凄腕女鍛冶師は氷の騎士の心を溶かす〜冷酷と噂の騎士様、本性はデロ甘でした〜

ひゅっげ

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焼けた鉄と、無表情な騎士

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 帝都の喧騒が遠く微かに聞こえる中、火床の中で赤く焼けた鋼が静かに唸りを上げる。
 汗をにじませながらハンマーを振るうたび、鍛冶場の空気はさらに熱を帯び、肌にまとわりつくような湿気が広がった。

 ガン、ガン、ガン。

 単調に思える音にも、強弱とリズムがある。
 鍛冶という仕事は、力任せに叩いて研げばいいってもんじゃない。熱の入り方、金属の性質、その日の湿度や風の通り道――全部、肌で覚えていく。道具に触れ、火と話し、鉄の声を聴く。

 私は、そうやって育った。

「……ふう」

 槌を置き、焼き上げたばかりの刃を水に浸けると、ジュウッと鋭い音が響く。蒸気がもうもうと立ち昇り、私の頬を撫でていった。
 目を細めて仰いだ天井の梁には、煤がこびりついて黒く変色している。帝国の首都・ラグレーゼの片隅、この古びた工房で私は今日も一人、鉄と向き合っていた。

 祖父の代から続く鍛冶屋《ヴァルツァ・アイアン》。
 父も母も流行病と戦争で早くに亡くなり、私は祖父の背中を見て育った。
 そして祖父が亡くなったあと、私は工房を継いだ。女が鍛冶屋をやるなんて、と笑われたこともある。けれど、私は折れなかった。祖父の誇りを守りたかったし、私自身が、この仕事を愛していたから。

 そうして帝国の片隅で、ただただ黙々と鉄を打ち続けて――もう十年近くになる。弟子にしてほしいと物好きな少年や若者が訪ねてきたりもしたけれど、私の元では不便が多いだろうと全て断っていた。

「んー、そろそろ昼か……」

 額の汗を拭いながら、壁の影にかけた上着を取ろうとした、そのとき――

 ギィ、と扉の木がが鳴った。

「……今日は早い来客ね」

 いつもなら午後になってからのほうが客足は多い。
 昼前に訪ねてくるのは、急ぎの武器の修理かもしくは気まぐれか。

 上着を羽織って工房の手前に出ると、そこには一人の男が立っていた。
 黒い軍服に身を包み、長身でがっしりとした体格。短い黒髪は後ろへと撫で付けられ、鋭く光るアイスブルーの瞳は見るからに几帳面そうな雰囲気だ。腰には剣が添えられ、無駄な装飾のない一見すると地味なそれは、実践用だろう。剣とは打って変わって、軍服の襟元や袖口には銀色の華やかな装飾が施され、なんとも高貴な装いだった。

 ――騎士ね。それも相当な階級の。

「珍しい来客ね」

 そう口にしたとき、男の視線が私に向けられた。

「……ここが“ヴァルツァ・アイアン”か?」

「ええ、そうよ。用件は?」

 古びた木のカウンター越しから間髪入れずに返すと、男は小さく顎を動かした。無駄な言葉がない。
 彼は腰の剣に手を添えると、それをスッと引き抜いた。
 見事な造りだった。だが、刃の一部がわずかに欠けている。どうやらかなりの力で無理な斬撃をしたらしい。

「修理を頼みたい。急ぎで」

 低く、よく通る声。
 その声音には、命令の響きがあった。でも私は、媚びたりはしない。こんなの慣れている。ここに初めてくる剣士達は皆一様に、彼のような態度を見せるからだ。
 それらの原因は往々にして、“女だから”という疑い、興味、嫌悪ーーー。そういったものだった。

