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悪夢が忘れられないの
しおりを挟む相変わらず続く残業の日々。
誠君に送ったDEIMの最後のメッセージには、「仕事が落ち着いたら連絡ください!」とだけ返ってきた。
文面だけ見ればいつも通りのはずなのに、どこか気を遣ったような、お世辞めいた優しさを感じてしまう。
——本当は、「もう連絡しないでください」って意味なのかもしれない。
ぐるぐると回る嫌な思考が、日々を少しずつ濁らせていく。そして、追い討ちをかけるように別の通知が届いた。
『なんか、ゆかり諦めないんだけどさ……話だけでも聞いてやったら? 迷惑かけられたのもわかるけどさ』
「……はぁ、本当に勘弁してくれ……」
“ゆかり”。
その名を目にするたび、胸の奥が鈍く痛む。
彼女は俺の元恋人——いや、元婚約者なのだ。
大学四年の春に付き合い始め、気づけば五年が過ぎていた。俺は彼女にプロポーズをし、彼女は綻ぶような笑顔で頷いた。自分にはもったいないほど綺麗で、優しくて、穏やかで——本当に、幸せ者だと思っていた。
結婚指輪を買い、互いの両親に挨拶を済ませ、式場を押さえ、招待状も投函した。あとは二人で、少しずつ式の準備を進めていこう——そう話していた矢先。
彼女は、浮気をした。
結婚式の一ヶ月前に。
相手は、俺の会社の先輩。二人で暮らしていた部屋に、堂々とその男を連れ込み、俺たちのベッドで——。
今でも、あの光景を思い出すと吐き気がする。
どうして、という言葉さえ出てこなかった。頭が真っ白で、現実を理解しようとする脳の動きすら止まっていた。「違うの!」と泣く彼女の声。「お前、出張行ってたんじゃ……」と焦る先輩の声。それらを聞きながら、俺の頭の中ではまったく別の思考が渦巻いていた。
——結婚式はどうなる?——彼女はなぜ裸なんだ?——招待状はもう送った。会社にも報告した。——どうして先輩がここにいる? 両親に、なんて言えばいい?——どうして、この二人はセックスをしている?
感情と理性の境目がぐちゃぐちゃに崩れ、気づけば俺は先輩を帰らせていた。彼女と、二人で話をしようと思ったのだ。
深夜の部屋は、異様なほど静かだった。いつもなら暖かいはずの空気が、鉛のように重く沈んでいた。どうしたら元に戻れるのか。どうすれば取り戻せるのか。俺は必死に考えていた。
だが——彼女は違った。
「……結婚、やめよ」
「……は?」
あまりにもあっけなく、彼女は言った。俺は言葉を失い、それでも何か言わなければと喉を鳴らす。
「……や、でも……」
「本当は嫌だったの。あなたと結婚するの」
「……」
「給料も少ないし、頼りないし……何より、あなたって面白くないのよ。毎日が退屈。浮気だって本当はしたくなかった。でも、あなたがあまりにもつまらないから、こうなったのよ。
——私に浮気させたのは、あなたのせいよ!」
その言葉を聞いた瞬間、怒りよりも先に、自分の中で何かが静かに折れた。自尊心の低い俺は、「そうなのかもしれない」とどこかで納得してしまっていた。
「結婚式のキャンセル、あなたがやってよね」
そう言い捨て、彼女は寝室へ行き、少しの荷物をまとめて出ていった。放心したまま、俺はただその背中を見送るしかなかった。
——そこからは、本当に地獄のような日々だった。
式場のキャンセル、招待状を送った人々への連絡、謝罪、会社への報告。だが、なぜか社内では“俺が原因で破談になった”という噂が広まった。おそらく、あの先輩の仕業だろう。それでも、俺には何も言い返す気力が残っていなかった。
両親にも、彼女の両親にも頭を下げ、罵声を浴びせられた。そのころには、もう心も体も限界だった。耳が聞こえなくなったり、過呼吸を起こしたり、最終的には倒れて医者から休職を勧められた。
結局、休職期間が明けても会社には戻らず、逃げるように退職。家族の目からも逃げるように引っ越し、ようやく落ち着いたのが今だ。
——なのに、どうしてまた、あいつの名前を聞かされるんだ。
「話がしたいって……何の話をしたいんだよ。今さら、何年も経って……慰謝料でも請求する気か?……冗談じゃない」
今ならもう、あの出来事を“自分のせい”だなんて思わない。浮気をした方が悪い。そう言い切れる。それでも——一秒たりとも関わりたくなかった。
もう二度と。
だから、俺は沈黙を貫くと決めた。
……はずだったのに。
「っ、公孝くん!」
久しぶりに早く上がれた日のことだ。会社のエントランスを出た瞬間、聞き覚えのある声が空気を震わせた。振り返りたくない。その一心で足を止めたが、体が石のように固まって動かない。カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。
「公孝くん……ごめん。迷惑なのはわかってる。でも、どうしても謝りたくて……怒ってる?」
目の前に回り込み、俺を見上げたその顔。あんなにも会いたくなかった女——ゆかりだった。
ひゅっと喉が鳴りそうになる。大丈夫だ、落ち着け。
ゆっくり深呼吸をして、改めて彼女を見る。相変わらず綺麗な顔立ち。潤んだ瞳で、今にも泣き出しそうに見上げてくるその表情は——まるで悲劇のヒロイン。
「……どうして、俺が勤めてる会社、知ってるの?」
「あ、ゆうと君に……。っ私が無理言って教えてもらったの! 彼は悪くないから、怒らないであげて……!」
——あいつか。大して仲良くもない同級生。そいつも、誰かから聞いたんだろう。余計なことをしてくれる。
「それで、何? もう謝罪はいいよ。……過ぎたことだし。だからもういい?」
できることなら、俺の前に現れないでいてくれた方がずっと優しさだ。謝られたところで、何も戻らないのだから。
彼女の返事を聞く前に横を通り過ぎようと一歩踏み出すが、彼女はそれを許さなかった。
「っ待って! 待って……あの、あのね、少し……少しだけでも話さない? ご飯! 夕ご飯まだでしょ? 一緒に食べようよ!」
「いや、俺は——」
行かない。そう言おうとしたその瞬間、彼女は俺の腕を掴み、「ここら辺に美味しいご飯屋さんあるの! 私、調べてきたんだ! 行こ!」っと強引に腕を引かれる。明日も朝早いのに、面倒だ。俺はお前とじゃなく、誠君と飯に行きたい。
振り払う気力もない俺は、ただ引っ張られるままに歩く。これが誠君なら、どれだけ良かっただろう。あの子になら、喜んでついていくのに。
誠君が恋しい。
誠君——君の声が聞きたい。
電話したら、出てくれるだろうか。
疲れ切った脳みそが、何度もその名前を反芻する。ポケットのスマホが震え、現実に引き戻された。仕事の連絡かと思い、慌てて画面を開く。
『キリトが配信を始めました。「あずさんとコラボ配信!」』
(……あぁ、誠君、他の人とコラボしてるのか)
別に、誰と配信しようと彼の自由だ。なのに、胸の奥がざらつく。
(俺は他の人とのコラボはダメって言ったくせに……)
「公孝君? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
スマホをポケットにしまい、「店は?」とだけ言うと、ゆかりは嬉しそうに「こっち!」と俺の腕を掴んだ。
力の抜けた腕を、そのまま引かれる。
どうでもいい。
もう、なんでもいい。
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人は都合がいいものです。
こーゆー暗い部分書いてる時が一番か二番目くらいに楽しいんだから(笑
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