特派の狸

こま

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感情の紐

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皇国歴一九六〇年 盛夏

 騒ぎから一週間、真実とは目も合わなくなった。彼女は謹慎を受けてもなお平時と変わらない様子だった。行き先はわからないが外出もしていた。
 八月も終わる頃、ようやく俺は編成先が決まり、そのために本部へと出向いた。
「大変だったね」
 受付のお姉さんがそう言ってくれた。彼女は芝村というらしい。
 芝村に小さな会議室へと案内された。腕の太い軍服が斉藤、眼鏡をかけたのは奥田と名乗った。どちらも中尉で、二人は俺を待ちかねた様子だった。
「いやあ、本当はかなり前から決まっていたんだけど、ほら、例のトラブルがあって」
 彼らは真実のことを言っている。彼女のしたことは彼らにとってトラブルに間違いない。間違いないのだが気にいらなかった。
「あの、ここは前線に出る部隊なんですよね」
「そうだ。最前線だ。花形だ」
 ああ、ここで俺は死ぬのか。直感だった。
 彼らは俺の直感を不安に思ったのか、訓練風景を見せてやると誘った。
 走ったり、腕立て伏せをしたり、組手をしていたり、射撃をしていたり、様々だった。
 その中の数人が、組手をしていた連中がこっちを見るなり集まってきた。喧嘩の相手だと思ったし、実際そうだった。
「中尉、なんすか。こいつ」
「うちの新人だ。お前らと何があったか知っているが、水に流してくれ」
 当然そうはいかないだろう。彼らは鍛えた筋肉を使いたいのだから。
 案内が終わり、中尉たちとは忙しいと言って別れた。手続きが終わったらまた来いと、笑みをつくった。それは嘘ではないのだろう。
 一人になり部署から、彼らは第一前線部隊で大部屋をそのまま使っていた、ぽつんと歩いていると、
「おい」
 呼び止められ、殴られて蹴られて、ひどい目に遭った。倒れても攻撃は止まずそのうち気絶していた。
 医務室で目が覚めた時、深夜であったが、薄汚れた学ランをはおって宿舎へと帰った。軍医に気がつかれないよう窓から外へ出た。
 胸にはギプスがくっついて邪魔だったし、捻挫している足首を庇いながらの道中だったが、怨みや悔しさというものはなかった。
 宿舎の廊下が軋むと管理人が顔をだす。
「安静に」
 彼女は普段の調子だった。何もかも知っていながら察したのだろうか。ここに戻ってきたという俺にもわからない心理の最奥を。
 どの体勢になっても体は痛む。その点でいえばベッドだろうが宿舎だろうが不変だ。