「剣を見せて。判断するのはそれから」

 私が手を差し出すと、男は一瞬だけ視線を細め、それから剣を渡してきた。
 重みと質感からして、帝国製の特注品だ。刃の芯材は良質な鋼、でも――

「……ふぅん。これ、かなり無茶な使い方してるわね。一体どんな敵と戦ってるの?」
「反乱軍。魔導兵、魔獣。裏切り者……いろいろだ」

 感情のこもらない声。敵の姿形なんてどうでもいいと言うふうだった。

「……で、名前は?」
「王属騎士団、デュラン•ベルナール」

 ああ、なるほど。どおりで空気が張りつめてると思った。
 帝都の淑女の間で噂の“氷の騎士様”じゃないか。思わず振り返ってしまうほどの美丈夫で、王からの信頼を一身に受けているともっぱらの噂だ。そんな彼に、帝国中の貴族が娘を差し向けては、彼に突き返されているとかなんとか。しかも理由が「興味がない」。
 その時の貴族令嬢の心情は想像に容易い。

 私は、剣を預かりながら噂の男をそっと見上げた。
 目の奥が妙に静かだった。まるで、自分の感情を押し殺すことに慣れすぎた男のような。

 そしてもうひとつ。
 私に向けられた、ほんの一瞬の――疑いの色。

「……ふーん。“細腕”の鍛冶屋じゃ、心配って顔ね」

 皮肉まじりに笑ってみせた。彼の眉が、わずかに動く。

「……そう思ってた。だが、それで評判が立ってるなら、理由はあるんだろう」
「へぇ、最初から素直にそう言えばいいのに」
「……悪かった」

 不器用な謝罪。それを聞いた瞬間、私は少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ、夕方までには仕上げておくわ。急ぎなんでしょ?」
「……頼む」

 短くそう言って、デュランは踵を返した。
 重たい扉が開き、閉じる。その背を見送りながら、私は心のどこかで不思議な余韻を引きずっていた。

 ――あの目。
 ただ冷たいだけじゃない。どこか、奥に押し込めたものがある。
 たとえば、激情。あるいは――孤独。

「変な男……」

 そう呟いて、私は火床の前に戻った。
 そしてもう一度、彼の剣を手に取る。

 ――打ち直してやる。この命を守る“相棒”として、もう一度、戦えるように。
 鍛冶屋としての誇りにかけて。


 夕刻。西の空が朱に染まり始めたころ、鍛冶場の火を落とす前に、私は最後の仕上げにかかっていた。

 金槌を手に、緩やかに、しかし確かに鋼を整える。
 不思議なもので、あの男――デュランの剣には使い手の性格が映っていた。
 硬く、重く、冷たい。けれど、芯には確かな強さがある。無駄のない造りは、持ち主の生き様を語っているようだった。

「よし……完璧ね」

 布で刃を丁寧に拭き、革の鞘に収めた瞬間。

 ――カラン。

 また、あの鈴の音。

「時間ぴったりね」

 工具を片づけ前室に出ると、案の定そこにはデュランが立っていた。
 黒い軍服の上着の前を開けたまま、背中には薄い埃を背負っていた。どうやら任務帰りらしい。
 目の下にわずかな疲れの影。それでも、その姿勢は乱れていない。

「できてるか?」
「ええ、ちゃんとね。見せてあげる」

 私は鞘を手に取り、彼の前ですらりと抜き放った。
 研ぎ澄まされた刃が、夕暮れの光を受けてわずかに青く光る。刃紋も美しく整っていた。

 デュランの目が、ほんの少しだけ見開かれる。

「……まるで新品だな」
「ふふ、新品より切れるわよ。芯まで傷んでたけど、ちゃんと鍛え直したから」
「……そうか」

 彼が手に取ると、剣はしっくりと馴染んだ。
 試すように軽く構えたその所作には、隙がなかった。私はつい、惚れ惚れと見てしまった。技術と鍛錬がなければ、ああは扱えない。

