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巻の二十八 恋の貸借対照表。

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 「ほら、ここにも」

 「…………っ!!」

 強引に引っ張られた腕。手の甲に押し当てられた、消毒薬付きの布がしみる。

 「まったく、こんなケガまでして……」

 ブツブツと文句を言いながら、傷の手当てをしてくださる陛下。
 わたしが連れてこられたのは、なんと思清宮しせいきゅう。それも陛下のご寝所。
 その寝台の上で、自分では気づかなかった傷の手当てをされる。
 
 「…………いっ!!」

 頬に触れた布に思わず顔をしかめる。おそらく、とっさに陛下だと思って啓騎けいきさんに飛びついた時にできた傷だと思うけど。消毒薬をあてられると、地味に痛い。

 「嫁入り前の女の子が、何をしてるの」

 ううう。
 それを言われると、もうなにも言い返せない。
 わたしも公主さまのこと、言えるような立場じゃないよね。
 うつむきかけたわたしの頭。冠を外すと、そのまままげを結っていた紐もシュルンと解かれた。前より短くなった髪が、肩のあたりに広がる。

 「こんなに短く切って。あんな無茶をして」

 その短くなった髪を一房、陛下が持ち上げた。そして口づけ。
 髪に神経なんて通ってないはずなのに、そこから熱が伝わってくる気がした。

 「……命が縮むかと思った」

 吐き出されるように呟かれた言葉。
 そうだ。あの時、陛下が来てくださらなかったら。
 わたし、無我夢中で動いちゃったけど、あのままだったら、暴走した猪が天幕をメチャクチャにして……。

 「あ、その……、すっ……」

 言葉が上手く出てこない。目が熱くなって、カタカタと小刻みに震える。心臓がどうしようもなく大きく鼓動を打ち鳴らす。
 
 「琉花りゅうかちゃん……」

 陛下がわたしの身体をそっと抱き寄せた。
 背中に回された、大きな手。包まれるような温かさに、恐怖に縮んだ心が緩み、強張った身体から力が抜けていく。
 悪漢から救っていただいたときと同じ安心感。
 あの時は、すぐに意識を失ってしまったからわからなかったけど、この腕は、匂いは、力強さは、とても気持ちいい。
 
 「一つ、訊ねてもいい?」

 「……はい」

 わたしが落ち着いたころを見計らって、陛下が声を上げた。

 「どうしてあの場に来たの?」

 え?
 あのぉ、それはぁ。

 「答えて?」

 や、ちょっとそんな間近で問いかけないでっ!!
 落ち着いたはずの心臓が、違った意味で早鐘を打ち始める。

 「そっ、それは先日助けてもらったことへのお返しですっ!!」

 「返し?」

 「そうですよっ!! 危険なところを助けていただきましたから、その恩返しに何かできないかって思って!! 啓騎さんから、陛下のお命が狙われてるって聞いてっ!! それで、なにか出来ないかって思って潜入したんですっ!!」

 まくしたてるように一気に言い訳をする。

 「女の身で何が出来るって言われるとどうしようもないんですけどっ!! それでも助けていただいた恩はキッチリ返したくって!! 啓騎さんに無理言ってあの場に潜入させていただきましたっ!!」

 「琉花ちゃん……」

 「まったくご迷惑でお邪魔でしたよねっ!! 結局は陛下に守っていただきましたしっ!! 気持ちだけの空回りでしたっ!! ご恩をお返しするつもりでしたのに結局はまたご恩だけが重なってしまいましたっ!! いつかはこの借りをキッチリ清算させていただきますから、今日のところはこれで帰らせていただきますっ!!」
 
 息継ぎなしに一緒にすべてを吐き出すと、陛下から逃げるように離れる。

 「琉花っ!!」

 陛下の手が、逃れかけたわたしの腕を引っ張り、そのまま元の腕のなかに引っ張り戻される。

 「借りを返すというのなら、このままここで返していったらどう?」

 へ?
 あの、それはどういうこと?

 「李 琉花。私の妃となって欲しい」

 妃?

 「あの、それは、見せかけの……ですか?」

 また見せかけご寵妃が必要になったんだろうか。

 ペシッ!!

 「い゛だっ!!」

 額を陛下に指で思いっきり弾かれた。なんで?

