのか、男は薄ら笑いを浮かべた。
「それはお気の毒に。しかし、残念ながら俺はここまでバイクで来たから、ガソリンを分けることはできませんね」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね。ところで、先ほどせっかく写真に撮った花を踏み潰していたみたいですが、どうしてそんなことをしたんですか? いえ、勘違いしないでください。別に咎めているわけじゃないんです。ただ、理由を知りたいだけでして……」
「理由ですか。そんなの決まってるでしょう」
「と言いますと」
「ここにこの花が残っていたら、例えばあなたのように俺の後から来た人も、俺と殆ど同じ写真を撮ることができるでしょう。それを防ぐために、花を踏み潰したんですよ」
そう言い残すと、男は足早に立ち去っていった。
私は無残に潰された花を見ながら、そういうことだったのか、と納得した。
あの男は、美しい高嶺の花を永遠に独占するために踏み潰した。
私も同じ理由で妻を殺したのだ。
【了】
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