特派の狸

こま

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「肉そば」「俺も」

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皇国歴 一九六〇年 盛夏

「誰だ、貴様」
 開口一番にこう言われても俺は対応できない。ただじっと、彼女を見た。
 短い黒髪、太い眉。ギロリと睨む大きな目。赤い唇から覗く尖った犬歯。歳は俺よりも下だろう。中学生くらいの短躯だが迫力がある。今まで出会ったことのないタイプだった。
「誰だ、貴様。なぜここにいる」
 繰り返された質問には敵意があった。それに怯んだわけではないが、それに答えなくてはいけない。彼女がここの住人ならば近所付き合いもあるし、心のなかでこの宿舎を罵倒した引け目もある。
「朝日誠です。ここを宿にしろと言われて」
「ああ? 誰に」
「受付の、名前はわかりませんけど」
「なんだそれは。嘘ならもっと真実味のあるものにしろ」
「本当なんです」
 つい敬語で喋ったが、なにもそんなことをする必要があるのか。年下だからと軽視したりはしないが、もしかしたらこの子も俺と似たような境遇かもしれない。寝間着のジャージにはどこかの紀章がある。まだ中学のうちだ、見知らぬ土地で誰もが敵に見える気持ちもわからなくはない。
「朝日つったか。上司は誰だ」
「さあ。それが決まっていないそうで、宿代もないのでここを勧められました」
「適当だなぁ。軍はそんな対応ばっかりだ」
 すると彼女は出ていって、座布団を二枚持ってきた。
「ほら。やるよ」
 もう敵意はなくなっていた。どこで判断したのかはわからないが、俺を嘘吐きとして扱うことはやめたようだ。
「私もさ、呼び出されて来たんだ。それなのに宿舎が一杯っておかしいだろ。で、ここだぜ、ここ。ほんと最悪だ。お前も同じようなもんだろ?」
 敵意どころか馴れ馴れしいくらいにくつろいでいる。頷きながら聞いていてもとにかく自分への扱いが悪いという愚痴ばかりだった。彼女は隣の部屋にかなり前からいるらしいが、音沙汰がないのが気に食わず、兵舎の食堂に石を投げつけてうさを晴らすといった悪質ないたずらで暇を潰していた。
「あの……そんなことして大丈夫なんですか」
 正直、俺は距離をおこうとしていた。だが会話の流れには逆らえず、質問や肯定を続けると、馴れ馴れしさはひどくなるばかりだった。
「なんだよ、敬語なんかいらないよ」
 それは先ほどの悩みは解決されるが、仲良くなれば、その先にあるなにか、おそらくは悪事に巻き込まれるだろうという確信に近い予感が暗雲として脳内に広がり、
「いや、だって。あなたの名前も知らないのにそんなこと」
 これが間違いだった。彼女は肉食の猫科動物のような俊敏さで俺の間違いに食らいつく。
「ああ、言ってなかった。榊真実さかきまみだ」
 ジャージの襟を開け、首もとの紐を引いて管理表をつまんだ。
  さかき、まみ。小さく呟くと「まみでいいぜ」と先回りされ、ようやく覚悟が決まった。俺はこいつと知り合うのだ、と。
「私も誠って呼ぶよ」
「よろしく……真実」
 名前を呼ぶことへの毛恥ずかしさに決めたはずの覚悟が吹き飛びそうだ。ひとまずは敬語を取っ払うところから始めよう。
「どっから来たんだ? 好きな食べ物は? 犬飼ってるか?」
 真実の矢継早な質問は俺に皇都での初めての友人をつくらせた。ひとつ答えると彼女は十返すという驚異的なキャッチボールではあったが、なんとか成立させ、そして楽しんだ。彼女には他人の領域へと無造作に入り込み、それを不快に思わせない才能があった。
「あ、悪いね。つい話が長くなった」
 もう二時間以上俺たちは些細なことで笑いあい、この国の状況や軍の実情、将来を、彼女の主観で観察し盛り上がった。
「そろそろ寝るよ。おやすみ」
