ミッドナイト・レイダース

ジントニ

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混濁する日常

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 天井の照明が等間隔に並び、薄く黄色い光が列をなしている。大学の講義室の前列では数人の学生が真面目にメモを取り、後方に行くほど集中力が散漫になっていく普段の風景が広がる。金曜午後二時過ぎの授業で、窓から差し込む気怠い斜光が埃っぽい空気を浮かび上がらせている。

「……君、……西野君!」

 最後尾の中央左側に座った悟は、ノートPCを開いたまま机に突っ伏し、両腕を枕にしている。周囲のざわめきと教授の声が遠くから届くが、ほとんど耳に入っていない。覚醒と眠りの浅い淵を彷徨いながら、彼の体がピクッと動く。その時──。

「……っ」

 左の二の腕にチクリと軽い痛みが走る。反射的に飛び起きると、すぐ隣の席で肘をついていた友達の晴翔はるとが悪戯げに笑っていた。右手の人差し指で悟に刺したばかりのシャープペンをくるくる回している。

「寝癖すごいぞ。それに今の教授の問題、お前が答えないといけない流れになってる」

 晴翔の茶髪が照明を受けながら揺らめく。いつもの人懐っこい笑顔を悟に向けてから、顎で教壇を示した。教授は目を逸らさずに悟を待っている。

「ま、答えなんて起きてる俺も分からんから。適当に返事しとけ」

 親友が小声で笑う。

「……サンキュな、晴翔」

 声がかすれて上手く出なかった。前髪を押さえて、ノートPCを置く位置を変えつつ椅子に座り直す。晴翔が言った通り、指名待ちの緊張感が教室を支配していた。教授の低い声が響く。

「では……西野君。答えてもらえますか?」

 名前を呼ばれた瞬間、意識が鋭く現実に引き戻された。クラス中の視線が自分に集中するのを感じる。背筋が冷たくなった。乾いた唾を飲み込む音が耳に残る。

「すみません……分かりません……」

 教授は眉をひそめ、しばらく教壇で黙考した後、軽くため息をついて次の学生を指名した。張り詰めていた空気が緩み、一瞬講義室を支配した緊張感は再び解けてゆく。
 それを見届けた悟は肘をついて再びうつらうつらと船を漕ぐ。隣で晴翔が苦笑しながらこちらを見ているのがわかるものの、瞼は重くなっていく。どうしても睡魔に抗えない自分が居た。



「なぁ悟、最近なんかあった?寝不足みたいだけど」
 授業終了のチャイムが鳴るや否や、晴翔が声を掛けてきた。陽気で快活なその声には、今は少し心配が滲んでいる。

「あー……ゲームのせいかな。先月出た新作PvPゲーがあってさ」

 軽薄な笑みを貼り付けて言う悟の目に、隠し切れぬ虚偽がチラついた。大学1年からの付き合いの晴翔は納得した様子もなく一瞬眉を寄せる。しかし次の瞬間、

「……バカすぎ!まぁ、どーせそんなことだと思ったけど?」

 晴翔がいつもの調子で明るく笑う。眩しい笑顔だ。悟の様子を見て、あえてこれ以上追及しまいと配慮した親友への罪悪感がのしかかる。しかし、寝不足の本当の理由など到底言えるはずもなかった。

「とにかく、睡眠不足は良くないぞ」
「おう……明日から少し控える」
「…約束な?」

 晴翔が冗談めかして拳を突き出してくる。悟はそれに軽く拳を合わせた。普段通りの友情の温かさが、今は一番助かった。


──────


 あの夜、沈む意識の中で、最初に感じたのは腕に装着したシャドウギアがほのかに発光する淡い紫の光だった。その微かな温度上昇と共に──全身が水中に沈むような浮遊感に包まれる。重力が消失し視界が歪み始めた刹那、最後に捉えたのは月光を浴びて輝く蒼い装甲の輪郭。ブルーファルコンが自分に向けて何か呟いた気がしたが、その言葉を聞き取ることはできなかった。

