閉じた海。

若松だんご

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閉じた海。

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 ここは、息苦しい。

 近くにコンビナートがあるから?
 トラックの交通量日本一とかいう国道のそばだから?
 細い路地に沿ってさらに狭苦しく古い家が、車も通れないほどひしめいているから?
 夜空を見上げても、月しかなくて、ロクに星は見えないから?

 違う。
 いや、違わない。

 けど、オレが息苦しさを感じているのは、環境にだけじゃない。
 オレ自身に、息苦しさを感じている。
 オレは、この先、どういう未来を進むんだろう。

 わからない。

 明日の自分はわかるけど、一年後の自分はわからない。
 幼い頃にみた夢なら、いっぱいある。
 大きくなったら、仮面ライダーになりたかった。ポケモンマスターにもなりたかった。
 野球選手に憧れたこともある。ユーチューバーも面白そうだと思ったこともある。
 けど。
 そのどれでもない未来が、自分には待ち受けていそうなことを、最近、思い知らされた。
 がんばっても変身はできないし、ポケモンは町にいない。野球は、そこそこのどこにでもいる中坊レベルだし、ユーチューバーになれるほどのセンスもない。

 あーあ。
 オレって、いったい何なんだろう。

 ヒトには、それぞれ生まれてきたことに意味がある。
 なんて、カッコいいセリフ言われても、その意味、どこにも見つけられないんだけど?オレの意味って、多分、親から受け継いだ命を、次の、自分の子どもに繋ぐだけだと思う。ただの中継ぎ。セットアッパー。次がすっごいクローザーだったら、オレ、存在、霞んじゃうんだけど。きっと未来まで、オレの名前が残ることはない。せいぜいお墓に名前が刻まれるだけ。ま、まだまだ子どもが出来る予定もないし、お墓で思い出してもらうつもりもない。そんな遠い未来のことより、差し迫った今ある未来の話が、オレの手の中にある。
 手にした紙に視線を落とす。

 「進路調査票」

 こんなもの、なければなあ。
 進学か就職かって丸つける欄があるけど、こんなもん、大抵進学じゃないの? 勉強が好きなわけでもないけど、まだこの歳で就職はしないと思う。まだ、14だし。
 で、進学って言ったって、じゃあ今度はどこの学校を目指すかってことになる。
 第一志望、第二志望、第三志望。

 君の未来は無限大。可能性も無限大。

 なんて言葉は大嫌いだ。
 んなもん、仮面ライダーに変身したいって思ったら、それを目指せる学校があるのかよ。ポケモンマスターになりたかったら、養成してくれる学科があるのかよ。
 俺が持つ能力と、それに見合ったレベルの学校を、狭い選択肢の中から選ぶしかない。私立に行くほど裕福な家じゃないし、女子校はそもそも選べない。勉強もそこそこでしかないから、どこかで、夢と現実の折り合いをつけなきゃいけない。
 夢見た未来は選べない。いつの間にか、見えない手で遮られたように、俺の行く道は狭く、細く、一点に向かってしか伸びていないことに気づかされる。
 こんな紙、紙飛行機にでもして飛ばしてしまおうか。
 それとも、船にでもして目の前の港から海に流してしまおうか。
 紙を折りかけて……手を止めた。

 だめだ。

 この空じゃ、この海じゃ飛ばしても、流しても、遠くまでいけない。
 目の前に広がるのは、濁った緑色の海。手を突っ込んだら、すぐに指先が見えなくなりそうな海。
 その先にあるのは、大きな柵のような、海に林立する高速道路の橋脚。数年前、臨海高速道路と、ここより南にあるコンビナートを繋ぐ橋が海上に架かった。長い長い橋。それが、海を、その先にあるドヨンとした梅雨の開けきらない鈍色の空を、柵のように遮っている。まるで海や空を閉じ込めているようだ。いや。閉じ込められているのは、こっちのほうか。
 もうこの港で、漁をしに出港する船はほとんどいない。たまに釣りをする人がいる程度。
 そんな寂しい元漁師町の港。閉じ込められた港。
 外に向かって、出ることを許されない世界。
 「進路調査票」を仕方なくカバンに戻す。
 無くしたら、母さんと先生がうるさそうだ。

