上 下
12 / 29

巻の十二 荔枝と井戸と皇帝と。

しおりを挟む
 「やはり、見せかけは見せかけなのですね」

 「はい。すみません」

 菫青宮きんせいきゅうを訪れてくれた啓騎けいきさんのため息に、申し訳ない気分になる。

 「いえ、悪いのは琉花りゅうかさまじゃありませんよ。そこまで朴念仁な陛下がお悪いのです」

 わたしが妃になって以来、啓騎けいきさんは「琉花りゅうかさま」と、よそよそしい話し方をする。
 そして、陛下には辛辣。
 
 「笑い声が聞こえたと報告があったので、もしかしてと思ったのですが。まあ妃を置くことを了承してくださっただけ良しとしましょう。変なウワサも消えましたし」

 「ウワサ?」

 なにそれ。
 っていうか、先日のあれ、聞かれてたの?
 後宮って、ホント、どこに耳があるかわかったもんじゃないのね。

 「陛下には、『男色』、『衆道しゅどう』というウワサもあったんですよ。後宮に寄りつかず、紫宸殿ししんでんにまで文官武官を呼び寄せて政務を執り行ってましたからね。それも夜遅くまで」

 うわ。
 それはウワサになるわ。
 普通、皇帝陛下が臣下にお会いになるのは、〈紫宸殿ししんでん〉の先、公的空間、外廷にある〈宣政殿せんせいでん〉。門を隔てた先、〈紫宸殿〉は、あくまで皇帝の居住空間、内廷なので、よほどのことがない限り、臣下が入ることはできない。それも夜ともなれば、まあ、そういうウワサになるのも頷ける。

 (どこまで仕事中毒なんだろ、陛下)

 女を選んだとしても、その女の宮に仕事を持ち込むような人だからねえ。
 あれからずっと一緒の寝台で休んでいるけど、一度もそういうことになったことがない。
 初めのころは、寝てる間になにかされたのかって不安になったこともあったけど、夜着が不自然にはだけてたとか、身体に不調があるとかいうことはないので、おそらく本当に一緒に「寝た」だけなんだろう。

 「もしかして、啓騎けいきさんもそのウワサの一人だったり……?」

 「僕のことは気になさらずに、菫青妃きんせいひ

 あ、やっぱりそうなんだ。
 侍中だもん。ずっと陛下につき従ってるもん。キレイな顔立ちしてるし。そういうウワサ、筆頭格だよね。
 ピシャッとした言い方、少しだけイヤそうに顔を歪めた啓騎さんから、それとなく察する。
 もしかすると、陛下に女を勧めたのは、国政安定だけじゃなく、そういうウワサ解消のためでもあったのかもしれない。

 「でもこれから、陛下が真に愛する女性が現れるかもしれませんし、そう悲観することもありませんよ」

 後宮嫌いの女嫌いの陛下からしてみれば、わたしという見せかけでも妃を置いたのは、大きな一歩だもんね。わたしをキッカケにして、女って怖いもんじゃないよ~って再認識してもらえればいい。

 「菫青妃きんせいひがその女性になってくだされば、一番いいのですけどね」

 や、それは無理でしょ。
 一緒に寝ても、なにも起きない間柄だよ?
 ムラムラすることもなければ、ハアハアすることもない。
 くすぐられたりとか、子どもの悪ふざけ的なことはあるけど。言ってしまえば、それだけ。恋愛対象として見られてないもん。
 
 「あの方は、あまり人を寄せ付けようとしません。政務上、必要なことをやり取りしますが、それだけです。見せかけだけとはいえ、そばに妃を置いたことは奇跡に近い。だから、どうしてもその先をと期待してしまうのですよ」

 そうなんだ。

 「まあ、いきなり愛の手ほどきは難しそうですから、ここは一つお友だちから始めていただくしかないですね」

 あ、愛の手ほどきって。
 すごい言葉が啓騎さんから出たもんだわ。
 驚くわたしの前に、啓騎さんが果物の入った器を取り出した。

 「今朝届いたばかりの荔枝ライチです。陛下の好物でもありますので、冷やしてご一緒に召し上がってください」

 まずは一緒におやつを食べませんか?
 それなら、わたしにも出来ることだわ。
 愛の云々はまだまだ先になりそうだけど。

 「僕は期待してます。諦めてませんからね、菫青妃きんせいひ

 不穏な言葉を残して啓騎さんが退出していく。

 (甘いものは、政務でお疲れの陛下のお身体にもいいだろうし。なにより、好物なら喜ばれるよね)

 何を期待してるのか。何を諦めてないのか。
 考えたくなかったので、別のことで頭をいっぱいにする。
 目の前にある荔枝ライチ
 わたしの作った羹も喜んでくださったけど、それより喜んでくださるものがあるのはいい。
 啓騎さんが期待するような恋愛関係になれるかは微妙だけど、純粋にがんばってる陛下を癒して差し上げたいとは思う。

 (そうとなれば……)

 夜までにこの荔枝ライチ、冷やしておかなくっちゃ。

*     *     *     *

 「荔枝ライチだね、珍しい」

 その日の夜。大量の仕事と一緒に訪れた陛下が、卓の上に置いた器に目をつけた。
 やっぱり好物なんだなあ。目ざといなあ。
 
 「今日、啓騎けいきさんが持って来てくださったんです。陛下もご一緒にどうぞって」

 「ふーん。啓騎が、ねえ……」

 あ。もしかして、その裏の真意に感づいてる?
 これをきっかけに仲良くなってください作戦だって。
 
 「今朝届いたばかりの荔枝ライチなんだそうですよ。ほら、まだ棘が鋭い」

 荔枝ライチは、二日もすれば香りが失われ、三日もすれば香りも味も損なわれると言われるぐらい、新鮮さが勝負の果物。
 南方でしか採れない上に、そんな鮮度第一の果物だから、そうそうお目にかかることはできない貴重品。これが好物ってあたり、陛下は贅沢な暮らしをされてるんだなって思う。
 そんな荔枝ライチに含まれる真意に気づかないふりをして、赤い珊瑚のような皮をむく。
 