 自動転送の最中はどうしても好きにはなれない。脳裏に無数の星屑が舞い散り意識が霧散していく感覚。デバイス所有者が行動不能に陥った場合に危機回避目的で緊急起動するこの身体転送システムの作動時には、肉体と魂が乖離するような不快感があり必ずといっていいほど吐き気に襲われる。
 今回も例外ではない。自分の全身がデータに分解され骨格がバラバラになったような喪失感と、膨大な構築作業と共に再生する肉の引き攣れ──それらが全て終わった後、悟は自室のベッドに横たわっていた。

 
 カーテンの隙間から差し込む朝陽が瞼を刺す。枕元のスマホのアラームのスヌーズ機能が午前8時15分を告げていた。普段通りの平穏な朝。着衣は昨日着ていたパーカーとジーンズ。自動転送後はブラックパンサーの変身が強制解除され通常装備に再換装される仕様だ。だが身体は明らかに異常を訴えていた。

 まず喉の渇き。口内が干涸びて酷く脱水している。続いて全身の痛み。まるで愛車のフルカウルに跨って一日中ハードな長距離ツーリングをしたあとのような節々の軋み。特に腰から下は骨盤ごと砕けたのではないかと思うほどだ。指一本動かすのも億劫でベッドに転がったまま深い吐息を洩らす。それでもなんとか上半身を起こすと視界が揺らいだ。

「……っ」

 額を押さえると汗の粒が掌に滴る。額だけでなく背中にも首筋にも汗がべったりと張り付いていた。昨夜の一件で心身が極限まで消耗していたことを思い知らされる。
 一歩踏み出すたび膝が笑う。ようやく辿り着いたキッチンで冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しキャップを開ける。透明な液体が喉を通る際、僅かに体の芯が震える。
 シャドウギアのディスプレイをチェックすれば「EMERGENCY TELEPORT LOG:02:59(AM)」と記録されていた。ブルーファルコンの腕の中で意識を失ったあとすぐに転送されたらしい。それ以上の詳細ログは閲覧権限がないため表示されなかった。

『システムが正常に作動した……よかった』

 ホッと息をつくと同時に虚しい諦念が胸に広がる。もしこの身体自動転送システムが作動せず、あのまま放置されていたら?自分達は互いに敵戦闘員を"排除"する前提ミッションの下にある。正義と悪の隊員に課せられた基本ルールだ。憎み合う宿命の中、身体のみならず命まで奪われていたかもしれない。

──助かった。それなのに身体は喜びより疼きを覚えている。

 シャワーにかかろうとジーンズのファスナーを下ろす。下着越しに触れた性器は萎えていたがその奥の腹腔が妙に熱を持っていた。臍の下を中心にじくじくとした火種が燻っている。昨日のブルーファルコンの怒張が埋め込まれていた部位が未だ疼いているのだ。内股を閉じると臀部の筋肉が引き攣れ鋭い痛みに襲われ、思わず壁に寄りかかる。

「……痛っ…!」

 左右の内腿に鋼鉄で引っかいたような痕を見つけた。おそらくブルーファルコンが掴みすぎたせいで跡がついたのだろう。それほど強い膂力を加えられていたのかと今さら理解して寒気が走る。だが怖れよりも甘い疼痛として刻みつけられている事実に混乱と羞恥を覚えてしまう。

 洗面台の前に立つと、鏡に写った姿は更に惨憺たるものだった。泣き腫らした目元。頬は湯当たりしたように赤く上気していて、胸鎖乳突筋から鎖骨、胸、そして下腹にかけて愛咬と痣の印が咲き乱れている。昨夜のセックスの激しさと、男の下でがった自分を思い出させる何よりの証拠だった。


「……ッ!」

 自己嫌悪で頬を殴りたくなる。こんな姿を他人に晒したら間違いなく異様な目をされるだろう。大学の仲間にだって、絶対見られるわけにはいかない。
 慌てて浴室に入りシャワーの栓を全開にする。何度も熱い湯を顔に浴びせかけるうちにようやく思考がクリアになっていった。けれど身体は容易に鎮まってはくれない。温かい水流が肌を伝うたび敏感になった皮膚が反応しビクッと震えてしまう。
 湯気の中で汚れを落とそうと肌をまさぐるたび昨晩の記憶が燻る。シャワーヘッドを臀部に当ててボディソープを泡立てながら慎重に秘処に触れると、腫れぼったい後孔は透明な液体を滴らせながらまだわずかに熱を帯びていて、指先で触れただけで切ない収縮を繰り返した。一夜でこんな浅ましい身体にされた事実に目眩がする。

