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若松だんご

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或る書曰く

登場人物紹介/歴史年表(虚構ありです。参考までに)

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【登場人物】※年齢は物語(本編)スタート時のものです。(一部虚構あり)

 大津皇子(おおつのみこ)
 20歳。天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の娘、大田皇女(故人)。蘇我倉山田石川麻呂の曾孫でもある。元の名を「長津皇子」。白村江の戦いにおいて長津(博多の古称)を訪れた際に生まれたので、そう名付けられた。妻は天智天皇の娘、山辺皇女。同母姉に、伊勢斎宮の大来皇女がいる。

 大友皇子(おおとものみこ)
 故人。天智天皇の第一皇子。妻は天武天皇の第一皇女、十市皇女。二人の間に葛野王がいる。享年25。

 川島皇子(かわしまのみこ)
 26歳。天智天皇の第三皇子。妻は天武天皇の娘、泊瀬部皇女。大津皇子の親友。

 山辺皇女(やまべのひめみこ)
 16歳。大津皇子の妻。天智天皇の皇女。母は蘇我赤兄の娘。

 高市皇子(たけちのみこ)
 29歳。天武天皇の第一皇子。妻は天智天皇の娘、御名部皇女。二人の間に長屋王がいる。
 
 草壁皇子(くさかべのみこ)
 21歳。天武天皇の第二皇子。母は天智天皇の娘で大津の母大田皇女の同母妹、鸕野讚良うののさらら皇女。妻は天智天皇の娘、阿閉皇女。二人の間には、氷高皇女と、珂瑠皇子がいる。

 忍壁皇子(おさかべのみこ)
 17歳。天武天皇の第四皇子。妻は天智天皇の娘、明日香皇女。まだ年若いので一緒には暮らしていない。同母妹に泊瀬部皇女、同母弟に磯城皇子がいる。

 大来皇女(おおくのひめみこ)
 22歳。天武天皇の第二皇女。大津皇子の同母姉。十二歳の時、伊勢の斎宮に選ばれた。

 泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)
 14歳。川島皇子の妻。天武天皇の娘。同母兄に忍壁皇子、同母弟に磯城皇子がいる。

 御名部皇女(みなべのひめみこ)
 25歳。高市皇子の妻。天智天皇の第三皇女。二人の間に長屋王がいる。二人目を懐妊中。同母妹に阿閉皇女がいる。

 阿閉皇女(あへのひめみこ)
 22歳。草壁皇子の妻。天武天皇の第四皇女。二人の間に氷高皇女がいる。珂瑠皇子を産んだばかり。同母姉に御名部皇女がいる。

 氷高皇女(ひだかのひめみこ)
 3歳。草壁皇子と阿閉皇女の第一皇女。弟に珂瑠皇子が生まれたばかり。後の元正天皇。

 珂瑠皇子(かるのみこ)
 0歳。草壁皇子と阿閉皇女の第一皇子。姉に氷高皇女がいる。後の文武天皇。

 葛野王(かどののおう)
 14歳。大友皇子(故人)と十市皇女(故人)の第一子。壬申の乱後は祖父天武のもとに引き取られた。

 長屋王(ながやのおう)
 7歳。高市皇子と御名部皇女の第一子。

 石川郎女(いしかわのいらつめ)
 21歳。蘇我系石川氏の娘。皇后の采女でもある。

 天武天皇(てんむてんのう)/大海人皇子(おおあまのみこ)
 53歳。高市、草壁、大津、忍壁、泊瀬部たちの父。妻は鸕野讚良皇后。天智天皇の同母弟。甥にあたる大友皇子を戦で倒し(壬申の乱)、大津から飛鳥に都を移した。

 鸕野讚良皇后(うののさららのこうごう)
 38歳。草壁の母。夫は天武天皇。天智天皇の第二皇女。夫に付き従い、壬申の乱を起こした。祖母は皇極天皇。大津の母大田皇女の同母妹でもある。後の持統天皇。

 天智天皇(てんじてんのう)/中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
 故人。大友、川島、鸕野讚良、御名部、阿閉、山辺、明日香らの父。大化の改新において、中臣鎌足らと蘇我宗家を滅ぼし、淡海大津宮を造った。娘、大田皇女が亡くなり孫である大津皇子を引き取った際、彼の名を都になぞらえ「大津」と改名させた。※この作品では諡号を使わず、淡海帝と表記。