 廊下の軋み。しかし管理人でも真実でもない。慌ただしく建物に気を使っていない、そんな足音だ。
「朝日、いるか」
 斉藤と奥田だ。抜け出した俺を探したのだろう、息が荒い。
「……あいつらか」
 本部で誰か倒れている。大きな怪我。犯人は不明。彼らにもそんな情報が噂のような伝達でもって届いたのだ。待てど暮らせど訪れてこない新米とその誰かが脳内で溶接されたのが今朝だそうだ。
 あいつらとは突っかかってきた連中だ。彼らはもう全容を把握し、措置をとるその最終確認の判を押すだけなのだ。
「きっと報復だ。お前に歯をへし折られたやつはまだ入院している。その仕返しだ」
「この中に、襲ったやつがいるか」
 奥田はファイリングされた写真を取り出す。数百枚はあったが、忘れるものか、そいつらはいた。
「どうだ」
 彼らはきっと罰を受ける。だけど俺の傷は治らない。犯人探しに意味はない。
「突然だったのでわかりません」
 彼らは訝しみ詮索を続けたが、知らないで通した。減給や謹慎など意味がないのだから、指差してこいつですなんて馬鹿らしい。
「……そうか。だが謝罪しよう、私たちが見張っていればこうはならなかったのだから」
 すまん。二人は頭を下げた。中尉という階級がどれほどなものかはわからないが、子どもをあやすようなちゃちなものではなかった。
「こちらこそ、迷惑かけてすいません」
 それで手打ちとなった。十分に療養してから配備とのことだが、おそらくはまた協議されるだろうと斉藤は言った。
 その夜、真実が部屋に来た。世界の全てが憎いような顔つきは軽い痙攣を引き起こし、不思議と笑っているようにさえ見えた。
「誰のせいだ」
 彼女のいう誰とは、それは軍服どもじゃない。自分を責めているのだ。自分が巻き込んだせいでこうなったのだと、悔恨と憎しみを内側に突き刺しているのだ。
「怪我は治るよ」
「バカが! そんな話じゃねえ! 」
「誰のせいなんて話でもない」
 責任を押し付けるのであれば、ただ一人のものだ。
「俺が弱っちいのがな、よくなかったよ」
 軽く笑うと真実は「そうかよ」と言って、俺を胸を蹴っ飛ばした。声を殺し激痛にもがく姿を彼女はじっと観察する。冷たい瞳だった。
「なあ、冗談なんかいらないよ。悔しくないのかよ、お前」
 そんな格好で、蹴られたら泣く。これじゃあ損だろ。彼女は自らの悲劇のようにそう言った。呼吸を整えることすらできず俺は言葉を探していた。真実はどうかわからないが、俺には伝えるべきことがあるのだ。
「代わりにやってやるよ」
 彼女は選んだ想いを叫ぶ。
 だが、それだけは、最もされたくない禁忌だ。
「待て。話を聞いてくれ」
「うるせえ。寝てろ」
「お前は何をしてもいい。だけど、それは駄目なんだ」
 伝えなければならない。俺の言葉を、真意を。
「聞いてくれ。ほら、座れって」
「……ん」
「聞いたよな、俺。悪いことしてないかって。で、お前はしていないって」
「それがどうした」
「馬鹿にされたから暴れたんだろ?」
「なんだ、説教か」
「違う。暴れたくなるくらい、なんか言われたんだろ?」
「……そうだ」
 彼女の心を和らげたいのではない。善悪に境界線を引きたいのでもない。
「じゃあそれで終わりだろ」
「なに言ってんだ。お前、大丈夫か?」
「おかしいか? 追いかけられて、俺たちは喧嘩して、それで終わってなきゃいけないはずなんだ」
 真実は目を丸くし、半開きの口を閉じることもしない。
「その後に俺はやられた。俺たちじゃない。俺が、だ」
 忘れるな。忘れるな。この痛みを。
 思い出せ。思い出せ。あの痺れを。
「お前は悪くない。一方的でもないし理由もあるんだから。一対多だったことも、その無鉄砲さは友人として、お前らしくて嬉しい」
「おい、誠、どうした」
「謝罪もされたし、このことは全部水に流した。だが忘れはしない。だからお前は手を出すな」
 口を挟ませずまくし立てると真実はゆっくり立ちあがる。いてもたってもいられないのかもしれない。
「じゃあどうする」
「もう決めているよ」
 ブツと感情を制御する紐が切れた。何重にも編み込んだ無数の紐はこの瞬間に切れたのだ。これだけは、彼女のせいにしたい。
「泣き寝入りか」
 多分、彼女はどうかしている。獣の威嚇同様に笑みをみせたのだ。こんな時に笑うようなやつは、どんな馬鹿話をしているときも素敵に笑うようなやつは、きっとどうかしている。
「夏の終わりまでにはやってやる。ああ痛え、胸も足も痛え。忘れるもんか、あの野郎。半端には終わらせねえからな。なあ、お前の件は片付いて、後は俺だけだ。くだらねえ、あんな死ぬだけの隊になんか行ってはやらねえ。こんな胸当ても邪魔だ。とっちまえこんなもん。真実、お前は正しい。だけどさ、馬鹿と関わると損だってわかっただろ。だから俺だけでやる。大人しく謹慎してろ。これは俺の仕返しものだ。俺がしないと、いや、俺がしたいんだ。ああ痛え、忘れねえからな、あの野郎。だから、だからよぅ」
「……くは、ははは」
 真実は高く笑い、無意識が犬歯を光らせた。いっぱいまで開かれた目とそれは美しく調和し、ぞっとするほど神秘的だった。
 多分、お前はどうかしている。彼女はそう言った。正しい彼女が言うのだから、それは正しいのだろう。
「だから、お前は悪くない。俺はやる。これだけが言いたかったのに、回りくどかったな」
「かなりな。でもいいじゃん。覚悟って感じ、好きだぜ」
 夏の勢いではない。彼女のいう覚悟の響きは、俺の痛む胸の、蹴りでは決して届かない場所にまで染みた。
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