*     *     *     *

 「進路調査票、今日忘れたヤツは、明日、必ず提出すること」

 いいなーと、教室を見回しながら担任が念押しした。
 へいへーいという空気に教室は包まれるが、現実にそれを声にするヤツはいない。そんなことすれば、「期限を守れないヤツは社会に出たって」とか、「自分の将来のことなんだから、真面目に考えろ」とか、お小言百倍になって返ってくるのがわかっているから。そんなめんどくさいことを、わざわざ好き好んでやる気はない。

 「明日忘れたら、家まで取りに帰ってもらうからな~」

 うげえ。
 これには声が上がった。
 学校に近いヤツはそれでもいいけど、チャリ通だと最悪。

 「なあなあ、航輝、お前、ドコ書いた!?」

 前の席、和宏がふり返りざまに聞いてきた。

 「えー、言わなきゃいけないのかよ!?」

 「教えろよぉ、友だちだろ!?」

 なんでこういうときだけ、友だちアピールするかね。まあ、昔っからの友達、家が近所の幼馴染だけどさ。

 「松本商業と、南高、朝日高」

 「お前、てんでバラバラじゃん。レベルとか」

 「まあな。近いトコからテキトーに選んで書いた」

 どっちかというと家から近い順。この中では松本商業が一番近く、朝日高校が一番遠い。
 セントアンナも書いてやろうかと思ったけど、さすがにふざけすぎてたので止めておいた。私立だし女子校だもんな、セントアンナ。家から自転車で10分の距離で一番近いけど。このあたりの連中は大抵公立に進学する。

 この進路調査票見て、今度の三者面談をするんだよな。

 勝手に南高とか書いたけど、母さん、どう思うんだろ。アホなこと書いてって怒るか。それとも、ようやくがんばって勉強する気になったと喜ぶか。ここらで一番の進学校、南高なんかをガチで目指したら、母さん、感涙モノだろうな。
 多分、真剣に進学を決めるなら、朝日高になると思う。自分の成績から考えても、ちょうどいいレベル。そこそこの進学実績と、まあまあの就職実績を持つ、飛び抜けて何かがすごいというわけでもない、そういう高校。甲子園に出たこともなければ、インターハイでどうしたって話も聞かない。どこにでもあるフツーの普通科高校。

 「そういうお前はどうなんだよ、和宏は?」

 「あ、俺? もち西高!!」

 「超進学校じゃん!!」

 レベルで言えば、南高よりずっと上。
 お前、そんな頭、持ち合わせてたか?

 「というのはウソで。俺も朝日高。夢は大きく果てしなく……って言いたいけどな」

 だよな、やっぱり。
 なんとなく、ホッと胸を撫で下ろす。
 この辺のヤツラは大抵、朝日高に進学する。よっぽど勉強の出来るヤツでないと、南高だの西高だのは選ばない。オレの父さんも朝日高出身者だし。オレも同じルートになるんだろうな、きっと。

 「退屈だよな」

 「おう、退屈だ」

 二人で意味のないやり取りをする。
 何が、退屈なのか、よくわからない。ただ単にヒマなだけなのか、人生が面白みなくって仕方ないのか。その両方か。高校が平凡すぎて退屈なのかもしれない。

 「なんだよ、お前ら、シケた顔してるな」

 「うっせ」

 やたらと上機嫌で近づいてきたもう一人の腐れ縁、健太に少しだけムカつく。

 「俺さ、今度の休みに沖縄に行くことになったんだ」

 「沖縄ぁ!?」

 和宏とオレは、素っ頓狂な声を上げた。
 コイツが上機嫌なのは、夏休みの家族旅行があるからか。んで、それを聞いてほしくて、わざわざこっちに声をかけてきたと。この歳になっても、家族で旅行かよって思うけど、沖縄なんかに連れてってもらえるなら、家族つきでもいいかなって思う。
 沖縄か。
 きっと、キレイな海と空が、どこまでも広がっているんだろうな。どっかの旅行会社のパンフレットの写真を思い出す。ここの海よりは、ずっと開放的な気分になれそうだ。キレイな水着のお姉さまもいそうだし。
 だけど、素直に羨ましがるのは、少しだけ癪に障った。

