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誰だ、貴様は
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皇国歴一九六〇年 盛夏
「人が、すごい」
電車を二度乗り継ぎ皇都についた。駅前のロータリーには自動車が無数に走り、駐車し、人は蟻の行列のようにどこかに向かっている。コンクリート造りのビルが、赤間の比にならないほどの高さまで伸び、空を覆うようだった。夕暮れだというのに日差しも強く、ここにいるというだけで倒れそうだった。
しばらく呆けていると誰かにぶつかり舌打ちをされた。ムッとする暇もなく通りすぎ、それでようやく正気に戻った。
「軍の本部まで行かないと」
駅の案内板を見てみるが、どこにも表示されておらず、忙しそうに人並みを整理する駅員をつかまえた。
「あの、軍の本部は」
するとかなり慣れた様子で「あのバスにのって下さい。四つ目の停留所で降りればすぐですよ」と、愛想よく答えた。
彼の指先が示した方向はかなり大きなターミナルだったが、奥の停留場に半紙に堅苦しい文字で「皇国軍行き」と矢印まで添えてあった。
迷わずバスに乗り込むと深緑の軍服の老紳士と青年がこっちを見た。乗客は彼らだけで、このバスに乗り込むというのは、つまりは軍人か未来の軍人に限るのだろう。
だからといって話しかけてくるでもなく、その視線を受けながら前の方に素早く座った。小銭を数えてから握りこむと、いつの間にか眠っていた。冷房の効いた車内は軽快な振動と合わさり、快適だったのだ。実は電車の中でも寝ていたのだが、自分の神経はそれほど独り立ちに対して参っていないとわかり嬉しかった。
「きみ、ここで降りるんじゃないのかい」
誰かに揺さぶられて初めて目が覚めた。乗客の老紳士が俺を見て微笑んでいた。
「私もここで降りるんだ」
垂れた目尻と低い鼻がこの人の印象を優しいものに決定付けている。低い声には俺のような年下にも威張るところがなく、しかし力は強く、肩に置かれた手のひらは熱かった。
「あ、はい。ありがとうございます」
促されて急いで降りた。小銭を用意しておいてよかった。
その人はバスが出発すると俺を横に並んで歩き出し、そこで初めての皇都の人間という意識が強まり、もしこれが真冬であっても汗をかいただろう。夏真っ盛りなのであるから、その量も甚だしかった。街路樹のイチョウは等間隔に植えられ、その枝の影から赤くキラキラと輝くものは熱さそのものだった。
「きみは軍人になるのかい」
彼は背が高い。俺の頭のてっぺんが彼の顎の辺りにくる。
「はい。昼間に封筒が届きましたので」
「随分急いだね。憧れていたのかい?」
驚いた様子もなく、それが地顔なのか、微笑んでいた。
「祖父が急げと」
「なるほど」
それきり黙ったまま歩くと、気がついたことがある。イチョウの反対側、歩道を挟んだ側はずっと壁が続いているのだ。少し振り返ってもそれは続いていた。
「もうつくよ。こっちは射撃訓練の的があるから壁になっているんだ。ほら、あそこ。壁が途切れているだろう」
錆の浮いたプレートには確かに「皇都陸軍総合本部」とある。
「陸軍、俺は陸軍になるのか」
書類は見ていないし、本部に行けとしか言われていない。慌てて鞄から書類を取り出すと、ねじまがった判子の文字に陸の字を認めることができた。
門は閉じていたが、老紳士の顔を見た警備兵はすぐに横付けの小さなドアを開いた。
「彼もいれてくれないか」
「そんな、駄目です。俺は明日また来ます」
言ったそばから少し悔やんだ。土地勘もなければここがどこなのかもわからない。駅まで戻ろうにも眠っていたから道もわからない。それにこの門は規則で閉じているのだろう、好意に甘えてそれを破るのは違う気がした。
「それはなぜだい」
彼は不思議そうにしている。どうして俺が断ったのか信じられないといった風だ。渡りに船を出したのに、乗船しない少年が気になってしかたないだろうか。
「だって門はもう閉まっていました」
「まだ六時を過ぎたばかりだよ。書類の提出は八時までだからいいのさ」
「でも」
「形だけだよ。だいたいここにしか壁も門もないのだから、本当に形だけなんだ」
警備兵に同意を求めると、苦笑いで頷いていた。
「まあ、そうですね。それにここが正門なだけで、他は開いていますから。日もまだ出ていますし」
「ほら、変なことを気にしないで」