 「本心からだ。俺の寵妃となってここで暮らしてほしい」

 それって、その、つまり……。

 「好きだと言ってるんだ」

 すき? スキ? 隙? 鋤? 空き? いや、違う。
 「好き」、だ。
 今、陛下、「好き」って言った?
 本心からって……。寵妃になってって……。
 
 「うえええええええぇぇっ!!」

 驚きとともに、肺のなかの空気すべてを吐き出す。
 いや、だって、「好き」だよ? わたし、一度も言われたことのない「好き」だよ?
 それを陛下が? わたしに? どうして? なんで?
 本気? 正気? それとも嘘? からかってる?

 目を真ん丸にして見つめると、陛下がちょっと拗ねたようにプイッと顔をそむけた。けど、その横顔、耳まで真っ赤っか。
 ってことは本気なのか。
 信じられないけど。

 「――すまない。先走ったようだな」

 陛下が腕の力を抜いて、わたしを解放した。紅潮してた頬から赤みが消えていく。
 あ。もしかして、告白を断わられたとか思ってる?
 「落胆」という言葉が、陛下の姿から立ち昇ってるよう。

 「違いますっ!! ちょっとというか、かなり驚いちゃっただけです!!」

 今度はわたしが腕を引く番だ。

 「わたし、今までそんなこと一度も言われたことないし、言われ慣れてないので驚いたんです!! 胸だってペッタンコだし、チンクシャだし、どこをとってもかわいくないし、キレイでもないし。髪だって今はこんなのだし。ご寵妃には相応しくないかなって、そう思っただけです!!」

 狩り場に潜入するために無我夢中だったけど、よくよく考えたら、こんな短い髪の女なんてないわ~って思う。
 普通に暮らすだけなら添え髪でもつけて誤魔化すんだけど、ご寵妃ともなれば、そうはいかない。官女たちやほかの宮女とかの目もあるし。チンクシャ髢女かもじおんななんて悪評を立てられたら、それこそ陛下の御名に傷がつく。
 
 「髪が伸びるまで妃になるのを待てと?」

 「まあ、そう……ですね」

 チンクシャであっても、せめて髪ぐらいは女らしくしておきたい。

 「…………。ねえ、琉花りゅうかちゃん。髪を伸ばしたらってことは、妃になるのは『是』ってことでいいんだよね?」

 うん、まあ、そういうことになるかな。

 「じゃあさ、琉花ちゃんは私のこと、好きなの?」

 「うえっ!?」

 声がひっくり返った。

 「妃になることを了承するってことは、つまりそういうことだよね?」

 捕まえたはずの陛下の手。いつの間にかスルリと抜けられ、わたしを抱き寄せるように背中に回されていた。

 「いや、あの、それはちょっと……」

 視界いっぱいに陛下のお顔っ!!
 近い、近い、近いっ!!

 「あのっ、『好き』とかそういうのは、よくわからなくってっ!! 結婚するのに、陛下は気心知れてるし、悪くないかなって思っただっ……!!」

 チュッ……。 

 どうにもならなくなって、目をつぶったわたしの瞼に陛下が口づけた。

 「わからないなら、わかるようにしてあげるだけだよ。この髪が伸びるまで、ゆっくり、じっくりと、ね」

 ……なんですか、その強調された「ね」は。意味深すぎる。
 少し身体を離した陛下が笑う。
 あの狩り場での陛下のお姿。すごくカッコいいと思ったんだけど、今の陛下はふざけきってるっていうのか。

 (どうしよ。すごいドキドキする……)

 陛下なら、気心してれてるし、結婚しても上手くいくんじゃないかなって思っただけで。だってほら、結婚なんてそんなものでしょ? 好きとか嫌いとかそういうもので決めることじゃないし。周りが勝手に決めたりすることもあるようなもんだし。だから、陛下みたいに、どういう人か知ってるから、安心して結婚できるっていうか。知らない人に嫁ぐよりマシっていうのか。そういう基準で妃になることを了承したつもりなのに。
 狩り場の陛下と今の陛下。
 どちらを思い浮かべても、陛下に聞かれちゃうんじゃないかってくらい、心臓が鼓動を鳴り響かせる。顔が熱くなりすぎて火を吹きそう。
 
 ――それが『恋』ってものですよっ!!

 頭のなか、想像の香鈴が冷静な指摘をつけ加えた。
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