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序章

プロローグ

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 ミーン ミーン



 ぴょこぴょこ跳ねるローズレッドのランドセル。ひょこひょこ揺れるハート型の防犯ブザー。



 丘の上にある弥生神社の細い階段を、織田リノは一段とばしで上がっていった。



 肩より少し長く、ひとつに結んだ髪も、ランドセルと同じリズムで左右に揺れる。



 小学校から、校区の端にあるリノの家までは、神社を通り抜けるのが一番の近道だ。



 入道雲に、セミの声。
 階段の脇に咲くヒマワリ。
 肌を焼く日差し。
 夏休み間近となった水曜日の放課後のこと。



「あっつー……!」



 階段を上りきり、おでこの汗を腕でぐっとぬぐう。

 後ろをふり返ると、遠くに小学校が見える。
 今日の出来事を思い出し、リノはムッと唇をへの字に曲げた。



(サイアク。なにが『ガリ勉女なんて絶対モテない』よ。バカみたい)



 二酸化炭素の『酸』の字も書けなかったくせに。九九の七の段の後半で何度もつまずいていたくせに。天塩山地を『てんしおさんち』と読んだくせに。

 

 男子たちの笑い声が頭によみがえってきて、リノはべーっと舌を出した。教室ではぐっとこらえたけれど、人が見ていない今は遠慮などしない。

 とにかく腹が立ったのだ。



(私がモテたってモテなくたって、アンタたちに関係ないじゃない!)



 小学校からプイと目をそむけると、丘の麓に広がるレトロな商店街が見える。



 ポカポカ商店街。日だまりのような明るい商店街に、と願いがこめられているそうだ。願いも空しく、今は年中寒々とした風が吹いているが。



 リノの父親・織田達郎が働く喫茶店『タツロー』は、商店街の端のあたりにある。



 今日みたいに暑い日は、『タツロー』特製レモネードが飲みたくなる。

 しゅわっと口の中で炭酸が弾けて、うんと酸っぱい。あとで少し甘くなって、また思いきり酸っぱくなる。

 頭で考えただけなのに、口の中が痛くなって、唾がたくさん出た。



 夏の商店街のお祭りで、『タツロー』は店の前に露店を出す。



 毎年、リノは近所のきもの店でレンタルした浴衣を着て、手伝いに行っていた。

 片づけの前に達郎が作ってくれる、あのレモネード。

 露店では出さない特別な一杯だ。

 花火の最後の方を見ながら、家族皆で飲むのが毎年の楽しみだった。



 ミーン ミーン



 しばらく、リノは達郎に会っていない。



 母親の祥子と、父親の達郎は、庭にミニトマトの苗を植える頃にケンカをしたきりだ。



 家を出たのは達郎だが、達郎を追いだしたのは祥子である。

 祥子が許すまで、ケンカは終わらないだろう。



 達郎は、今、『タツロー』の二階に暮らしているはずだ。

 去年、リノが四年生だった春のケンカの時もそうだったので、今回もきっとそうしている。



(レモネードが飲みたいな)



 神社の森には、涼しい風が吹いていた。



 両親のケンカは、地震や台風と同じだ。

 どうすることもできない。ただ過ぎ去るのを待つだけである。



 商店街のお祭りは、明日に迫っていた。

 塾の夏期講習のある日だが、三時に終わるので、達郎の手伝いに行くこと自体は可能だ。



 だが、祥子は今、仕事が忙しい。もう五日も外に出ていないのだから、仲直りどころではないだろう。



(今年は無理かなぁ)



 ミーン ミーン



 考えてもしかたない。くるりと身体の向きを変え、リノはまた走り出す。 



 神社横の小道を抜け、トウモロコシ畑の横を通って住宅街に出た。



 畑を越えれば、家はすぐそこだ。アイボリーの壁にアンティークなダークブラウンの屋根。門のアーチには、コーラルピンクのバラ。庭の半分は家庭菜園で、緑のミニトマトがたわわに実っている。



 ピンポーン



 チャイムを鳴らす。家の中から、トントンと階段を下りてくる音が聞こえてきた。



 インターフォンが、プツ、と鳴る。



 リノが「ただいまー!」とモニターに向かって言うと『今開けるね』と祥子の声がした。



 カチャ、と鍵の開く音の後にドアが開く。



 祥子は「おかえり」と言いながら、ふわ、とひとつあくびをする。

 髪はボサボサで、目の下には、くっきりとしたクマがある。着ているのは、えりがヨレヨレになったグレーのTシャツ。下にはいているのは、柄だけおしゃれなウェストがゴムのズボンだ。