 「お前、受験はどうすんだよ」

 「んなもん、どうとでもなる。俺も朝日高だし」

 あ、コイツ朝日、バカにしてるな。あそこだって、毎年数人は不合格くらうんだぞ。

 「それよりさ。俺、旅行の前にって、おもしれーの買ったんだよ。帰りに、見にこねえか?」
 
 「おもしれーのって、何!?」

 退屈していたオレと和宏が食いつく。

 「そ・れ・は。放課後のお楽しみ♪」

 チッ、チッ、チッと指を振る健太。
 なんだよー、もったいぶってないで話せよー!! オレや和宏がいくら言っても健太は口を割らない。ニヤニヤと笑うだけだ。
 仕方ない。帰りに、ヤツの家に寄ってやるか。おもしろくなかったら……そうだな。コーラの一つでもおごらせるとするか。ちょうどいい暇つぶし、ちょっとだけの日常の変化。刺激のない毎日には、かすかな変化でもありがたかった。

*     *     *     *

 「ほらほら、コレコレ」

 健太がオレたちに見せたのは、ヤツの家の駐車場をかなり占めるような大きさの、デッカいゴムボート。
 ゴムボートとか言うと、ゴムっていうよりビニール製だろっていう、結構チャチな、そこらへんの遊園地のプールで見かける、すぐ転覆しそうなそれを思い浮かべるけど、これは、そういうシロモノよりしっかりして見えた。暗い緑の船体。俺一人ゴロンと寝っ転がってもビクともしなさそうな、頑丈な雰囲気だ。実際、人一人転がれるだけのスペースを持っている。おまけに両サイドには、オールを取り付けるための突起もついていた。

 「これさ、ガチで釣りとかにも使えるやつなんだって」

 健太が説明した。
 なんでも、これにオプションで小型のモーターも接続できるらしい。
 うわ。そうなったら、マジで「船」じゃん。「ゴムボート」なんてカワイイシロモノではなく。

 「親父がさ、旅行以外にも、普段、釣りに行くのに使いたいって言って買ったんだ」

 「お前の親父さん、釣りなんてしたっけ?」

 初めて聞いた、健太の親父さん情報。

 「最近さ、ハマったみたい。釣りに行く度に、船が欲しくなったって言ってた」

 漁師の血が騒ぐのかねーと、健太は言う。漁、釣りといえば船っしょ、みたいな。
 健太の親父さんの釣り。
 おそらくだけど、すぐそこにある港での釣りじゃない。この辺りの人間でも、釣りは出かけてやるものレジャー。近所の、ほんの目と鼻の先にある海では、めったに釣りをしない。第一、釣りで船欲しいって思ったとして、海でなら、もっとちゃんとした船が欲しくなるはずだ。
 その昔、オレの大じいちゃんが乗ってたような、船。
 海の上を風きって走る、大じいちゃんの船。小さい頃の記憶だけど、あの時の日差しと、風と、匂い、音。全身で感じた波のしぶき、波を受けた船の反動は今でもこの身に染み付いている。あの時感じた海は、記憶のなかでいつでもきらめいている。

 「どうした、航輝?」

 急に黙り込んだオレを、二人が不思議そうに見てきた。

 「……あのさ」

 オレの中に、突然、降ってわいたアイディア。

 「この船の進水式、やらね?」

*     *     *     *

 オレのアイディアはこうだ。
 まず、学校の東側にある、川の河口近くの海岸に行く。ここは、河口に近いおかげで、やや遠浅の砂浜になっている。昔は、ここで潮干狩りとかしてた人もいたけど、最近はそういうのはほとんどいない。ガキンチョの水遊びにもちょうどいいカンジだったんだけど、それも近くに町営プールができたおかげで、まず見かけない。人知れず、いたずらをするには格好の場所だった。
 ここからゴムボートを漕ぎ出す。
 この砂浜は、オレたちの町より1キロほど北側にある。

 「で、ここから、グルっと回って俺たちの町の港を目指す」

 「おおー」

 オレが紙に書き出したアイディアに、二人が感嘆の声をあげた。
 砂浜と港の間には、工場だの倉庫だの立ち並ぶ地域がある。そこに近づくと大人に発見されるおそれがあるので、やや陸から離れた位置を進む。