背を押されとうとう俺は軍へと足を踏み入れた。今朝は祖父と飯を食ったのに、今では皇都で軍の壁の内側にいる。敷地の中に入っただけなのだが、まるで別世界に迷いこんだみたいに頭がくらくらした。
「あそこの玄関から入りなさい。ここからでも受付が見えるだろう」
無機質な灰色の壁のを切り取ってはめられた大きなガラス張りのドアは締め切られ、この老紳士に開けてくれと頼みたいほど緊張していた。
「それじゃあ頑張って」
どこかへ、グラウンドの方へと去る彼に感謝を伝えると、
「うん」
と、微笑んだが、それ以上のことはなく去っていった。警備兵に誰なのかを聞くことも忘れ、ガラスから中を伺うと、ちょっと病院の待合室のような雰囲気だった。清潔で、軍服が通りすぎるとわけもなく興奮した。もう緊張はなかった。
実に事務的に俺は軍へと入った。名前と年齢、住所と生年月日を確認され、身長と体重を測るだけのごく簡単な身体検査を受けると、もう名前が刻印された管理表を渡された。縦三センチ、横五センチ程の金属に名前があるだけの簡素でつまらないものだ。短い一辺に穴が開いていて、そこに紐を通して首にかけると無くさないぞと受付のお姉さんが教えてくれた。
「それじゃあ、ええと、朝日さんね。これであなたは軍の人間なんだけど、こんなに早く来るなんて思わなかったから、まだどこに編成されるか決まってないのよ」
彼女は申し訳なさそうにしつつ笑ってごまかした。やはり普通はもっと考えてから行動するのだ。なぜ祖父はあんなに急いだのか問いたいが、啖呵を切って別れたので、たった数時間後に電話をしては格好がつかない。
「まずかったですか」
「いやいや、やる気があっていいよ。えっと、手続きは終わったから決まり次第連絡します。連絡先、教えて」
「いえ、こっちに親戚もいませんし、あの正門の前にいますので、決まったら教えてください」
乾パンもあるし、食って寝ればそのうち決まるだろう。夕食代も宿代も節約できる。
「え? 前?」
「失礼します」
「ま、待って! どういうこと? 正門の前?」
「はい」
「前で、なに?」
金も無く、つてもない。すぐに結果の知れる場所に待機したいと説明していくうちに彼女は不機嫌になった。
「あのね、そんなことはできないの。常識的に考えたらわかるでしょ」
それから地図を持ち出し、近くの宿を探してくれた。だが財布の中身を見せると、それだけではとても泊まれないことがわかった。
「あなたの家族はどうなっているの?」
そんな本音が顔に浮かび青筋をたてさせた頃、受付の間仕切りの奥から人が現れた。話を聞いていたのか、
「金がないなら宿舎に泊まりなよ。あそこなら近いし、もう手続きがすんだなら別にいいだろう」
と、進言してくれた。
お姉さんの熱も一気に下がり、手を打って名案を喜んだ。向かってみると、二階建ての木造らしいが、その宿舎の全容は入り口につけられた照明だけでも十分にわかった。ひどくボロいのだ。蔦の這う外壁は手入れの怠りを感じさせる。灯りのついた部屋に窓はテープで補強され、屋根は瓦とブルーシートの混合だ。
引き戸はやけにがたつき、強引に引かなければ開かない。玄関はタイル張りだが何枚か損なわれ、軋みそうな床が続くのをみるだけで、これでは門の前の方がいいのではないかと思う。
玄関の右側が管理人室で、そこをノックすると、連絡は来ていたらしく、しわがれた老婆のような低い声で「二階。一番」と響き、礼を言って階段を登った。
部屋数は少なく宿舎などとはいってもこれでは名前負けにもほどがある。どう繕っても民家程度だし、打ち捨てられたと頭につけてもいい。階段も軋む。ギイギイと、静かに歩こうとすればするほど軋むのだから、住んでいる人には悪いがこんな家、俺は嫌だ。
襖から漏れでる光に惨状を想像したが、以外と部屋は綺麗だった。畳の目は新しく、襖だってどこも破れていない。六畳の狭さはむしろこれが軍人なのだという、質素さと謙虚さで出来上がったイメージ通りなほどだ。
蛍光灯からぶら下がった紐を引いて一度消し、また点けた。外から見えた窓の割れはここだった。
押し入れには寝具があり、外での寝泊まりを覚悟していただけに、今までのマイナスは逆転し、
「皇都はすごい」
と、妙な感嘆までした。
日は落ち、することもない。どうせしばらくは連絡を待つ身だ。明日は散歩にでも行こう。荷ほどきすら必要ない軽装だから、さっさと寝てしまおう。
蛍光灯を消し、引いた布団の上に寝転んだその時。ノックもなく部屋に誰かが入ってきた。
「おい」