「手が覚えてるみたいに自然ね」
「……十年、使ってきたからな。俺の体の一部みたいなもんだ」

 その声に、かすかに温度を感じた。

「ありがとう」

 ふいに、デュランがそう言った。
 低く、真っ直ぐな声。目をそらすでもなく、こちらを真剣に見据えている。

 その瞬間、私は言葉を失いそうになった。
 無表情だった男の目が少しだけ揺れていた。微かに、でも確かに。

「……どういたしまして」

 そう返しながらも、私は内心、変な胸のざわめきを感じていた。

「お前の腕は本物だな」

 ああ、これだ。
 この目、この声。この男は、噂通りの冷酷な騎士じゃない。
 その仮面の奥に、真っ直ぐな“なにか”がある。誰かを守るために、冷たさを選んだような。

 私が何か言おうとしたそのとき、工房の奥から鉄の音が響いた。
 弟子なんていなければ、ほかに客もいない。つまり――誰かが勝手に踏み込んだということ。

「……ちょっと、待ってて」

 私はすぐに奥へと足を向けた。

 そこにいたのは、見覚えのある青年だった。帝都警備隊の若い隊士。以前、私が修理してやった剣の使い手だ。勝手口から勝手に入って来たのだろう。その扉が半開きになっている。

(ちゃんと鍵閉めておくんだったわ。)

「あれ、イリヤさん! やっぱりここだった!今日も綺麗だなぁ~って、あっ、いやその、また頼みたい修理があって……」

 まるで犬のように懐っこく距離感が妙に近い。
 私は思わずため息をつきながら、工具棚を指差した。

「剣を置いていって。手が空いたら見ておくわ」
「えっ、でももう少し……あ、ほら最近魔獣の襲撃多いじゃないですか? で、イリヤさんが心配で――」
「心配ご無用よ。仕事以外の話なら帰って。忙しいの」
「え、あ、はいっ!す、すみません!」

 あわてて敬礼して引き下がっていった彼の背を見送ると、私は再び前室に戻った。

 ……そのとき、デュランがまだそこにいたことに、ちょっと驚いた。
 
 (てっきり帰ったと思ってた。)

 でも彼はそこにいた。黙って目だけがじっと私を見ていた。
 その瞳の奥に――わずかに、苛立ちが滲んでいる。

「……あいつ、よく来るのか?」
「たまにね。修理の依頼が多いのよ」
「……ふん」

 短い返事。それだけで、なぜか部屋の温度が下がった気がした。
 無表情。でも、何かが違う。

 私は、つい笑ってしまった。

「なに、気になるの?」

 その言葉に、デュランの眉がぴくりと動いた。

「そう言うのじゃない」
「ふーん? そう見えたけどなあ」

 ほんの少しだけ、冗談っぽくからかってみた。

 彼は黙ったまま、わずかに目を伏せると、くるりと背を向けた。

「また剣が必要になったら、来る」

 そう言い残して、彼は工房をあとにした。

 でも――扉が閉まる直前、振り返ったその顔には、ほんの一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
 捨て犬みたいな目が宿っていた気がして、私は、胸の奥がちくりと痛んだ。

「……氷の騎士、か」

 誰があの男をそう形容したのだろう。
 私の目に映る彼は、甘えることをしらないような、ただの孤独な青年に見えて仕方なかった。


 
 あの日を境に、デュランは妙に顔を見せるようになった。

「また剣?」

 私が眉をひそめると、彼は真顔でうなずいた。

「使えば汚れる。整備は必要だろう」

 まるで当然だと言わんばかり。
 だが、さすがに週に三度も来るとなると話は別だ。

「そりゃあね。だけど、騎士団には専属の職人がいるでしょ? 帝都に私以外の鍛冶屋がいないわけじゃない」
「お前が一番、信頼できる」

 言葉に迷いがなさすぎて、こっちが照れる。
 私は火床に炭をくべながら、目をそらした。

「……口がうまくなったわね」
「事実を言っただけだ」

 不器用な真顔。
 この男、嘘が下手なんだろうなと、ぼんやり思う。
 けれど、その日から彼の訪問はさらに頻繁になった。

 一日おき。時には連日。剣の手入れだけではなく、柄の調整や鞘の補強、果ては「予備の短剣も見てくれ」と言い出した。

 ――気づけば、私は彼の道具一式の管理人のような扱いになっていた。

 ある日など、明らかに新品の短剣を手に現れて言った。

「……こいつ、なんとなく刃の付きが甘い。お前に見てもらいたい」
「買って一週間も経ってないじゃない。しかもこれ、王室御用達の鍛冶師の品だし。あのじいさん泣くわよ」
「信頼してるのはお前だけだ」

