特派の狸

こま

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皇国歴一九六〇年 盛夏

 食事を終え宿舎に、そのボロさからお化け屋敷と真実は呼んでいたが、戻ってから彼女は妙に忙しなかった。
 やれ風呂に入れとか、早く寝ろだとか、それで自分の支度が終わってジャージになると、
「夜更かしするなよ」
 と、念押ししてすぐに眠ったようだ。
 何を考えているのかはわからないが、まあどうせ姉貴ぶりたいのだろう。そういう年頃なのだ。俺だって祖父に気どったような態度でいたこともある。彼はなんでも自分でできたために意味はなかったが、意味のない世話を焼くたびに顔がほころんでいた。そういう、あのときの俺のような感覚を真実が欲している、ことはないだろうが、なんにせよ親元を離れている少女の寂しさを散らせる手助けになるのなら悪いことじゃない。だがそれに甘えきる俺でもない。自分のことくらいは自分でできる、はずだ。

 熱さで目が覚めた。太陽は半分顔を出し、割れ窓の近くをカラスが飛んでいく。
 シャツを着て、顔を洗う。外に出て日光を浴びる習慣はないが、この日はそういう爽やかな心地の朝だった。
「おはよう」
 玄関からだ。顔の下半分を隠してしまうほど大きなマスクをした女性がいる。一度裏に回って二本の箒を持ってきた。
 一本を俺に押し付け、マイペースに葉屑を掃いていく。
「おはよう、ございます」
 無言で掃き掃除を終えると彼女は集まった葉屑をちりとりに押し込める。
「こっち」
 付いてこいのハンドサインに従って裏に回ると物置があってごみ箱や掃除道具がしまってある。
「また、よろしく」
「え、あの」
 手伝いがしたかったのではない。気まぐれに外に出ただけなのだ。
 彼女は俺の返答に目だけで悲しみを訴えてきた。これは命令されるよりもずっと堪える。
「たまになら」
「明日もよろしく」
  今度は有無を言わさず背を向け、どこに行くのか追うと、玄関そばの部屋に入った。
「管理人さんか」
 ではあの老婆の声が彼女なのか。しゃがれてもないし、よく通る声だったから、もしかすると娘か孫かもしれない。
 俺はこの後どうするかといえば、また布団に寝転がるのだ。窓を全開にすると室内の空気が一新され、微睡みは早朝の空気に包まれた。
 冴えた頭は無理やりぼんやりさせ、目を閉じる。こんなにぐうたらな本性があったとは知らなかった。
 チッチと小鳥が鳴いている。のそりと起き上がると窓辺にいたは小鳥は一斉に羽ばたいてどこかにいってしまう。
 これではいけない。このままでは何かが駄目になる。布団にあぐらをかきながらそんなことを考えていると、地鳴りがした。本部のどこかから黒い煙が昇っている。
「行ったほうがいいのかな」
 野次馬のついでに受付で進捗でも聞こう。
 道中は血相を変えた軍服ばかりで、どうやらまずいことになっているらしい。
「火災だ! ホースを持ってこい!」
「怪我人は」
「軽症二名だ。しかし火はまずい」
 正門は人でごった返している。これではあのお姉さんも大変だろう。
「火事か。火元はどこかな」
 避難指示の誘導を無視して半ば犯人のように近づくと、ある一棟が真っ赤に燃えていた。簡易的なプレハブのようだ。
「あ! 丁度いいところに」
「ん?」
 様々な絶叫同士が混ざる、もはや他言語のような怒号が飛んできた。
「誠、手伝え!」
 真実は強面を引き連れている。追われているのか、多分追われているのだろう、いや間違いなく追われている。
「何をしたんだ、お前」
 軍人が一人を追い回すなんて、そんなことがあるのか。しかも相手は同じ軍人だし、まだ子どもじゃないか。
「失せろ学ラン! そのガキごとぶちのめすぞ!」
「悪いことしたのか」
 夏のせいではない。血気盛んな彼らのせいでもない。 全身が痺れていた。
