殺人鬼と綺麗な人形はやがて手を取り涙する

なつみかん

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犬生活編

人形は哀しみに諦めをおぼえた-6

「おはようございます」

ブルーシートで生活するようになり、四日目。

今日もキツネの差し出すご飯に首を振り、キツネを目だけで見送った後、眠りについた。

変化が訪れたのは昼下がり。

突然玄関が勢いよく開かれた。

常に何の動作にも殆ど音を立てないキツネではない。

「恭華ちゃん!!大丈夫?」
ドタバタと入ってきたのは稲荷だった。

ブルーシートの上に、鎖で繋がれた犬のような生活を強いられている恭華の姿を目にして、稲荷の眉根に皺が寄る。

手首に包帯、首には絞められた痕、頬は腫れ、尻も腫れて痣だらけ。

とても大丈夫には見えなかった。

何より、随分濁った。

真っ直ぐ透き通るような綺麗な目をしていたのに、たった四日見ないうちにその目は濁り切っている。

たった四日間でこうも変わるか。

しかしこの状況を見ればそれも頷ける。

見れば食事と水の器まで犬猫用。
全裸でトイレは犬用のトイレシート。

人間としての尊厳を完全に奪われている。

稲荷が恭華に近付いても、恭華は目を開け、顔を向けるだけで起き上がらない。

表情さえもない。

稲荷には必ず綺麗な笑顔を向けてくれていたのに。はにかむように笑ってくれていたのに。

恭華の前に屈み、恭華の上半身を起こす。

「?」
起こされた恭華が不思議そうに稲荷を見つめる。

「恭華ちゃん、ご飯食べてないんでしょ?キツネさんが食べさせてくれって、俺を呼んだの。恭華ちゃんの好きな物、何でも作るよ?何がいい?」
稲荷がふわりと微笑む。

恭華が生きていてくれて嬉しい。間違いなく殺されるだろうと思っていたから。

だからずっと会いたかった。だがキツネが許さなかった。

毎日、恭華の様子を報告というより自慢されていた稲荷は、恭華がどれほど酷い扱いを受けていたか知っていた。

恭華は小さく首を振る。

「…お腹減ってない?」
まさか恭華がご飯を食べないなど。

これは誰が見ても重症だ。明らかに憔悴しきっている。

ここ数日まともに食事をしていないと報告を受けているが、吐いた形跡がある。
ストレスだろう。

稲荷の問いに小さく恭華が頷き、稲荷の手を取る。

そして掌に弱々しく指で文字を書く。

「恭華ちゃん、声出ないの!?」
ストレスによる失声症。これはキツネからも報告を受けていない。稲荷の顔に苦渋の色が浮かぶ。

喋ることを禁止していたキツネ自身、この事実を知らないのだろう。

「し・な・せ・て?」

死なせて

恭華はそう掌に書いた。

顔が曇っていく稲荷に、コクンと頷く。

「ま、待って!俺は殺せないよ?」
キツネの命なく、恭華の命を奪うことなどできない。

何より恭華を殺したくなどない。

困惑する稲荷の掌に続ける。

「く・さ・り・は・ず・し・て?」
恭華が頷く。

元々、稲荷に殺してもらおうなど思ってはいない。

鎖さえ外してくれたら、後は自分で何とかする。

「鎖外してどうするの?ベッドで寝たいってことならいいけど・・・。もしかして、恭華ちゃん自殺するってことじゃ・・・ツライ思いをしたのは分かる。でももうちょっとの我慢だよ?」
稲荷の眉が限りなく八の字に下がっていく。
悔しい。恭華がこんなにも追い詰められているのに何もできない自分が。
悲しい。恭華が自分にしてくるお願いが、助けてでも殺してでもなく、死なせてだということが。
苦しい。恭華が最後まで見せる気遣いが。優しさが。

「キツネさんには内緒にしろって言われてるけど、元々一週間で恭華ちゃんを許すつもりだったんだよ。あと三日、あと三日我慢すれば許してもらえるから!!」

だから死ぬなんて言わないで・・・そう泣きそうに呟く。

恭華が静かに首を振る。

そうじゃない、そうじゃないんだ。

許される許されないの問題ではない。許されたところでは元には戻れない。

失ってしまったのだから。

稲荷の手をギュッと握り、震える指で綴る。

「た・の・む・い・な・り・・・・」
手を握る恭華に、稲荷も首を振る。

「恭華ちゃん、お願い、考えなお・・・」
言いかけて稲荷がハッとした。

恭華の頬に涙が伝っている。

何も見つめていないような、濁ってしまったその目から涙を流しているのだ。

何も言葉が継げなくなった稲荷が無言で鎖を手に取り、外してやる。

俯く稲荷の表情は恭華からは見えないが、肩が震えている。

鎖から解放された恭華は、そんな稲荷を抱きしめ、掌を取った。

あ・り・が・と・う・だ・い・す・き・・・・
そう静かに書き綴った。

「・・・恭華ちゃんっ!!待って、嫌だっ!!」
ポロポロと涙を流した稲荷が手を伸ばした時には遅かった。

恭華がよたよた立ち上がり、ふらふらでもしっかりと目的を持ってリビングへと駆け出していった後だった。

久しぶりに駆けた地はとても柔らかく、こんなにもフワフワとしていただろうかと恭華は思う。もしかしたら、間もなく解放される心身がそう感じさせているのかもしれない。

だがまだ走れたことに安心した。

涙を目に残したまま、リビングを突っ切り、大きな窓を開け放つ。

部屋同様に広いバルコニーを駆け出し、勢いを緩めず、ウッドダイニングに飛び乗り、そのまま一気に手摺を飛び越えた。

真っ青な空を見る。綺麗だ。空はこんなに澄んでいる。空はちっともあの頃と変わらないのに、随分綺麗に見えるのは自分の心が荒んだからか。

濁ってしまったからか・・・・。

でも

ああ、終わった。
やっと終われる。

長かった。
本当に長かった。

友人を奪われ、華々しい生活を奪われ、自由を奪われ、性暴力と力の支配に脅かされた恭華。

これだけ奪われて尚、人間としての尊厳を奪われ、表情を奪われ、生きる楽しみ食べる楽しみを奪われ、声を奪われた。

奪われ尽くされ、残るものなど何もない。

鎖で繋がれている間、死への切望、欲望、願望が膨れ上がっていった。

全てを奪った男にこれだけは絶対に奪わせない。

自分の命と心だけは。

自分で持っていってやる。

重力に逆らわず、ただひたすら風を切りながら落ちていく感覚に身を任せ、恭華は心で笑い、呟いた。

ざまあみろ、俺の勝ちだ、と。

たった一つだけの心残り、智輝を残して死に急いだこと。ごめん、智輝。さよなら智輝。

目を閉じ、静かに終わりを待つ恭華は黒い影に覆われたような気がした。
ようやく死神のお出ましか、と恭華は影を迎え入れた。
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