 真っ直ぐな目でそんなことを言うから、私は火か何かを飲んだように、胸の奥が熱くなった。
 それに訪れるたび、彼は少しずつ変わっていた。
 最初はただ、無表情で仕事の話だけをしていたのに。
 最近では「水、借りる」「手、洗っていいか」なんて、ちょっとしたことも口にするようになって。

 しまいには、こんなやりとりまで。

「イリヤ、さっきのあいつ……」
「ん?」
「若い兵士。あいつ、やけにお前に馴れ馴れしかった」
「ああ、あの子? この間の剣、また刃こぼれしてたからさ」
「……俺のより頻繁に修理してないか?」

 ちくりとした言い方に、思わず吹き出しそうになった。

「嫉妬?」
「ちがう」
「ふーん。じゃあ何?」

 彼は答えなかった。ただ無言のまま、拗ねた子犬みたいに視線を逸らす。

 その横顔を見て、私は思った。

(――この男、本当にわかりやすい)

 表情は少ない。言葉も多くない。
 でも、その目やしぐさ、沈黙の間に、すべてが滲んでいる。私の工房に通う理由も、もう分かっていた。
 剣のためじゃない。 
 
(きっと私のためだ。)

 けれど私は、それを指摘するのはやめておいた。
 なぜなら、私もたぶん――
 彼がここに来るたび、嬉しくなってしまっているから。
 しかしこんな感情を持っても相手は騎士様で、私は庶民。泣きを見るのは目に見えている。
 それならば付かず離れず、この心地よい関係がいつまでも続けばいいなんて、そんな少女じみたことを思っていた。

 それからさらに季節を1つ跨いで、夏に足をかけていた。
 デュランは相変わらず、ここに足繁く通っていた。
 通っていただけだったのだが。

 (最近、妙なのよね……)
 
  最初は、剣の受け渡しだけだった。
 鍛冶場の入り口で短く挨拶を交わして、手入れした武具を渡して、少しお話ししてはい終わり。そんな簡潔なやりとり。

 けれど気づけば、彼は私の作業が終わるまで、当たり前のように工房の片隅に腰を下ろすようになっていた。

「……待たなくていいのよ。終わったら届けるから」
「ここで待つ」

 ぶっきらぼうに返して、彼は火床から少し離れた壁にもたれかかる。
 その腕は相変わらず分厚く、無駄がない。鎧を脱いでシャツ姿のままでも、兵士としての存在感は圧倒的だ。
 だけど今の彼からは、かつて噂で聞いたような『冷酷な騎士』の印象は薄れていた。
 むしろ……やたらと、無防備だ。

 暑いだろうと水を渡せば、なんの躊躇いもなくそれを口に運び、私が表に出ようとするとのこのこと後を着いてくるし、挙げ句の果てには眠そうだからと、仮眠のつもりで貸した2階のベッドでぐうすかと泥のように眠っていた。
 その上、客と店員である以上、対価として金銭を頂くのは当たり前なのだが、この男、どこで覚えたのか少し前からさも当然のように果物やら花を持って来るのだ。
 さらにある日など、私が鉄を鍛つ槌の音の中、ふと気配を感じて振り返ると、彼は工房の床に置かれた道具箱を無言で整理していた。