 〆切は日曜の夜。あと四日。

 作家の祥子にとって、作業は今まさにクライマックスなのである。



 太い黒ぶちメガネの奥の目をしょぼしょぼさせながら、祥子は「暑いねぇ」と言いながら手で日差しを遮った。



 リノは靴を脱いで、家に入った。



 家の中はひんやりしていて気持ちいい。ランドセルをいったん下ろして、洗面所へ。手を洗ったついでに顔も洗う。



 トン、トン、と祥子が階段を上がっていく。



「ママ。あと一人で大丈夫だよ。塾行くとき声かけるから。仕事してて」

「そうさせてもらう」



 はぁ、と階段の途中から、ため息が聞こえた。



 〆切前の祥子は、いつでも大変そうだが、今回は特に力が入っているような気がする。

 アイディアを出す時に、リノも手伝ったので、応援する気持ちは大きい。





 ――ずぅっと昔の、まだカミサマがいた頃の物語。



 主人公は、十三歳の女の子。

 カミサマの血を引いた戦士。

 王子様に助けてもらうふわふわしたお姫様じゃない。弓を引き、馬に乗る、強くてかっこいい戦士だ。



 長いハチミツ色の髪に、海の一番深いところの色をした瞳を持っている。



 名前もリノが考えた。――ミンネ。



 庭にあったミントを見て思いついた。女の子の名前だから、最後の音は、かわいい雰囲気に変えた。



 ミンネ。

 我ながらいい名前がひらめいたと思う。



 ミンネの住む島を守るのは、竜だ。
 火の竜。
 真っ赤なウロコを持った空を渡る竜。
 遠い昔、カミサマの血を引いた人間は、竜と話すことができた。
 けれど、長い時間が流れるうちに不思議な力は失われ、ミンネの頃にはもう竜の声が聞こえない。



 竜の怒りに触れ、島がピンチに陥った時、ミンネは島を救うため、竜との絆を取り戻そうと旅に出るのだ。



 どんな話になるのだろう。リノはわくわくしながら待っている。



 絶対にハッピーエンドだ。

 祥子の書く話は、いつでもハッピーエンドに決まっている。



 読んだ人に元気になってほしいから、と祥子は言う。

 だから、ミンネは困難に打ち勝って島を救い、勇者になるだろう。



 リノは春休みに、たくさんのアイディアを出した。なにが採用されているかは、本ができるまではわからない。

 今までのペースでいけば、本ができるのは秋くらいのはずだ。



(それまでに、パパが帰ってきてるといいけど……)



 キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。麦茶が入ったピッチャーを出し。お気に入りのイチゴ柄のコップに注ぐ。ぐっと勢いよく飲んで、もう一杯追加。残りは水筒に入れて、塾に持っていく。



 テーブルの上には、塾の休み時間に食べるための、おにぎりが入ったきんちゃくがある。

 水筒ときんちゃくを左手に、玄関にあったランドセルも右手に持って、二階に上がった。



 手前の右側がリノの部屋。一番奥が祥子の作業場兼寝室だ。



 ドアを開けると涼しい風が通りすぎ、ふわっとペールピンクのレースのカーテンが膨らんだ。



 リノの部屋は、ハートでいっぱいだ。

 カーテンも、ベッドカバーも、クッションも、ハートだらけ。幼稚園の頃からコツコツとそろえたてきたものばかりで埋め尽くされている。



 けれど、今は少しだけ子供っぽいと思うようになった。

 家に来る友達は「かわいい」と決まって言うけれど。もう五年生になったのだから、かわいい、よりも、素敵、と言われたい。

 センスがいい、とか、おしゃれ、とか。



 ベッドの上に、ランドセルを置く。これもハートの刺繍が入っている。



 富良野のおばあちゃんに買ってもらったランドセルは、リノのお気に入りだ。



 ローズレッド。

 大人っぽくて、いい色だと思う。

 でも、このハートの刺繍は要らなかったかもしれない。このランドセルを選んだ時のリノの目には、とても素敵に見えたのに。



 塾用のバッグに、水筒ときんちゃくを入れる。

 これもハート柄だ。



 家をでるまで、あと四十分。



 ふわ、と大きなあくびをして、リノはハートだらけのベッドに寝転がる。今日はテストだから、遅刻はできない。



(アラーム、セットしなきゃ)



 まぶたが重い。



 ふわ、とまたあくびが出た。

 

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