 真実はわざわざ電気まで消して出ていった。盛り上がったのは確かだが、俺は彼女をまだ知らないのだ。名前以外は素性も年齢も知らない。そのくせ俺は出身や家族構成まで語っていた。その事に気がつくとなにか取り返しのつかないことをしたのではと漠然とした恐怖が芽生え、しかし彼女が悪いやつにも見えなかったためにその不安も翌日には無くなっていた。
 そして不安のないまっさらな、初めての皇都での朝に問題が起きる。小さなことだが、重要な、毎日に欠かせない問題が発生したのだ。
「着替えはあるが、風呂がないぞ」
 細々とした生活品を一切持たずにやってきた俺は、ここでそうした不便に陥り、管理人を訪ねた。
「突き当たり。左」
 また老婆の声はそれきりしなくなり、指示通り一階突き当たりまで行くと、風呂と壁に直接埋め込まれたプレートがある。
 脱衣場、その奥が浴室となっていた。四角い箱形のロッカーには今いる部屋の番号が割り振られ、備え付けられた竹かごには欲しているおよそ全ての雑貨があった。
 浴室は増築されたようでかなり広い。小さな温泉気分だった。入浴を済ませ学ランに着替えてから管理人に外出を告げると、かすかな呻きが返事の代わりにかえってきた。
 本部は早朝から人の出入りが多く、昨日に面倒をみてくれた受付のお姉さんは無造作に肩や首を回すストレッチをしていた。あまり人の視線を気にしないのか、というより自分のあらゆる評価に対して無関心なのか、あくびまでしていた。
「おはようございます」
 声をかけると「ああ、昨日の」と手をふって、
「多分今日か明日には決まるよ」
 と、のんびり言った。通知は昨日来たので、数日の準備や引っ越しの手続きに費やすとすれば妥当だろう。ただ俺が早く来すぎただけで、通知の来たその日に手続きをするというのはあまりないそうだ。
「観光にでもいけば? あーあ、仕事がなければ案内してあげられたんだけどな」
 音量はそれなりで、ロビーにいた軍服たちは彼女を「ああ、あいつか。いつもああだもんな」と、呆れたように眺めていた。しかしそんな彼女でもこうして仕事ができているのは、やはり能力があるのだろう。面倒見もいいし、よく観察すると美人だった。
「じゃあ、ちょっと散歩でもしてきます」
 意識してしまうと駄目なのだ。顔が赤くなっていると自分でもわかる。足早にその場を離れた。
「なるべく宿舎にいてねー」
 去り際の台詞は背中に熱湯のような熱さで降り注ぎ、本部を出た後で、
「感じ悪かったかな」
 と、反省したが、戻るのも気まずく、そのまま壁に沿って歩き始めた。
 本部を一周してみようと思い、学ランのポケットに手を突っ込んだ。熱波は容赦せず、頭皮から汗を滴らせ、首、脇と連鎖する。
 ようやく壁が消えた。砂地が広々と延びていて、雑草や小石がきれいに除かれている。声を出しあいながらシャツ一枚でランニングをする軍人たちを横目で追いながら我が身を振り替えると、彼らのような生活に馴染めるかどうか全くわからなかった。俺はごく普通の高校生であったし、子どもだった。社会の広さといえば学校と近所の年取りがせいぜいで、それが俺を囲むものだった。
 歩くうちに宿舎が見えてきた。予定を変え、帰ってもいい。軍本部は広大な訓練施設、グラウンドや射的場、奥には道場らしきものもあって、そこに事務管理や編成を行う部署が備えらているのだ。これもまた大きな倉庫からは機械音が絶え間なく鉄の絶叫とでもいうべき爆音を響かせているのだが、一周するにあたり足はそちらへと向かわなくてはならないのだ。
「帰ろう。もう決まったかもしれないし」
 左に曲がれば倉庫で直進すれば宿舎なのだが、また少し歩くため散歩としては十分である。地理にもまだ疎いため遠出をするのは危険だ。迷子になっては格好悪いし、ないとは思うがそんな些細なことで強制送還など絶対にいやだった。
「あれ? なんで帰りたくないんだろう」
 何もかも新鮮な皇都に魅力を感じているのだろうか。軍人であるという自覚がもう出来上がったのか。不明瞭なまま帰宅し、床を軋ませて二階の仮住まいへと戻った。
 布団を引いて横になるとすぐに寝た。まだ朝ではあるし、昨晩もよく眠れた。カーテンもないので、暑い。場所も時間も関係なく眠れることを密かに誇っていた。