「……何してるの?」
「散らかってたから」
「いや、これは私なりの配置っていうか――」
「覚えた。次からもこの通りにする」

 あんたは客だろう。勝手に手伝うな、と怒る気力も抜けてしまう。
 整然と並べられたハンマーと鑿の列を見て、私はため息をついた。

 (――手先も器用なんじゃないの。)

 そして、それが初めてじゃなかった。

 火床の炭を足してくれたり、水を汲んできたり。
 時には作業台の脚を黙って修理していたり。彼の存在は、まるで古くからの助手のようになっていた。
 
(……いや。助手よりも厄介かもしれない。)

 なぜなら時折、距離が近いのだ。

「袖、焦げそうだ。動くな」

 そう言って、覆うように後ろから私の腕を軽くつかむ。
 熱された鉄の近く、彼の手の温度はひどく冷たくて――一瞬、背中に小さな電流が走ったようだった。

「……別に平気よ。慣れてるし」
「慣れてても、危ないものは危ない」

 その口調が妙に低くて、耳に響いた。

 気づけば、彼の顔がすぐ傍にあった。
 無表情なはずのアイスブルーの瞳が、じっと私を見つめている。

 (……近くない?)

 言いかけた瞬間、彼がふいに手を離した。

「すまない」
「……ううん」

 私はうつむいて、火床の中の火を見つめた。
 熱いのは、目の前の炭なのか、それとも私の中に芽生えた埋み火なのか。



「イリヤさん、今日も艶っぽいねぇ。武具より目の保養に来てるんじゃないかって話よ?」

 若い騎士がからかうように笑いながら、カウンター越しに肘をついてきた。
 その後ろには数人の部下たち。うち数人は常連の顔だが、今日はやけに馴れ馴れしい。

「艶っぽいって……あんた、剣の柄に油でも差してなさいよ」
「へぇ、俺にも油差してくれんの?」
「差しすぎて滑って転ばせてやろうか?」

 冗談半分で返すと、彼らは笑いながら「それもいいね」なんてはしゃいでいる。
 私は手元の革の手袋を外しながら、内心では少し呆れていた。
 帝都の若い騎士たちは、女鍛冶師が珍しいせいか、どうにも反応が軽い。
 男の世界にいる以上、多少の軽口には慣れてるけど……今日は、少し度が過ぎてる。ようするに、

(鬱陶しい。)

「ほんとに、鍛冶屋じゃなくて酒場の女将みたいだな。なあ、今度飲みに――」
「…………」

 そこで、工房の扉がギィと開いた。
 初秋の冷たい風と一緒に、長身の男が現れる。

 黒髪、鋭い氷のような眼差し、重みのある足音。
 ――デュランだ。

 一瞬で空気がピリリと変わった。
 若い騎士たちが冗談を言いかけたまま、口をつぐむ。
 彼の姿を見ただけで、ざわついていた雰囲気が一気に収縮した。

「……デュラン殿。どうも」

 誰かがそう言ったが、デュランは返事をしない。
 ただ、無言でこちらを見ていた。

 私と、私の前に肘をつく騎士の位置を、まっすぐに歩いてくる。

「デュラン? 今日は――」
「剣の点検に来た。……すぐ終わるか?」

 いつも通りの低い声。でも、どこか硬い。
 私は軽く頷いて、若い騎士たちに向き直る。

「ごめんね、今日はちょっと忙しいから。また今度」
「あ……うん、了解。また頼むよ」

 気まずそうに頭を下げて、騎士たちはそそくさと帰っていく。
 私が作業台の裏へ回ると、デュランも静かに歩を進めた。

「……別に、何もなかったわよ?」

 先回りして言うと、彼は無言のまま、私の隣に立つ。
 視線は火床に落ちたまま。けれど、拳がやや強く握られている。

「……気にしてない」
「それにしては肩、こわばってるけど?」

 からかうように言えば、彼は少しだけ口元を引き結んだ。

 その仕草が、なんだか――すごく、わかりやすい。

(ああ、やっぱり……)