「なんにも」
「本当か?」
「うん」
 彼女の平然とした様子は、はっきりいえば悪者の開き直りに似ていた。
「逃げていたのか」
「なに喋ってんだおい」
 軍服の一人に胸倉を捕まれた。彼の右の耳から小鼻まで痛ましい傷が延びている。
「おっさん、そいつは関係ないだろ! 私が……」
「悪くないんだろ?」
 火事の熱か。恐怖か。痺れは続いている。真実も軍服も俺を注視した。
「なんで追いかけられてたのかは知らないけど」
「誠……?」
「俺が丁度いいところにいて、手伝って欲しいんだろ?」
 痺れは熱になり血液に注がれる。心臓は信じられないほどの速度で膨張と収縮を交互に行い、深呼吸すると口内が火傷するほど熱い吐息だった。
「おい、学ラン、大丈夫か?」
 嘲りだった。胸ぐらを掴むのをやめて、頬を軽くぶたれた。
「おい榊、お前の兄貴か? 似合いの兄妹だよ」
 ガチン。
「……は?」
 真実の頓狂な声。派手に倒れた傷の男。現状把握の遅れた軍服ども。
 振り抜いた拳には歯が数本刺さっていた。
「や、やりやがった」
 軍人に手を出した一般人。そんな構図を描いていれば彼らの困惑もわかる。しかし形だけでも俺だって、少なくとも真実は本物だ。
「まだ間に合うかな」
 謝れば、土下座でもすればことは収まるだろうか。誠意を尽くせば可能性はあるかもしれない。
 もちろんそんな気はなかった。身体の熱と鼓膜を揺さぶる鼓動はこんな瞬間を望んでいたのだろうか。
「なぁんだ。やるじゃん。弱っちいかと思ってた」
 真実は軍服どもに突っ込んでいった。竜巻のように暴れ、俺も加わった。闘争の間、常に思考は明瞭で意識の途切れることもなく、ついに増援の絶えない軍服どもの一人が遂に銃を抜いた。
「動くな。全員だ」
 誰もがあの小さな武器を知っている。簡単に、指先に力を伝えれば人が死ぬことを。銃口は真実に向けられていた。
 全員が静まり、彼と銃によって支配された空間だった。
「うざ」
 真実は近くにいた軍服を殴り飛ばした。彼女のどこにそんな力があるのか、不幸矛先を向けられた男はだらしなく失神していた。
「動くな!」
「それしか言えないのか。おい蓄音器、誰かに録音されたのかよ? 次は降参ですって吹き込んで貰え」
 炸裂音と同時に真実の足元の土が弾けた。
「脅しじゃないぞ」
 これだけ騒ぎが大きくなれば当然ではあるが、野次馬に囲まれていた。経過を知らなければただの喧嘩だし、誰かが消火したプレハブはもう話題にすらなっていない。
「そこまで」
 喧騒を一掃する太い声。やたらと勲章を着けた軍服がテキパキと周囲に指示を出していく。
「みんな業務に戻れ。君たちは事情聴取するから治療した後、私のところへ来なさい」
 騒動は終わった。さっぱりとした終わり方だった。
 治療を終えるまで真実はずっと興奮していて、やや支離滅裂に罵りを口にしたり、
「助かったぜ、ホント」
 などと、汚れた学ランの背を叩いたりした。彼女は無傷だったが、俺は散々に擦り傷や打ち身をして、骨が折れていないことだけが不幸中の幸いだった。歯が刺さった拳は幾重にも包帯が巻かれ右手はしばらく使うなと軍医から注意を受けた。
「あの人、偉いのか」
 ベッドに寝かされた軍服どもをニヤニヤしながら眺める真実は俺の問いに頷く。
「階級章が胸にあったじゃん」
「全部一緒に見える」
「会えばわかるでしょ。せんせー、聴取ってそどこで受けんの?」
 軍医は真実の態度にも動じない。それどころか笑みを浮かべて場所を伝えた。
「普通は地下でやるけど、君たちは福平中佐のところ」
「りょうかーい。誠、行こうぜ」
 彼女は曲がり角を間違えることもなく、正確に最短で福平中佐の部屋まできた。個室ではなく大部屋を並べてロッカーで区切り、それぞれの部隊や部署で仕切っている。
 書類と格闘していたり電話の受話器を叩きつけたりと、少々殺伐としていた。