 皇極天皇(こうぎょくてんのう)
 故人。天智、天武の母。大津、草壁らの祖母(父方)であり、曾祖母(母方)でもある。

 大田皇女(おおたのひめみこ)
 故人。大来、大津の母。父親は天智天皇。夫は天武天皇。同母妹に鸕野讚良皇女、同母弟に建皇子(故人)がいる。

 十市皇女(とおちのひめみこ)
 故人。夫は大友皇子。父は天武天皇。母は額田王。子に葛野王がいる。壬申の乱後も生きていたが、数年後、突然死。享年30。

 八尋(やひろ)
 18歳。隠(なばり)に住む、まつろわぬ民の少年。

 真足(またり)
 35歳。大津の舎人。

 夏見(なつみ)
 17歳。山辺の女嬬。

 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
 故人。大津皇子の母方曽祖父。かつて、大化の改新において、大津の祖父、中大兄皇子を扶けた。後に、その中大兄皇子によって滅亡させられる。

 蘇我赤兄(そがのあかえ)
 故人。山辺皇女の母方祖父。かつて、淡海大津宮で大友皇子を支えていた。壬申の乱にて死去。蘇我倉山田石川麻呂の弟。

 蘇我宮麻呂(そがのみやまろ)
 かつて壬申の乱前夜、大海人皇子を逃がすことに協力した蘇我安麻呂の弟。現在の蘇我を率いる人物。石川郎女と同族。(石川=蘇我)

 有間皇子(ありまのみこ)
 故人。皇極天皇の弟、孝謙天皇の皇子。父、孝謙天皇亡き後、心の病を患ったと偽り、四年後、重祚した皇極天皇に対し、謀反を企てたとして刑死。享年19。

 粟津王(あわづのおう)
 大津皇子と山辺皇女の第一子。生没年不詳。大津皇子の変で亡くなったとも、肥前、あるいは備前、山科に逃れたという説もある。

 聖武天皇(しょうむてんのう)/首皇子(おびとのみこ)
 珂瑠皇子(文武天皇)と藤原宮子の子。皇后は藤原の娘、光明子。子に基皇子(夭折)、安倍内親王(後の孝謙天皇)、側室腹に安積親王、井上内親王、不破内親王がいる。

 吉備内親王(きびないしんのう)
 草壁皇子と阿閉皇女の第二皇女。兄に珂瑠皇子(文武天皇)、姉に氷高皇女(元正天皇)がいる。夫は、高市皇子の第一子、長屋王。二人の間に子が三人いる。


【年表】※虚構ありです。

645年 大化の改新
中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂が共謀して行ったクーデター。蘇我宗家、蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子を倒した。乙巳の変とも言う。

658年 有間皇子の変
孝徳天皇の子、有間皇子が謀反を企んだ罪で刑死。享年19。 有間皇子は、中大兄皇子の従兄弟にあたる。(孝徳天皇と中大兄母皇極天皇は姉弟) 実際には謀反を企んでおらず、皇位継承を巡って無罪のまま処されたとも言われてる。

661年 皇極天皇薨去/大来皇女誕生。
大津の祖母、皇極天皇の崩御。 大津の姉、大海人皇子の第二皇女、大来誕生。母親は、中大兄皇子の第一皇女大田。大田皇女と大海人皇子は叔父、姪の関係にあたる。

662年 草壁皇子誕生。
大津の異母兄、大海人皇子の第二皇子、草壁誕生。母は中大兄皇子の第二皇女、鸕野讚良。大津、大来姉弟の母、大田皇女の同母妹でもある。(草壁と大津は、父方で異母兄弟、母方で従兄弟の関係にあたる)

663年 白村江の戦い/大津皇子誕生
百済滅亡を防ぐため、唐、新羅連合軍に戦い挑み、負ける。この時、中大兄を始め皇室の者たちも博多に訪れていた。 そこで、大海人皇子の第三皇子として、大津誕生。戦勝を祈願して名付けられた「長津」の港(博多の古称)にちなみ、名を「長津皇子」と名付けられた(ことにしておく)。

667年 淡海大津宮遷都/大田皇女死去/長津から大津に改名
大津の母方祖父である中大兄皇子が、天智天皇として即位。近江国大津に遷都。 大津、大来の母、大田皇女が死去。姉弟は祖父にあたる天智天皇に引き取られる。この時、名を長津から大津へと改められた(ことにする)。(大津4歳)

669年 葛野王誕生
天智天皇の第一皇子大友と、大海人皇子の第一皇女十市の間に葛野王が生まれる。(大津6歳)

671年 大友皇子、太政大臣に任命
天智天皇の第一皇子大友が太政大臣に任命される。このことにより大津の父、皇太弟大海人皇子は天智天皇の後継者とはみなされなくなる。(大津8歳)
※ 「閑話:淡海」

672年 天智天皇薨去/壬申の乱
天智天皇の崩御により、後継を巡って大友皇子と大海人皇子の間で戦が起こる。吉野で決起した大海人は、近江から脱出した長子高市とともに戦い、勝利する。同じく脱出した大津は、他の子たちと伊勢国桑名にとどめ置かれた。 敗者、大友皇子は、自死。享年25。(大津9歳)