 私は心の中で小さく息を吐いた。
 彼は、自分でも気づいてないかもしれないけど。
 明らかに私のことを“ただの鍛冶師”とは思っていない。男性経験の少ない私でも、それはすぐに分かった。

 工房の中にはふたりきり。鉄の焼ける音も、今は止んでいる。
 私は火床の火をゆっくり落とし、背後の気配に意識を向けた。
 デュランはさっきらずっと黙っている。この微かに重い空気を打破しようと、いつものように振る舞った。

「さっきの、そんなに気に障った?」

 軽く言ったつもりだった。でも返事はなかった。
 工房の薄明かりの中、彼の気配が徐々に近づいてくるのを感じていた。鉄の匂い、燃える炭の温もり、木の床に響く重い足音。すべてが静寂の中に溶け込んで、私の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。

「……まさか、あんなのに嫉妬したの?」

 くす、と笑いながら振り返った瞬間。
 彼が、目の前にいた。まただ。あの時みたいに、近かった。
 ほんの十数センチ。呼吸が交わる距離。
 私は驚いて立ちすくむ。

「ちょっと、近いって……」
「――してない」
「えっ?」
「嫉妬なんて、してない」

 低い声だった。けれど、喉の奥で震えていた。
 まるで、自分に言い聞かせているように。

「気に入らなかっただけだ」

(世間ではそれを嫉妬って言うのよ……)

 彼の指先が、私の腰にそっと触れた。
 拒まないでいたらすぐにでも力を込めてきそうな、そんな手。心臓がどくんと跳ねる。

「あんな奴のために笑うな……」

 目が、真っ直ぐに私を見ていた。
 あの噂に聞いた『冷酷な騎士』の鋭さではなく、もっと、ずっと切実で、不器用な熱をたたえたまなざし。

「イリヤ」

 名前を呼ばれた瞬間、何かが胸に落ちた。
 その声には、抗えなかった。
 顔が熱くなって、思わず彼から顔を逸らす。

「……そんな顔もするんだな」

 喉が少しだけ震える。
 気づけば、私の手は彼の胸元をそっと掴んでいた。

 この先の言葉を口にしたら、もう引き返せなくなる気がした。
 けれど今の彼はそんなこと、とうに望んでいない顔をしていた。
 何かを伝えたいのに、言葉は喉に詰まってしまう。
 それでも彼は、まっすぐに私の目を見つめていた。その視線に吸い込まれそうになって、ついに彼が動いた。

 ゆっくりと、けれど確かな手つきで私の腰に添えられている手に、指先に、力が籠った。それを感じて、冷静だったはずの私の身体が震えた。
 逃げたい気持ちと、逆にこの距離に溺れたい気持ちが交錯して、混乱する心の奥で熱い何かが燃え上がる。

「イリヤ……」

 彼の低く震える声が、胸に刺さった。
 言葉よりもその震えが、彼の隠してきた感情の厚みを教えてくれる。

 その唇が、ゆっくりと私の唇へ触れた。

 柔らかく、温かい。今まで誰にも触れられたことのない繊細な感触に、体中の神経が一気に研ぎ澄まされる。
 息が重なり、時間が止まったように感じた。
 心臓が早鐘のように打ち、呼吸は荒くなるけれど、それでもこの瞬間を離したくない。

(ダメ、なのに……)
 
 私の手が自然と彼の肩に伸びて、引き寄せる。
 彼の身体の熱がじわじわと伝わり、思わず目を閉じた。
 目の前にいるのは、冷酷だと噂されたあの騎士なのに。今この瞬間だけは、彼がただひとりの、身分なんか忘れて、私だけの人になった。
 彼の唇が離れ、私の耳元に甘い囁きが落ちた。

「……離したくない」

 悔しいほどに、その言葉で私の全身が溶けてしまいそうだった。
 熱く、激しく、そして深く。
 私たちの関係が、いま確かに動き出した。
 
 
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