 「でもさ、港に来たら、バレるんじゃね?」

 さすがに、人がいれば。
 この辺りの大人は、子どもが港に近づくと、ものすごく怒る。港は砂浜と違って危険だから。海に落ちた時の危険度が砂浜と桁違い。砂浜は濡れる程度だけど、港はそのまま沈む。命が関わることなので、誰の子であろうと、知らない子であろうと容赦なく叱られる。どうかするとゲンコツをくらう。
 だが、それは人がいた場合。

 「港になんか行っても、誰もいねーよ」

 ホントだった。
 オレ、昨日だって一人で行ったけど、誰もいなかったし、怒られもしなかったし。
 それをありがたいと取るか、寂しいと取るか。
 冒険するには、ちょうどいいけど。

 「ま、そだな」

 港の現状を知る和宏と健太も、それぞれ頷いた。

 「なんかさ、おもしろそうじゃん」

 和宏が笑う。

 「だろ!?」

 オレも、口角が上がる。説明しただけでテンション上がる。

 「で。いつやるんだよ、航輝」

 完全に乗り気の健太が問うた。

 「そうだな~」

 放課後、じっくり楽しむだけの時間があって、できれば自分たちの荷物の少ない日がいい。

 「終業式の日、なんてどうだ!?」

*     *     *     *

 終業式当日。
 俺たちは計画を実行することとなった。
 幸いというか、昨日で梅雨明けとなった空は、眩しいほどの煌めきと、汗ばむほどの熱気を帯びていた。こういう日は、海の上にでたらサイコーの気分になれるに違いない。
 想像するだけで、清々しい気分になる。
 三者面談で、「今のままだと朝日高校も難しいですね~」って言われたことも忘れるぐらいに。

 「なあ、ホントに大丈夫?」

 オレたちの気分を下げてくれることを口にするのは、荷物持ちに巻き込んだ、クラスメートの秋登。
 荷物を少なくして登校してたって、ゼロにすることは出来ない。そこで、秋登に自転車で、オレたちの荷物を港まで運んでくれるように頼んだ。秋登の方も、「面白い動画が撮れそう」と、最初は乗り気だったのだけど。

 「大丈夫だって。お前は、陸から動画でも撮ってろ」

 秋登の鼻をギュイっとつまむ。どうしてコイツは、こうも後ろ向きなんだろ。気が弱いというか。まあ、それだからこの計画を持ちかけた時、乗船する側ではなく、撮影側に立候補したんだろうけど。オレも和宏も健太も乗船希望組だったし、荷物運びなんてやりたくなかったから、秋登の存在はありがたいっちゃあ、ありがたいんだけどさ。

 「じゃあな、秋登」

 膨らましたボートを三人で担いでいく。ボートは波打ち際から乗ることができないので、しばらくは、浅瀬を担いで持っていくしかなかった。膝丈まで制服のズボンを捲くりあげた素足にズルっとした砂と、生ぬるい海水の感触が伝わる。波が作った砂の波紋に、俺たちの足跡が刻まれる。

 「よっしゃあっ!!」

 捲くりあげたズボンが濡れるほどの深さになってから、ボートを下ろす。豪快な水しぶきをあげて、ボートは海に浮かんだ。
 最初の漕ぎ手は和宏、次がオレ、最後は健太。
 これはジャンケンで決めた。
 進行方向に背を向けた和宏が、オールを海に浸す。オレと健太はその向かい側に腰を下ろす。