673年 天武天皇即位/飛鳥岡本宮遷都/大来皇女伊勢斎宮に
戦に勝利した大海人皇子が即位。天武天皇となる。都を近江大津宮から移す。(後に飛鳥浄御原宮と呼ばれる) 戦勝に感謝し、伊勢に斎宮を置くこととなり、斎宮には大津の姉大来が選ばれた。(大津10歳)
※ 「閑話:伊勢」

678年 十市皇女死去
天武天皇の第一皇女、大友皇子の妻、十市皇女の死去。 突然の死に対し、病気説、自殺説、様々な説がある。 彼女の死を嘆き悲しんだ高市皇子の和歌が三首万葉集に残される。 大友、十市夫妻の遺児葛野王はこの時9歳。(大津15歳)
※ 「いにしへ思ほゆ」

679年 吉野の盟約/皇子、皇女の結婚
決起の地吉野で、天武天皇と皇后鸕野讚良が行った、一族の結束を固めた儀式。参加したのは、天武方から高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、天智方から川島皇子、志貴皇子。兄弟従兄弟争うことないように願ったもの。ここで、皇子皇女の婚姻も決められた(ことにする)。ただし、長兄高市皇子のみ先んじて(677年頃)結婚していた(ことにした)。(大津16歳)
※ 「百重なす心 思へど」

680年 氷高皇女誕生/川島皇子、政治に参与
草壁皇子と阿閉皇女(天智第四皇女)の間に第一皇女氷高誕生。 天智帝の第三皇子川島の政治参与が認められる。川島23歳。 (大津17歳)

681年 草壁皇子、政治に参与。立太子。
天武天皇の第二皇子草壁が政治参与。これにより、「吉野の盟約」とあわせ、実質上草壁が天武帝の跡継ぎとみなされることになる。草壁皇子、立太子。 (大津18歳) 

683年 珂瑠皇子誕生/大津皇子、政治に参与
草壁皇子と阿閉皇女の第一皇子珂瑠誕生。 天武天皇の第三皇子大津が政治参与。草壁皇子が跡継ぎとみなされていたが、大津の参入により、その跡目争いが激化することになる。(大津20歳)
※ 物語(本編)はここからスタートします。

684年 「八色の姓」制定

685年 「冠位四十八階」制定

686年 9月 天武天皇薨去/10月 大津皇子の変/持統天皇称制
6月から天武天皇が体調を崩す。7月に、政治に関して、皇后鸕野讚良と皇太子草壁に一任したと言われる。9月9日、天武天皇薨去。10月2日、謀反の疑いありと、親友であった川島皇子の讒言により、大津皇子が捕らえられる。翌日10月3日、大津皇子、磐余(訳語田)の宮にて自死。享年24。妻、山辺皇女も同日殉死。皇后鸕野讚良は、夫、天武天皇の殯を二年執り行う。殯を草壁皇子に行わせることで、次代は草壁であると印象つける狙いがあったとも言われる。11月、大来皇女が、伊勢斎宮の任を解かれる。

689年 「飛鳥浄御原令」発布/草壁皇子薨去
草壁皇子、薨去。享年28。彼が立太子されていたというのは、子である珂瑠皇子、妻阿閉皇女、娘氷高皇女が天皇に即位したことから、後世に、その権威の正統性を示すために作られたものとする説がある。

690年 持統天皇即位/持統天皇紀伊行幸
1月1日、大津皇子、次いで草壁皇子という皇位継承資格のある皇子が薨去したことで、それまで皇后として執政していた鸕野讚良が第四十一代天皇に即位。天武天皇の第一皇子である高市皇子が太政大臣となり、その政権を支えることになる。
※ 「閑話:紀伊」

691年 川島皇子薨去
川島皇子、薨去。享年35。その殯宮にて柿本人麻呂が、皇子の妻である泊瀬部皇女に捧げた挽歌が『万葉集』に残される。

694年 藤原京遷都

696年 珂瑠皇子立太子/高市皇子薨去
2月16日、珂瑠皇子立太子。7月10日、高市皇子、薨去。享年43。

697年 文武天皇(珂瑠皇子)即位/持統天皇は太上天皇として文武を補佐
8月1日、文武天皇即位。当時15歳。

705年 忍壁皇子薨去

707年 文武天皇薨去/元明天皇(阿閉皇女)即位

710年 平城京遷都

715年 元明天皇薨去/元正天皇(氷高皇女)即位

724年 聖武天皇(首皇子)即位/元正天皇は太上天皇として聖武を補佐

729年 長屋王の変
※ 「照る月 満ち欠け」

744年 聖武天皇の第二皇子、安積親王薨去(享年18)

748年 元正天皇薨去
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