不機嫌になる余裕はなく、至福を噛み締める寸前に、声の主は明かりを自ら点けた。
「誰だ、貴様は」
「人が、すごい」
電車を二度乗り継ぎ皇都についた。駅前のロータリーには自動車が無数に走り、駐車し、人は蟻の行列のようにどこかに向かっている。コンクリート造りのビルが、赤間の比にならないほどの高さまで伸び、空を覆うようだった。夕暮れだというのに日差しも強く、ここにいるというだけで倒れそうだった。
しばらく呆けていると誰かにぶつかり舌打ちをされた。ムッとする暇もなく通りすぎ、それでようやく正気に戻った。
「軍の本部まで行かないと」
駅の案内板を見てみるが、どこにも表示されておらず、忙しそうに人並みを整理する駅員をつかまえた。
「あの、軍の本部は」
するとかなり慣れた様子で「あのバスにのって下さい。四つ目の停留所で降りればすぐですよ」と、愛想よく答えた。
彼の指先が示した方向はかなり大きなターミナルだったが、奥の停留場に半紙に堅苦しい文字で「皇国軍行き」と矢印まで添えてあった。
迷わずバスに乗り込むと深緑の軍服の老紳士と青年がこっちを見た。乗客は彼らだけで、このバスに乗り込むというのは、つまりは軍人か未来の軍人に限るのだろう。
だからといって話しかけてくるでもなく、その視線を受けながら前の方に素早く座った。小銭を数えてから握りこむと、いつの間にか眠っていた。冷房の効いた車内は軽快な振動と合わさり、快適だったのだ。実は電車の中でも寝ていたのだが、自分の神経はそれほど独り立ちに対して参っていないとわかり嬉しかった。
「きみ、ここで降りるんじゃないのかい」
誰かに揺さぶられて初めて目が覚めた。乗客の老紳士が俺を見て微笑んでいた。
「私もここで降りるんだ」
垂れた目尻と低い鼻がこの人の印象を優しいものに決定付けている。低い声には俺のような年下にも威張るところがなく、しかし力は強く、肩に置かれた手のひらは熱かった。
「あ、はい。ありがとうございます」
促されて急いで降りた。小銭を用意しておいてよかった。
その人はバスが出発すると俺を横に並んで歩き出し、そこで初めての皇都の人間という意識が強まり、もしこれが真冬であっても汗をかいただろう。夏真っ盛りなのであるから、その量も甚だしかった。街路樹のイチョウは等間隔に植えられ、その枝の影から赤くキラキラと輝くものは熱さそのものだった。
「きみは軍人になるのかい」
彼は背が高い。俺の頭のてっぺんが彼の顎の辺りにくる。
「はい。昼間に封筒が届きましたので」
「随分急いだね。憧れていたのかい?」
驚いた様子もなく、それが地顔なのか、微笑んでいた。
「祖父が急げと」
「なるほど」
それきり黙ったまま歩くと、気がついたことがある。イチョウの反対側、歩道を挟んだ側はずっと壁が続いているのだ。少し振り返ってもそれは続いていた。
「もうつくよ。こっちは射撃訓練の的があるから壁になっているんだ。ほら、あそこ。壁が途切れているだろう」
錆の浮いたプレートには確かに「皇都陸軍総合本部」とある。
「陸軍、俺は陸軍になるのか」
書類は見ていないし、本部に行けとしか言われていない。慌てて鞄から書類を取り出すと、ねじまがった判子の文字に陸の字を認めることができた。
門は閉じていたが、老紳士の顔を見た警備兵はすぐに横付けの小さなドアを開いた。
「彼もいれてくれないか」
「そんな、駄目です。俺は明日また来ます」
言ったそばから少し悔やんだ。土地勘もなければここがどこなのかもわからない。駅まで戻ろうにも眠っていたから道もわからない。それにこの門は規則で閉じているのだろう、好意に甘えてそれを破るのは違う気がした。
「それはなぜだい」
彼は不思議そうにしている。どうして俺が断ったのか信じられないといった風だ。渡りに船を出したのに、乗船しない少年が気になってしかたないだろうか。
「だって門はもう閉まっていました」
「まだ六時を過ぎたばかりだよ。書類の提出は八時までだからいいのさ」
「でも」
「形だけだよ。だいたいここにしか壁も門もないのだから、本当に形だけなんだ」
警備兵に同意を求めると、苦笑いで頷いていた。
「まあ、そうですね。それにここが正門なだけで、他は開いていますから。日もまだ出ていますし」
「ほら、変なことを気にしないで」
背を押されとうとう俺は軍へと足を踏み入れた。今朝は祖父と飯を食ったのに、今では皇都で軍の壁の内側にいる。敷地の中に入っただけなのだが、まるで別世界に迷いこんだみたいに頭がくらくらした。