 「一漕ぎ、入魂っ!!」

 勢い余って、海底の砂も一緒に掻き出す。ムダに大きな飛沫が上がったけど、ボートは船底を砂にこすりながらゆっくりと前に進んだ。

 「なんだよ、一漕ぎ入魂って」

 飛沫をモロに浴びて、健太が言った。砂も喰らったらしく、時折ぺっぺと何かを海に吐き出している。

 「ゲームだよ、ゲーム。カヌーのやつ。Wiiでやっただろ。子供の頃」

 ああ、あれな。そういやあのゲームって……。

 「和宏、お前、いっつも右曲がり名人だったよな。進行方向、間違えんなよ」

 港は、進行方向右手にあたる。後ろ向きに座ってオールを漕ぐ和宏から見たら、左側だ。

 「うっせ。今日の俺は左曲がり名人だ」

 和宏が左のオールだけ回した。
 漕ぎ出したばかりのボートが、グネグネ動く。

 「こら、真っ直ぐに漕げって、今は」

 浅瀬にいる間に、左曲がってもしょうがないだろ。座礁するぞ。
 左曲がり名人は、もっと海に出てからやってくれ。
 それでなくても、何度も、砂を掻いてるままだし。
 俺も、健太同様、砂を頭からかぶってる。
 和宏も、自分のオールがどんな状態なのか、わかっているらしく、それ以上は素直に両手で漕いだ。
 しばらく漕ぐと、もう砂は上がらなくなった。
 浅瀬でなくなったのだ。
 オレたちは、少しだけ余裕が出たので、砂浜に立つ秋登に大きく手を振った。秋登は、さっそくスマホで、オレたちを録画し始めていた。
 調子にのったオレと健太がさらに大きく、身体いっぱいに手を振る。
 これからちょっくら冒険に行ってくらぁ!!
 イエーイ!! 勇者さまの出発だ~!! しっかり撮っとけよぉ~!!

 「こらっ、じっと座ってろよ!!」

 オレたちが動きまくるせいで、ボートがグラグラ揺れる。和宏に叱られて、オレと健太は大人しく座り直した。この場合、オレらが悪い。
 オレは、少しだけふり向いて、秋登を見る。ボートのグラグラは秋登も見ていたらしく、スマホから目を離して、こっちを心配そうに見ていた。アイツの気を落ち着けるために、少しだけ手を振ってガッツポーズをつくってみせた。ちゃんと録画してほしいからな。

 ボートは、少し不安定な揺れを伴いながらも、海岸から海へと進んでいく。

 しばらくして、和宏がオールに慣れていた頃、海は一面、キラキラと光る波と、風に溢れていた。
 和宏の背後に、グングンとあの橋脚が近づいてくる。白っぽい灰色の、あの橋脚。
 橋脚は、高速道路とコンビナートを繋ぐ橋は、砂浜から続くこの海も閉ざしている。どこまでも、俺たちを閉じ込め続ける、牢屋の柵みたいだ。
 近づいて見ると、それは、大きくドッシリと海の中からそびえ立っていた。まるで、空から俺たちの海に突き立てられた、巨大なパイルバンカー。逃げ場のない、閉じ込められた、俺たちの檻。その向こうの空も海も、切り取られた風景にしか見えない。
 ボートは、橋脚に近づき海に出来た影に入る。それまで、少し暑かった日差しが隠れると、風が少しだけ寒かった。

 「デッケエなあ」

 橋脚を見上げた健太が言った。遠くから見たことあっても、見上げるのはこれが初めて。

 「近代科学のスイってヤツだ」

 「なんだよそれ」

 「知らね。なんとなく思い浮かんだ。“スイ”ってなんだ?」

 「言ったヤツが分かんねえのに、聞いたオレたちがわかるわけねえじゃん」

 「そりゃそうだ」 

 健太が笑った。多分、陸に残った秋登ならわかるんだろうな。アイツなら、南高受かりそうな頭してるし。

 「ま、なんにしたって、科学はスゴイってことで。世界の果てまで誇らしい、日本の最高建築技術さ」

 こんなどデカイものを、海の中に建てちゃうんだもんな。それもニョッキニョッキと何本も。その点においては、純粋にスゴイと思う。世界の果てにまで誇る気はないけど、十分に威張れるものではある。

 「おーっし、抜けるぞー!!」

 和宏の声と同時に、ボートが橋脚の横を通り過ぎる。

 さらば灰色の檻の中。オレたちは、煌めく海を手に入れる!!