 どれくらい時間が経ったのかよくわからないが、まだ日は出ている。時計もこの部屋にはなかった。洗面所で顔を洗い、乾パンを食っていると「管理人に挨拶とかした方がいいのかな」と、突然に頭に浮かび、老婆の声がする部屋をノックした。
「朝日ですけど」
 また呻きだけが返ってきた。しゃがれた声は「なに?」と判別できた。
「少しの間、お世話になります。よろしくお願いします」
 しばし間があり「よろしく」と聞こえてきた。
 この老婆になにかを期待したわけでもなく、淡々とした挨拶は予想通りだった。玄関横の下駄箱の上の壁掛け時計は四時を過ぎている。
「……寝よう」
 どうせすることもない。娯楽もない。テレビが愛おしくもなったが、なければないで苦にはならなかった。
 それから眠って、廊下の軋みで目が覚めた。隣の部屋から物音がして、部屋の外から俺を呼ぶ声がする。
「いるかー?」
 静かに襖が開かれた。真実の声だ。彼女は鋭さを含む高い声で「寝てんのか」とささやく。
 勝手に明かりをつけ俺を発見すると、小さく悲鳴をあげた。
「お前、もしかしてずっと寝ていたのか」
「違うけど、ここにはいたよ。今朝本部の受付の人が言ったんだ。今日か明日にはどこに編成されるかわかるって」
「だから待機か? そんなの律儀に守らなくたっっていいじゃん。遊びに行けよ、遊びによ」
「その間に連絡が来たらどうするんだ」
「帰ってからでいいだろ。それより飯食ったか? ずっと本部に監禁されててさ、昼も食ってないんだ」
 そういえば朝は彼女と会わなかった。丸一日本部でなにをしていたのだろう。ただ形だけの俺とは違ってもうこいつは正式な軍人なのだろうか。
「何してたんだよ」
「私が先に聞いてんだよ。飯は?」
 きつい言い方に慣れるにはもう少しかかりそうで、そのためにも意志疎通はしておかなければならない。
「乾パンを昼に。それだけ」
「よし」
 真実は手を打って俺の腕を引いた。
「な、なんだよ」
「腹が減っては戦はできぬ、だ」
 連れていかれた先は本部だった。ロビーを抜け、廊下を進むうちに飯の匂いがしてくる。
「金がないんだ」
 これは言っておかなくてはならない。無様すぎる未来、食ってから文無しが発覚することだけは避けたかった。
「いくらある?」
 このときはもう俺の腕を引ったくってはいなかった。学ランの内ポケットを確認しつつ、祖父から貰った財布を改めようとすると、
「いい財布だな。どれ、札はないか……小銭が……ああ、あるな。なんなら私の分まである」
 一人で笑う真実の先導は続く。廊下の角を曲がると極端に人が増えた。その先が食堂だった。
 二列になり、途中で注文した料理を盆に乗せて席につくようだ。
「並ぶのか?」
「ん? そりゃあ並ぶだろ。順番抜かしてもいいけど、そんな気分じゃない」
「で、あそこでなにするんだ」
 壁の一部がステンレスに代わり、窓枠状になっている。その向こう側でエプロンを着た人たちが忙殺されている。食器を洗い鍋をかき回し、配膳して金を受けとる。機械的だが暖かみのある光景だった。
「注文だろ。ほれ、そこの紙に色々あるだろ」
 短冊に切られた細い紙に料理名が記され、下部に値段が表示されている。
「肉そばね」
 真実はそう告げて小銭をだした。復唱の声が聞こえてきた。
「俺も」
 完全に同じ動作で注文と会計を済ませると真実は不機嫌に俺を眺めた。
「真似すんなよ」
 その意図はどうやら違う味が欲しくなったときに困るからだそうだ。
 彼女は空いている席を確保し、俺はその対面に座った。
「この時間になると結構座れるな」
「座れなかったらどうするんだ」
「諦めろ。悲惨だぜ、立ったままから揚げ定食食ってるやつは。まあそれを眺めながらの飯はうまいから、それ目当てで食堂使うのもありだ」
 そんな悪趣味なこと他に誰がするのか。彼女はひねくれている。そばをすする音も豪快だった。汁まで飲み干すのに十分もかかっていない。それにあわせるよう俺も急いだ。
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