 「ほら、ずっと井戸水で冷やしておきましたから、とても美味しいですよ」

 むき終えた荔枝ライチをポイッと口に入れる。
 うーん。軽い酸味と深い甘み。それにヒンヤリとした冷たさが加わって、正直、陛下でなくても好物になりそう。
 
 「井戸水……?」

 「はい。香鈴こうりんと見つけたんですよ。すごく澄んでてヒンヤリした井戸」

 話しながら次の荔枝ライチの皮をむく。
 ここで、皮をむいて陛下に「あーん」とかして差し上げればいいんだろうけど、わたしにそんなことできるはずないので、そのまま二つ目も自分の口に入れる。

 「黒玉宮こくぎょくきゅうの東側にあった井戸なんです。あれだけキレイな水なのに、誰も使ってないのが不思議で。後宮のなかでも少し外れたところにあるからですかね。ちょっともったいない気がします」

 わたしの他愛のない話に、ピクリと陛下の肩が揺れた。
 同じように荔枝ライチをむいていた手も止まってる。

 「……陛下?」

 「琉花りゅうかちゃん。悪いけど、この荔枝ライチはちょっと……」

 「どうしたんですか?」

 荔枝ライチ、好物ですよね?

 「その井戸、なんて呼ばれてるか知ってる?」

 「え? たしか〈劉貴妃りゅうきひの井戸〉って……」

 その昔、黒玉宮こくぎょくきゅうに暮らしていた(と思う)劉貴妃りゅうきひ。その彼女が見つけた井戸とか、そういう意味じゃないの? 干ばつの時に、貴妃が龍神に祈って湧き出でた井戸とか。

 「その井戸はね、かつて劉貴妃が『投げ込まれた井戸』なんだよ」

 え?
 投げ込まれた?
 見つけたとか、湧き出でたとかではなく?

 その言葉の衝撃に、三つ目の荔枝ライチがポロリと手からこぼれ落ちた。
 
 「時の皇帝の寵愛を一身に受けていた劉貴妃りゅうきひに嫉妬した皇后の仕業だろうって。貴妃は子を孕んでいたしね。まあ表向きは、『井戸への転落事故』とされてるけど……、琉花りゅうかちゃん?」

 「ゴホッ、ゴホゴホッ、ウェッ……!!」

 慌てて部屋の隅に走って、思いっきりえずく。吐き出したいのに、お腹に収まった荔枝ライチはなかなか頑固に出てきてくれそうにない。

 「ゴメン。こんな話、しなかったらよかったね」

 涙目になったわたしの背を、陛下が撫でさすってくれた。
 
 「いっ、いえ、陛下は悪く、ありません」

 知らなかったわたしがいけないのだし。
 どうりで誰も使ってなくってヒンヤリしてるはずだわ。
 そんな井戸の水、使おうと思うのはなにも知らないわたしぐらいだろう。
 皇帝の寵姫が投げ込まれ、殺された井戸。考えるだけでまたえずきそうになる。
 えずいても出てこない荔枝ライチを諦め、代わりに水をがぶ飲みする。こうなったら下からでいいので、早くお腹から押し出したい。
 どうにか気分を抑えて、卓に戻る。
 器のなかには、まだいくつかの荔枝ライチ
 さすがに、これ以上食べる気はないけど。正直、もったいない。
 高級品だし。洗ったら平気? いやいや、気分的に食べる気がしない。
 用意してくれた啓騎さんへの申し訳なさと、好物をダメにしちゃった陛下への申し訳なさと、高級品なのに食べられなくしてしまった申し訳なさと。いろんな申し訳なさで頭がグルグルする。
 もったいないけど、仕方ないよね。
 諦めて、器を持つ。

 「琉花りゅうかちゃん、それ、貸して?」

 言うなり、陛下に器を取られた。そして――。

 「えっ!? 陛下、どうして……」

 むきかけの荔枝ライチをヒョイッと口に入れた陛下。
 驚くわたしの前で、次々に皮を剥いて食べていく。

 「せっかく琉花りゅうかちゃんが用意してくれたんだしね。もったいないよ」
 
 「や、でも、そんな……」

 「過去は過去。今も劉貴妃りゅうきひが浮いてるっていうのなら別だけど、そうじゃないんだし。水だってずっと湧き出でてるんだから、入れ替わってるだろうし。問題ないよ」

 あっという間に平らげちゃった陛下。
 ……お腹、壊さないんだろうか。

 「さて、と。腹もふくれたことだし、仕事にとりかかろうかな。ごちそうさま、琉花ちゃん」

 一つ大きな伸びをして、卓に置かれた書類を取り上げた陛下。
 
 「では、お先に休ませていただきます」

 「うん、おやすみ」

 殻の山となった器を抱え、急ぎ足で部屋を出る。これを片づけて、サッサと寝よう。
 いつも通りに。いつものように。いつもの……。

 回廊を曲がりかけた足が止まる。
 なんだろう。胸がドキドキして、今日はすんなり眠れそうな気がしない。
しおりを挟む

処理中です...