 橋脚の影を抜け、一気に夏の日差しが照りつけ、肌を焼く。

 「気持ちいー!!」

 「サイコーッ!!」

 乗ってるだけのオレと健太が喜び叫ぶ。
 切り取られた風景画のような世界を抜けて、どこまでも区切りのない世界が一面に広がった。
 どこまでも続く大海原。再び訪れた眩しい日差し。
 風が陸と違う。
 湿気を多く含んでいるのに心地いい。海の色は相変わらず透き通りもしない鈍い緑色だけど、それでも所々白く波立って、それがキラキラしてて、見ていて飽きない。見上げる空は、橋脚も道路も見えない。ただ青い、夏の空。耳に届くのは、チャプチャプと海がボートを揺らす音。和宏が漕ぐオールの飛沫の音もそれに混じる。

 「そろそろ、代われよ」

 「おう、そうだな」

 和宏に促されて、慎重に場所を移動する。こんなところで海に落ちても嫌だし、転覆はなんとしても避けたい。ゆるゆると動き、今度は、オレがオールを手にする。
 和宏が座って、腰を落ち着けたのを確認してから、オールを海に挿す。両手に力を込めると、海がそれに応える。水を櫂でる感覚が、手に腕に、身体全体に伝わってくる。
 重い水の力。海にいるのだという実感。
 オレの行きたかった海。大じいちゃんとのかすかな記憶。
 大じいちゃんの船は、さほど大きくなかった。乗り込むときだって、一応、大じいちゃんが綱を持って近づけてくれていたけど、船と岸との隙間があって、チビなオレは、その隙間に落ちるんじゃないかと、結構ドキドキした。干潮のときは、船と岸の高さがかなり違う。乗り降りするのも大変だったし、ちょっぴり怖かった。
 だけど、海に出ればそれだけでサイコーだった。海の上で、浴びる風も日差しも、陸とは全く違った。日差しは容赦なく照りつけるんだけど、風が海が、それを心地いいものに変えてくれる。大じいちゃんは、「真っ黒になるぞ」と笑っていたけど、オレは、帽子が煩わしくて、そのすべてを全身で浴びるのが大好きだった。髪を好きなだけ風になぶらせて、キラキラ光る海を目にするのが大好きだった。
 オレは、この海といたかった。海で暮らしたかった。
 けれど、今、この町で海で暮らす大人はほとんどいない。いたとしても、ほとんどが高齢者で、それで生計を立てている人はまずいない。趣味で、小遣い稼ぎにたまに漁に出る程度。オレんちだって、大じいちゃんが死んだあと、船を手放したし、じいちゃんも親父も工場で働いている。
 その昔、コンビナートが出来た時、漁師にいくらかの保証金が出たらしい。それで、大勢の漁師が海を捨てた。その保証金を手に、もっと内陸部に家を建て、工場に働きに出た。保証金が出る度、漁師は海から出ていく。町は寂れ、そして見向きもされなくなった海に、勝手に道路が建てられる。
 漁師なんていう自然相手の商売より、工場勤めのほうが生活は安定する。みんなが、そっちの流れに乗るのは仕方ないことだと思う。オレだって、そうやって親父たちがやってくれてるおかげで、普通に暮らせてるんだし。

 わかる。わかるんだけど。

 それでも、オレは海を捨てたくなかった。海から切り離されて生きたくなかった。海を忘れていたくなかった。
 大事な海を好きなようにされて、オレには海で生きる選択肢はない。嫌だと叫んでも誰も聞いてくれないし、オレは閉じ込められた世界を見ているしか出来ない。道路建設を反対する声も上げられなかったし、反対して工事を差し止める権限もない。
 だってオレ、ガキだから。
 イヤだイヤだって言っても、この道路ができたおかげで発展するコンビナートで働く親父たちに食わせてもらってるんだし。
 勝手に作られた橋脚のむこうに海を見るだけ。
 多分きっと悔しかったんだ、オレは。
 だから、こうして橋脚の向こう側に行きたかった。向こうに行けば、きっと昔のままの世界が、そこで待っている。大じいちゃんと見た、今は記憶の中にしかない、懐かしい海が。 
 一度でいいから、こうして海を感じてみたかったんだ。

 「なあ」

 不意に、物思いにふけってたオレに、健太が声をかけた。

 「陸から、離れ過ぎちゃいねえか!?」

 不安そうに、健太が辺りを見回す。オレも、つられて周囲を見る。
 言われてみれば、陸が、岸壁が少し遠い。橋脚を超えることばかり考えていたせいか、少し沖に出すぎたようだ。橋脚の向こう、砂浜に残った秋登が見えづらかった。