「そこ、おいお前ら」
 手をふっている男はさっき喧嘩を止めた本人で、つまり彼が福平中佐なのだろう。
 整理され尽くした木製の机、椅子は安っぽいパイプで組み立てられていて、ちぐはぐだった。
「榊、また派手にやったな」
 四十くらいだろうか、浅黒い肌に四角い顔つきの福平は親しみの込もった声音で切り出した。
「経緯は?」
  真実は少しこちらを見た。誰かがいては話せないようなことなのかもしれない。
「編成のことで揉めました。希望通りでなく、再考して欲しいと伝えたのですが、余地なしと」
「それで?」
「断り方が頭にきました。悪口雑言を吐かれ、追い返されたので、そこから口論に。あれはその延長です」
 福平はうんざりだとはっきり難色を示した。
 それよりも真実の丁寧な口調が意外だった。彼女にもこんな風にものが言えるのだと感心した。
「前に食堂に石を投げたとき、俺は言わなかったか? 二度と悪さをするなって。今回のも、バカなやつらだと後で笑えばすむじゃないか。お前の憂さ晴らしはことが大きくなる」
 それに。彼はまだあるぞと釘をさした。
「希望通りにならないなんて当たり前だ。お前の都合じゃなくて、こっちの都合が優先されるんだ。適正とか、運動能力とか、その他もろもろで」
「わかっています、それくらい」
「じゃあ悪口くらい放っておけ。これでお前の受け入れ先はなくなったぞ。あそこのお化け屋敷に入り浸ってもう一ヶ月だぞ? 軍だって人手は欲しいのに」
 もう真実は何も喋らなかった。きつく結ばれた紅唇からは今にも不満が漏れそうである。
「それで、きみは?」
 福平は温和だった。説教というわけでもなく、ただ巻き込まれた俺への同情だけがあった。
「朝日です。先日軍に書類は出しましたがまだ編成先が決まっていないので、宿舎に泊めてもらっています」
「そうか。なるほど、同じような境遇なのか、お前らは」
 どこにも所属していない、ただ軍預りの半端者。それが俺たちだった。
「もう反省文もいらん。榊はあのお化け屋敷でしばらく謹慎だ。朝日、お前は巻き込まれただけ、いいな」
 福平はとにかく厄介者など見たくないらしい。同時に前途のある若者を保護したくもあり、そう裁きを下したのだろう。
 頷くことしかできず、真実は先に帰ってるしまった。
 それからはお互い宿舎で顔を会わせても口をきかなかった。無視され、かける言葉もない俺は朝の掃除をしたりごみを捨てたりの雑務をして過ごした。飯は本部の売店に乾パンが売っていたのでそれを買ったが、腹はあまり減らなかった。
 後で知ったのだが彼女は何年か前に家族を戦争でなくし、とある名家の養子になったらしい。厚遇だったが後付けの家族だけに居場所を感じられず軍に来たそうだ。管理人との雑談の欠片を統合したものだから本当かどうかはわからない。
 彼女はどんな心境だったのだろう。両親は亡くしたが俺には祖父がいた。友人もいた。居場所の有無なんて気にもとめなかった。
 俺の寂しさなんて彼女に比べればどれほどのものだというのだ。おそらくあの人懐っこさは処世であり、ひねくれた暴虐性は自己防衛なのだ。
 どうして黙って福平から逃げたのだ。あれでは俺こそが面倒を嫌う悪人ではないか。隣人のことなのにどうしてあれほど無知でいられたのだ。未知的な彼女は確かに眩しかった。甘えていたのだ。俺の孤独や寂しさのもたらす空白を彼女の後ろに追いやって見ないふりをしていたのだ。眩しすぎる新たな出合いをペンキにして独房のような新天地をベタ塗りしていたのだ。
 ペンキは処世と自己防衛が放つ嘘の明るさと、暗く悲痛さを伴う冷淡が混ぜられた極彩色で、その色に俺は甘えていたのだ。
 取り返しはつかない。右手の包帯を剥がすと傷口は膿んでいて、あの時の熱狂がまだあった。
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