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第36話 未来。

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 「あ、母しゃま、ネコッ、ネコッ!!」

 庭園の茂みに向かって、幼い子どもが指をさす。
 いいものを見つけた。
 そのキラキラと輝く目が、連れ添う母親に興奮を伝えている。

 「まあ、猫? 珍しいわね、こんなところで」

 母親も、笑って子どもを見る。
 自分の見つけたものを、早く母に見せたくて、グイグイとその手を引っ張る。だが、そうしているうちに、猫は姿を消しそうだ。
 パッと手を離し、猫を見つけることを優先する。先に見つけて、それから母に見せればいい。名案だ。

 「ネコ、どこ~~!?」

 庭園のすみっこまで走ると、器用に茂みのなかに潜る。子どもの小さな体なら、茂みなど大したことない。それどころか、洞窟探検のようでワクワクする。

 「ネコ~、ネコしゃん、どこ~~?」

 ガサガサと派手な音をたてて這ってゆく。しかし、なかなか目当ての猫が見つからない。

 「うう~、ネコしゃん……」

 見つけたのに。さっきまで近くにいたのに。そこの茂みに隠れたはずなのに。
 悔しくて目に涙が溜まってくる。
 見つけて、母しゃまに見てほしかったのに。
 最近の母しゃまは、お腹が大きくなって辛そうだから。こうして自分と一緒にいてくれるのも、久しぶりのことだから。
 ネコを見て、喜んでほしかったのに。

 「ミャア……」

 涙にゆがんだ視界の向こうで鳴き声がした。
 ポロリとこぼれた涙を、何かが舐めた。

 「ネコ……しゃん!?」

 あわてて手を伸ばすが、ヒラリとかわされる。ネコは泣いてる子供には優しいが、だからといって、捕まってオモチャにされるのはうれしくないらしい。
 茂みのさらに奥、誰の手も届かないような先へと姿を消した。

 「シルヴェ、もういいわ。出ていらっしゃい」

 いつまでも茂みにもぐりこんだままの息子に、母親が声をかけた。
 再び涙を溢れさせた子供。その声に逆らうことは出来ず、しかたなく茂みから出てゆく。
 
 「うう~」

 目にいっぱい涙をためて、悔しそうに下唇を噛む息子に、母親は少しだけ笑った。

 「大丈夫よ。母さまも少しは見えたから。かわいい猫だったわね」

 父親譲りの銀灰色の髪についた枯葉を払いのけてやる。深い青色の瞳は涙で揺れている。
 よく見れば、白いシャツも泥だらけだ。

 「こんなに汚したら、エレンに叱られちゃうわね」

 その言葉に、シルヴェは身を硬くした。
 エレンはこの屋敷のメイドだが、シルヴェにとって家政婦頭ハウスキーパーのミセス・アマリエよりもずっと怖い。エレンの息子、アントニーと一緒にいたずらをしてくり返しているから、彼女の怒るさまは簡単に想像できてしまう。

 「大丈夫よ。今日は、母さまも一緒に謝ってあげるわ。お洋服を汚しちゃってごめんなさいってね」

 「ホントッ!? 母しゃまっ!!」

 「ええ、本当よ」

 母しゃまと一緒なら、大丈夫だ。エレンも、きっとそこまで怒らないだろう。エレンは厳しいけど母しゃまにはすこぶる優しい。

 「母しゃま、大好きっ」

 幼い手で、せいいっぱい母を抱きしめる。
 柔らかい、甘い香りのする母を独り占めする。大きなお腹は邪魔だけど、それでも頬をよせれば、幸せな気持ちになれる。

 「あらあら、大きな赤ちゃんね。もうすぐお兄ちゃんになるのに」

 お兄ちゃんになっても、こうして甘えたい。そう思ってギュッてしがみついたら、お腹のなかからポコリと蹴飛ばされた。

 「うう~」

 痛いわけじゃないけど、悔しい。ボクだって、母しゃまを独り占めしたい。
 再びこぼれ落ちた涙を拭ってもらう。
 公爵家の跡取りとして、いつまでもこんな弱虫じゃダメだってわかってるけど、まだ子供なんだから少しぐらいいいじゃないかって思う。

 「大丈夫よ。シルヴェはいつか立派なお兄ちゃんになるわ。母さまと父さまの子ですもの。きっと誰よりも素敵なお兄ちゃんになるわよ」

 「ホント?」

 「ええ。絶対なれるわ」

 だから安心して。

 「母しゃま!!」

 うれしくって、再び母しゃまに飛びつく。
 母さまがそうおっしゃるのなら、絶対ボクは立派なお兄ちゃんになる。公爵家の跡取りとして恥ずかしくない、素敵なお兄ちゃん。ちょっとぐらいお腹の中の赤ちゃんに蹴られても、ボクは立派なお兄ちゃんなんだから、平気だもん!!