 「もう充分外に出たし。そろそろ港に向かおうぜ」

 あわてて右のオールだけ動かし、南に、港に向けて進路を変える。

 「……あれ?」

 船首は南を指した。けれど。

 「流されて、ないか!?」

 和宏が指摘した。
 ボートは全然進まない。なのに、徐々に橋脚からも離れていく。
 沖へ沖へ。
 橋脚の向こう、海は夢にまで見た世界だけど、こうなってくると、話が違う。

 「ヤバいぞ」

 ボートが流されている。あわてて船首を陸へ向けるが、その間にも、ゆるゆると沖に向かってボートが流れる。
 オレが全身を使ってがむしゃらにオールを漕ぐ。和宏と健太も手で必死に漕ぐ。
 少しでも陸に戻らねば。
 海を楽しむ心のゆとりはどこかへ吹き飛んだ。
 しかし、海は、波は、そんなオレらを笑うように、ボートを沖へと海のど真ん中へと押し流す。

 「やべえよ、やべえよ。これ、やべえよ」

 狂ったように腕を動かしてる健太の声が泣きそうだった。
 和宏は、さっきまでの疲れが残っているのか、だんだんとその腕に力が無くなってきている。
 そんなオレ達に、夏の日差しは容赦なく降り注ぎ、焦る身体から少しずつ体力を奪っていく。

 「航輝?」

 オレは、二人に驚く間も与えないぐらい、すばやく制服を脱ぎ捨てた。

 「健太、ちょっと早いけど、オール、頼む」

 そう言い残して、海に飛び込む。
 海から、オレが泳いでボートを押す。幸いというか、オレは泳ぐの得意だ。大じいちゃんに習った。
 オレが押すことで、少しでもボートの動力になれば。オレがエンジンの代わりになれば。
 二人をこんな遊びにつき合せてしまった。言い出しっぺはオレだ。オレには、陸にコイツらを返す義務がある。いくら海が好きであっても、巻き込んでいいわけじゃない。
 夏の海はどうだとか感じているヒマはない。ボートの縁につかまりながら、必死にバタ足で泳ぐ。
 オールを手にした健太も必死で漕ぎ出す。和宏も、再び手で水を掻き出した。オレも、時折、海水を飲みながら、力いっぱい足を動かす。

 「ダメだ!! やっぱ流されてる!!」

 和宏が叫んだ。
 オレたちをあざ笑うかのように、橋脚が遥か彼方に遠ざかっていく。

 ――外に出てみたかったんでしょ? なら存分に味わってきたら?

 上から見下ろし、笑う橋脚。

 クッソ!!

 徐々に足が重くなる。意地で動かすけど、それも限界に近い。
 なんだよ。オレたちは、牢の向こうに出ちゃいけなかったのかよ。外の世界にあこがれて、いつか見た海に飛び出しちゃいけなかったのかよ。オレたちは、オレは、ずっと閉じ込められたまま、大人しく指をくわえて見ているしかなかったのかよ。

 チックショウッ!!

 悔しいけど、限界だ。もう、足が、身体が持たない。コイツらを陸にも帰してやれない。ごめんな、和宏。ごめんな、健太。大じいちゃん、オレ、海にも出られんかったよ。
 目の前が暗くなる。

 「おぉーい!!」

 近づいてくるエンジン音と、大きな波。オレは失いかけた意識を揺り起こされた。

 ――大じいちゃん!?

 見ると、それは大じいちゃんの船によく似た、小型の漁船だった。見る見る間に近づいてくる漁船に、古びた麦わら帽子の知らないじいちゃん達が二人。一人は大きな竿みたいなのを海に挿している。しじみ漁の船だ。

 「お前ら、何しとるんや」

 「大丈夫かぁ!?」

 じいちゃん達が声をかけてきた。まさか、こんな海の真ん中にゴムボートの中学生がいるなんて、思いもしなかったのだろう。それも、遭難しかけ中。かなり呆れた顔をしていた。オレ、力尽きて溺れかけてるし。

