特派の狸

こま

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第二章

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皇国歴一九六〇年 厳冬

『笹沼地区に天使発生。戦闘班は直ちに出動してください。繰り返します……』
 サイレンに合わせて狸も飛び出した。ハネさんが常に戦闘用の背嚢を用意してくれているので、それを持つだけよかった。予備の弾丸と簡易な医療道具、それと俺の背嚢にだけ乾パンが入っていた。
 まだ車が届いていないので、第一突撃部隊に相乗りさせてもらっての初出出撃になった。
 トラックの幌で覆われた狭い荷台に武器と一緒に横並びになって膝を抱える。
「誠、花火は」
「六本全部持ってきた」
 花火と呼んでいるのは、大きな金属製のロケット花火のようなものだ。先端の筒に火薬を詰み、着火させると支柱となる金棒ごと飛んでいき、炸裂する。棒を拾い火薬を代えれば再利用ができ、単価も安い。
「よし。現地へ到着、または敵を視認するまで仮眠だ」
 奇襲のおそれもあるが、そうなれば死ぬしかない。真実は言うなりまぶたを落とし、寝息を立てる。俺も巡も同じようにした。
『こちら雀、天使視認』
 それはぼんやりと耳に入った。雀はたしか、発砲音がチュンチュンとする銃が主武装の部隊だ。
『犬が八匹、虫が五匹。これより交戦する』
 まだ眠りの中にある頭に届く雀のさえずり。戦場は近い。
 真実は起きるとすぐに運転手の座席を蹴った。第一突撃部隊は猪の名前で呼ばれ、皆が筋肉の鎧を身に付けている。
「距離は」
 狸が殺気だち、彼らも緊張の度合いをぐっと深めた。
「もう二キロもない」
 答えた彼は少尉だったが、階級を気にする余裕もなかった。
「虫は初めて見るな」
 笠置に叩き込まれた教本を思い出す。六本足の蟻のような天使で、安直に「アント」と名付けられている。しかしサイズは犬と呼んでいるウルフと同程度はあるのだ。
「でも規模はそれほどでもないですね」
「そうだな……それに、さ」
 すると真実はそわそわと、ちょっと逡巡して、
「あ、赤間ほどじゃあねえや、な」
 口ごもりながら言った。俺の顔をそっと覗きこみながら気弱でいる。彼女の新しい一面だった。ためらいながら、辛い過去をえぐり、激怒されてもおかしくないことをわざわざやった。困難に打ちかつ狸、ためらわない彼女が、俺に赤間の軽口を不安そうにした。
「榊曹長!」
 巡は叫んだが、それを宥めた。宥めるしかなかった。
 真実は、こいつは俺の一番柔らかい場所を貫き、一番くすぐったい部分をかきむしり、一番心地よい響きをぶつけたのだ。
 巡には悪いが、誰にもこの感覚を奪わせはしない。
「……それだよ。お前もわかってきたな、赤間の女め」
 真実の表情は瞬間的に明るくなり、意味もなくまた座席を蹴った。
「……おかしいよ、この人たち」
 巡は呟いて、俺の肩に体を預け、哀しそうにうつむいた。
「いたぞ! 犬っころだ!」
 運転席からの声に合わせて強い衝撃、車外に転がり出ると、後続車のライトが眩しい。
 どこかの森林、ここを抜けると市街の明かりがある。避難は終わっているらしい。
「朝日上等兵、花火を持て。巡軍曹、援護しろ」
 猪たちを置き去りに狸は雪を踏む。
「止まれ」
 真実は腕で俺たちを制止させ、筒を指差した。
「あそこだ」
 一匹の虫がいる。奴も周囲の気配を感じ取ったのか、一目散に向かってきた。
「発射用意」
 真実は持ってきた背嚢を筒と雪の間に噛ませた。
「着火しろ」
 合図を受け、ライターの火が導火線に灯る。すぐにそこから離れると、真実と虫の距離はほんの数メートルとなっていた。
「発射ぁ」
 狸の足下から伸びた筒が虫の顎を貫き、炸裂した。真実はその体液をかぶり、袖でぬぐった。すぐに無線で報告をして、
「次だ」
 と促す。筒の先端は焦げ、虫の体液を蒸発させている。