 「甘えん坊だな、シルヴェは」

 ネコの消えた先、茂みの向こうから聞こえた笑い声に、シルヴェとその母親、リーナは視線をむけた。

 「お帰りなさい、アナタ」

 「父しゃまっ!!」

 シルヴェが駆け寄ると、その勢いのままに父親、クラウドが息子を抱き上げる。

 「いい子にしてたか、シルヴェ」

 「はいっ!!」

 クラウドに振り回され、シルヴェがキャッキャと声を上げて笑った。
 父しゃまのお腹には、弟も妹も入ってないから、好きなだけギュッと出来る。母しゃまも大好きだけど、この父しゃまも大好きだ。シルヴェは、自分と同じ髪色の父しゃまに顔を寄せて、思いっきり甘える。

 「元気にしてたか、リーナ」

 「ええ。今日は体調もいいから、シルヴェと散歩を」

 夫のいたわりに応えるように、リーナは自分のお腹をさすってみせた。

 「この子も、今日はとても元気なのよ」

 先ほどだって、母親を独り占めしようとした兄を蹴飛ばしたぐらいだ。

 「それはよかった」

 シルヴェを片手で肩に抱き上げながら、リーナも抱き寄せる。

 「俺は、お前がいなくて寂しかったがな」

 「まあ……」

 額に軽く口づけられて、リーナは苦笑するしかない。
 この春、父親の地位を継ぎ、ヴィッセルハルト公爵となった彼は、ここ数日かけて公爵家の領地を回っていた。
 爵位継承とともに、本来なら公爵家の本宅に引っ越さねばならなかったが、いまだに以前と同じ屋敷で暮らしている。公爵夫人となったリーナが、たくさんの使用人に囲まれて生活することに慣れていないのと、クラウドが、気兼ねなくリーナと過ごす時間を作りたいというワガママがその理由だった。
 そのせいで料理人クックのハンスをはじめバートン家の者たちは、街でレストランを開くことなく、家族ぐるみでいまだにこの屋敷で働いてくれている。ジョージと結婚したエレンは、メイドであるだけでなく、先に子どもを産んだ経験者として、リーナのよき相談相手となってくれている。
 もうすぐ二人目の子どもも生まれるというのに。
 クラウドのリーナへの愛情は変わらず、離れることを嫌い、戻ると容赦なく甘える。

 (シルヴェよりも手のかかる、大きな子どもだわ)

 外では、立派なステキな公爵さまだと言われているのに。社交界で、いまだに彼に秋波を送っている令嬢、夫人たちが見たら、さぞ驚くに違いない。

 「父しゃま、あのねっ、さっきそこにネコがいたんだよ!!」

 抱き上げられたままのシルヴェが声を上げた。

 「猫!?」

 「うんっ、すぐにいなくなっちゃったけど。でもちゃんといたんだよ? こーんな真っ白いキレイなネコしゃん!!」

 身振り手振りで、シルヴェが一生懸命父親に伝える。
 クラウドの方は、そんな息子に一瞬だけ苦いものを噛んだような顔をしてみせた。

 「父しゃま……?」

 理由がわからないシルヴェは、キョトンとするだけだ。
 もしかして、父しゃまはネコがお嫌いなのだろうか。猫を飼いたいなんて言ったら嫌われてしまうかな。

 「シルヴェ。大丈夫よ。父さまも猫はお嫌いではないわ」

 シルヴェの不安を察したように、リーナが語りかけた。

 「それより、シルヴェ。灰色猫には気をつけたほうがいいわよ」 

 「はいいろ?」

 さっき見たのは白色だったけど。

 「灰色猫はね、とっても甘えん坊さんなのよ。ちょっぴりワガママで独占欲の強い甘えん坊さん」

 クスクスと笑いながら、リーナが教える。

 「リーナ」

 自分を抱き上げる父親が、眉をしかめ母親をたしなめる。顔を赤くして、少し怒ってる。
 どういうことなのかな。
 わからないシルヴェは、首をかしげるしかなかった。
 
*     *     *     *

 「覚悟しろよ」

 シルヴェに聞かれないように、囁くようにクラウドがリーナに告げた。

 「子どもが生まれたら、猫らしく、タップリ甘えてやるからな」
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