 「助かった~」

 泣きそうな声で、健太が言った。
 オレたちは、麦わらのじいちゃん達に、しじみの代わりにすくい上げてもらった。
 和宏から、じいちゃん達に事情を話す。オレは、引き上げてもらったものの、ゼイゼイと息も絶え絶えに船底に転がり、それを聞いているしかなかった。
 聞き終えた、じいちゃん達の返事は、たった一言。

 「はおやな」

 はお。
 このあたりでよく使われる、「アホ」や「バカ」よりライトなけなし言葉。だけど、その言葉が、疲れ切ったオレには、かなり堪えた。大じいちゃんにも、よく言われたセリフ。
 えーえー、どうせオレは、「はお」ですよ。

*     *     *     *

 その日の夜。
 オレたちは、それぞれの親から、こっぴどく叱られた。もちろんゲンコツつき。
 あの麦藁のじいちゃんたちが、親に話したらしい。まあ、こんな寂れた町のガキンチョなんて、どこの子どもか、すぐわかるって話だ。学校に通達されなかっただけでも、良しとしておこう。
 夕食後、母さんと親父に膝詰めで説教された。海で疲れ果てた身体に、説教はキツかった。母さんは、「そんな危険なことをして」と、涙ぐみながら。親父は、「あそこには離岸流もあって危険なんだぞ」と、危険の理由を話しながら。おまけに、ペナルティとして、駅前の塾の夏期講習に参加させられることになった。
 うげげ。
 これ以上、余計な、危険なことをさせるぐらいなら、勉強でもしていろということらしい。じいちゃんは、何も言わない。傍でそれを見ているだけだった。
 
*     *     *     *

 「航輝、ちょっといいか!?」

 説教が終わってグッタリしたオレの部屋に、じいちゃんがめずらしくやってきた。何? 説教の追加か?
 ベッドに突っ伏したオレの脇、学習机の椅子にじいちゃんが腰掛ける。

 「ええこと教えてやる。あんな、お前の親父な、あれも昔おんなじことをやったんやぞ」

 「え? は? マジ!?」

 ベッドから飛び起きた。

 「アレが、航輝ぐらいの時やったかなあ。アイツの場合は、港から出て、砂浜を目指したんや。で、沖へ流された上に、ボートに穴が空いて沈没しかけた」

 オレたちと逆ルート。ボートもオレの使ったものよりちゃちいものだったようで。

 「で、海苔養殖の船に助けてもろた」

 じいちゃんが、ニヤッと笑った。
 なるほど。だから、じいちゃんは何も言わずに、オレを叱る親父を見ていたのか。お前もやったやないか!! と心の中でツッコんでたのかもしれない。笑いをこらえて。
 ムリにでも海に出たい。
 これはもう、ここに住む者のDNAに染み込んだ、習性なのかもしれない。健太の親父さんだって、釣りに興味を持ってた。和宏に聞いたことはないけど、アイツもオレのアイディアに乗ったのだから、海になにがしかの思い入れがあるのかもしれない。皆、海から離れた生活をしていても、海を忘れることは出来ない。海は、長くここで暮らしてきたオレたちの身体の一部なのだ。

 「海、楽しかったか!?」

 「うん」

 オレは、即答した。
 あれだけ大変だった海だけど、イヤだとは不思議と思わなかった。必死で必死で味わう暇もない、死ぬかと思ったけど、それでも嫌いにはならなかった。

 「そうか」

 じいちゃんがニカッと笑うと、うれしそうにオレの頭を撫でて、部屋を出ていった。節くれだって日焼けした肌の、温かい手。大じいちゃんのそれを思い出す。じいちゃんも、海好きなんだろうか。
 ノロノロとスマホを取り出すと、和宏と健太、秋登にラインで謝っといてから、再びベッドに突っ伏した。
 
 「気にすんな」「楽しかったからおk」

 そんな返事が帰ってきたけど、もう瞼が重すぎて、どうにもならない。眠い。
 目をつぶると、身体が波に揺られているような感覚に襲われる。それが心地よかった。橋脚の向こうで感じた、懐かしい波の揺れと、照りつける日差し、煌めく波間、髪をなぶる海風。飛び込んだ海も、今思い返すと気持ちよかった。
 それらが、心地よく身体に戻ってくる。

 海。待ってろよ。

 いつか、絶対またあの柵を越えて、オレは自由になってやる。
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