 犬を二匹、虫が一匹。それが狸の、北楽での初陣戦果だった。
「おかしくねえか? 全部始末したのに、帰還指示が出ねえ」
 それどころか臨戦態勢を解くなと厳命を受けた。
「曹長、あれ」
 巡の指の先、裂け目はまだ閉じていない。
「なんだ、中央とは勝手が違うな」
 しばらくすると裂け目は消えた。同時に無線が鳴る。
『笹沼北西部、はの一号だ!』
 いろは順に危険度を、数字は発見された順を表す。高度の戦闘能力を有する天使をこう呼んだ。
 つまり、それほど危険ではないが、しぶとく生き残った歴戦の天使である。
「大物だ」
 大急ぎで猪のトラックに乗り込む。
 頭から尾までが六メートルはあり、体の側面にびっしりとむかでのように人の手が生えた蛇。それが「はの一号」である。逃げ帰る時には地上すれすれまで裂け目が現れるという。傷だらけの体をしていて、それがこの天使が目撃例のものと同一の個体であるという証拠だった。俺の刺した刀がまだあるという軍服の証言もあるくらいで、
「要心と覚悟だけはしろ」
 と、真実は静かに言った。
 距離としてはそれほどではないが、車内の時間だけが遅く感じられる。無線が鳴ると肩を震わせたのは、巡もそうだった。
『雀だ。被害が大きい、撤退する』
 しばらくするとすれ違う車両、小さく丸っこい鳥がペイントされていた。
「見えたぞ」
 運転手の声には決意がある。スピードが落ちて、戦闘の音がした。骨太の絶叫が耳に痛い。
 あれがそうか、と現実を現実として受け入れなくてはならなかった。手のある巨大なヘビが軍服を握りしめた。しなやかに這って人をくわえた。
 猪が十三名、足止めとして残った雀が六名、狸が三名。ここからどれだけ減るのだろうか。臆病な思考ではなく、それは事実だろうし、むしろ起こらなければならないと、うまく唾が飲み込めないほど、蛇は不気味で、人が立ち向かうにはおそれ多い存在に見えた。
「花火か?」
 隣には巡がいる。彼女の無様はさらせない。気合いだと心で叫んだが、俺の声はかすれていた。
「奴はすばやい。当たるかどうかやってみてもいいが、軍服に当たると面倒だ」
 車の影に隠れ、真実は巡に何発か発砲させた。頭部を狙えと言う。小銃であり威力も射程もないが着弾はした。
「まあいけないこともないか」
 また一人、生きたまま丸呑みにされた。
「よし、花火出せ」
 ボンネットに乗せて着火、一直線に飛ぶ筒は、蛇の顔の近くにある左腕をかすめた。この筒は持ち運びが不便であり、弾の数というのが筒そのものになるため、牽制もできない。幅広い役割を演じられる銃に比べたら大方の武器がそうであるが、この筒は特に見劣りする。
 だが、勝るとも劣らない部分もある。威力の一点だけがこの火器の意義だと見せつけるように、蛇の腕にかすった瞬間大きく炸裂し、肘から上を消し飛ばしたのだ。
 軍服の歓声、蛇の悲鳴のような威嚇、狸は睨まれ、睨み返す。
「抜刀。朝日は花火の用意をして待機だ。巡、行くぞ」
 射撃による戦闘が行われる中で、接近戦をすることは通常の場合愚かである。射線上に身を置けば無論弾丸は敵に命中するよりはやく己に当たる。そのため接近戦は最後の手段といえるが、彼女たちは率先してそれをやった。
「『狸が囮になる。諸部隊は頭を狙え』」
 軍服どもは承諾した。あえて囮と言ったたため余裕が生れ、蛇の意識も腹部にむかい、結果として頭への攻撃は苛烈になりよく当たった。
 だが決定的なものではない。堅い鱗が銃弾をはじいている。
 狙いを定めながら、真実と巡を目で追う。二人は動き回る蛇に猛進していった。
 真実の刀が腹にある腕を数本まとめて切り裂いた。すかさず腹を割って、巡の一刀も加わり、十字の傷口からは尋常ではないほどの流血、それでも生命を脅かすことはない。
「花火用意!」
 真実の合図で照準を合わせる。目算ではあるが、顔を狙えば味方へ誤射ということはない。
 蛇の二つの瞳がこっちを向いた。最初に腕をもいだあの一撃か、と巨体をくねらせおぞましく無数に備わった腕を使い這ってきた。
「撃て!」
 花火は命中しなかった。器用に顔だけを移動させ、そのままのスピードで迫る蛇、もう俺のことだけしか獲物ととらえていないようだった。
 次の花火は間に合わない。軍服はもちろん、真実と巡ですらこの暴走する蛇を止められない。
 存在の消滅を直感する。これは死んでしまう。だが奇妙なことにこういう直感は知っているのだ。非日常の日常であるこれは、戦場に出るたびにつきまとう。
「何で棒立ちなんですか!」
 巡は蛇の揺れる尾に、走りながら跳躍し刀を突き立てた。が、鱗が何枚か剥がれただけであり、突進を阻むにはいたらない。振り落とされても、彼女は追撃を諦めない。
 巡は蛇を止められず、奴は車ごと俺をかちあげた。空中で胃の辺りから異様な音がして、蛇の二股になった舌が俺の靴をなめた。
 それを確認しようとして、できたということは、俺にまだ活力があるとことの証明である。
「誠!」
「狸がまずい! 撃て、撃ちまくれ!」
 地上ではやたらと俺を呼ぶ。地上が右手側にあるということは、俺の体はそういう位置にいるのだろう。
「朝日さん!」
 それはひたすらに熱かった。脇腹が火を押し付けられたように傷み、熱を持ち、広がっていく。
 下半身は粘着力のある生暖かい空間に飛ばされたのだと、本気でそう思った。しかし上半身は寒風の荒びにわずかにさらす肌を刺していて、状況に理解が追い付かない。
 地上にいる真実が俺を呼んでいる。巡も、軍服もわめいていた。連中が蛇の腹へと銃口を向けている、そうしてやっと気がついた。
 俺はなぜ落下しないのだと。
「誠!」
 胸の下に鱗で覆われた鼻先があった。体の半分が蛇の口内にあったのだ。その奥に滑り込んでもおかしくないが、幸か不幸か、蛇の細い牙が腹に刺さり、それが、胃があるのであればそこへの落下を防いでいる。
「じい、俺の軍服姿なんて見たかねえだろう」
 薄れていく視界と意識、ここにきて筋肉痛だろうか、やたらと腕が痛かった。
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