「くそ……っ」

 心を無にして体内に残る男の痕跡を掻き出しながらも、熱いシャワーの湯気の中で呟く声は熱気で潤み震えていた。時間は朝の9時半を回っている。遅刻は確定だが、大学に行かなくてはならない。濡れた髪が額に貼り付き、身体は依然として熱いまま。それでも──一刻も早く日常に戻らなくてはならない。

 浴室のドアを開けると冷えた空気が流れ込んできた。タオルで雑に髪の毛を乾かし、水滴を拭いながら、首筋や胸元に残された痕跡を覆い隠すために急いで長袖のアンダーシャツを着て、さらにクローゼットから引っ張り出した紺色のプルオーバーを羽織る。鏡越しに姿を確認すると──見た目だけならいつもと変わらぬ大学生の自分がいた。


 そのまま、数日間、大学、アルバイト先と外では何事もなかったかのように上手く過ごした。しかし、毎夜、ベッドに入る瞬間だけは、そうはいかなかった。
 照明を落とした寝室で布団に潜り込む。遮光カーテンの隙間から漏れる街灯の灯りがかすかに天井を照らしている。ベッドサイドのランプも点けず、真っ暗な空間で一人目を瞑った。

 思い出すわけにはいかないと強く願う。なのに暗闇は記憶の蓋を否応なしに開きにかかる。

アーマーの指先で乳首を挟まれた時の冷たい痛みと痺れ。
唇を割って侵入してくる唾液を纏った舌の動き。
──そして奥深くに打ち込まれる熱杭が肉襞を抉る衝撃。

 記憶の残像が鮮やかすぎて思わず喉を詰まらせる。枕に顔を埋め感情を抑え込むが腹部の奥で熱が燻り始める。内股をこすり合わせる度に臀部の筋肉が疼きを訴える。あの蒼い装甲に貫かれた瞬間の充溢感を求めて腸壁が痙攣する。

『何を考えてるんだ、俺は……』

 ピンチに乗じて自分の身体を弄んだ男への嫌悪感とドス黒い復讐心が激しく渦巻く。しかし、理性で拒絶しようとすればするほど身体は熱を帯びてしまう。布団の中で裸足の指が丸まり背中が弓なりに反る。油断すれば下腹に伸びかけた手を慌てて堪え、シーツに爪を立てる。悟は唇を噛んで眉を寄せ、ギュッと目を瞑り今にも再び火がついてしまいそうな身体をやり過ごし、眠れぬ夜を過ごした。寝不足の身体を引きずり、金曜日の講義を受け終わり、あと少しで──ようやく週末が訪れる。



 アルバイトの時間になんとか間に合って、同僚に挨拶する。鏡に映った自分の首筋の一部がまだ微かにほんのり赤いのを見つけ、制服に袖を通す指先が微かに震えた。気のせいと割り切って、制服の襟でどうにか隠す。

 悟が働くこのコンビニは特別待遇でも高時給でもない。ただ、大学の最寄り駅から2区間離れた乗換駅に隣接しており、曜日次第では授業帰りに直行できる中途半端な距離が妙に都合よかった。繁華街やオフィス街とも連絡が良く、周辺には商業ビルやビジネスホテルなどが立ち並び、ビジネスマンから観光客まで、訪れる客も様々だ。

 夕暮れが濃い闇へ変わる寸前の時間帯。ストアの店内はLED照明が人工的な明るさを放っていた。時刻は午後7時40分。勤務開始から1時間半以上が経過し、ようやく客足が落ち着き始めたところだ。

「ありがとうございましたー」

 今購入したペットボトルの蓋を開けながら店を出る恰幅の良い中年男性を視線の先で見送ったところで、機械的に繰り返していたお辞儀の動作を一旦止め、息を吐く。
 今日のシフトは金曜の夜にしては比較的楽そうだ。少なくともこの時間までピークタイム特有の殺伐さはない。レジカウンターの後ろで冷蔵ケースが稼働する低い唸りを背景に悟は肩の力を抜こうとした。

 その時。

 自動扉が開き、「ピンポン」という電子音が店内に響く。

 反射的に笑顔を作る。視界に入ったのはスーツ姿の若い男性客だった。
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