「あそこの玄関から入りなさい。ここからでも受付が見えるだろう」
無機質な灰色の壁のを切り取ってはめられた大きなガラス張りのドアは締め切られ、この老紳士に開けてくれと頼みたいほど緊張していた。
「それじゃあ頑張って」
どこかへ、グラウンドの方へと去る彼に感謝を伝えると、
「うん」
と、微笑んだが、それ以上のことはなく去っていった。警備兵に誰なのかを聞くことも忘れ、ガラスから中を伺うと、ちょっと病院の待合室のような雰囲気だった。清潔で、軍服が通りすぎるとわけもなく興奮した。もう緊張はなかった。
実に事務的に俺は軍へと入った。名前と年齢、住所と生年月日を確認され、身長と体重を測るだけのごく簡単な身体検査を受けると、もう名前が刻印された管理表を渡された。縦三センチ、横五センチ程の金属に名前があるだけの簡素でつまらないものだ。短い一辺に穴が開いていて、そこに紐を通して首にかけると無くさないぞと受付のお姉さんが教えてくれた。
「それじゃあ、ええと、朝日さんね。これであなたは軍の人間なんだけど、こんなに早く来るなんて思わなかったから、まだどこに編成されるか決まってないのよ」
彼女は申し訳なさそうにしつつ笑ってごまかした。やはり普通はもっと考えてから行動するのだ。なぜ祖父はあんなに急いだのか問いたいが、啖呵を切って別れたので、たった数時間後に電話をしては格好がつかない。
「まずかったですか」
「いやいや、やる気があっていいよ。えっと、手続きは終わったから決まり次第連絡します。連絡先、教えて」
「いえ、こっちに親戚もいませんし、あの正門の前にいますので、決まったら教えてください」
乾パンもあるし、食って寝ればそのうち決まるだろう。夕食代も宿代も節約できる。
「え? 前?」
「失礼します」
「ま、待って! どういうこと? 正門の前?」
「はい」
「前で、なに?」
金も無く、つてもない。すぐに結果の知れる場所に待機したいと説明していくうちに彼女は不機嫌になった。
「あのね、そんなことはできないの。常識的に考えたらわかるでしょ」
それから地図を持ち出し、近くの宿を探してくれた。だが財布の中身を見せると、それだけではとても泊まれないことがわかった。
「あなたの家族はどうなっているの?」
そんな本音が顔に浮かび青筋をたてさせた頃、受付の間仕切りの奥から人が現れた。話を聞いていたのか、
「金がないなら宿舎に泊まりなよ。あそこなら近いし、もう手続きがすんだなら別にいいだろう」
と、進言してくれた。
お姉さんの熱も一気に下がり、手を打って名案を喜んだ。向かってみると、二階建ての木造らしいが、その宿舎の全容は入り口につけられた照明だけでも十分にわかった。ひどくボロいのだ。蔦の這う外壁は手入れの怠りを感じさせる。灯りのついた部屋に窓はテープで補強され、屋根は瓦とブルーシートの混合だ。
引き戸はやけにがたつき、強引に引かなければ開かない。玄関はタイル張りだが何枚か損なわれ、軋みそうな床が続くのをみるだけで、これでは門の前の方がいいのではないかと思う。
玄関の右側が管理人室で、そこをノックすると、連絡は来ていたらしく、しわがれた老婆のような低い声で「二階。一番」と響き、礼を言って階段を登った。
部屋数は少なく宿舎などとはいってもこれでは名前負けにもほどがある。どう繕っても民家程度だし、打ち捨てられたと頭につけてもいい。階段も軋む。ギイギイと、静かに歩こうとすればするほど軋むのだから、住んでいる人には悪いがこんな家、俺は嫌だ。
襖から漏れでる光に惨状を想像したが、以外と部屋は綺麗だった。畳の目は新しく、襖だってどこも破れていない。六畳の狭さはむしろこれが軍人なのだという、質素さと謙虚さで出来上がったイメージ通りなほどだ。
蛍光灯からぶら下がった紐を引いて一度消し、また点けた。外から見えた窓の割れはここだった。
押し入れには寝具があり、外での寝泊まりを覚悟していただけに、今までのマイナスは逆転し、
「皇都はすごい」
と、妙な感嘆までした。
日は落ち、することもない。どうせしばらくは連絡を待つ身だ。明日は散歩にでも行こう。荷ほどきすら必要ない軽装だから、さっさと寝てしまおう。
蛍光灯を消し、引いた布団の上に寝転んだその時。ノックもなく部屋に誰かが入ってきた。
「おい」
不機嫌になる余裕はなく、至福を噛み締める寸前に、声の主は明かりを自ら点けた。
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