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第二章
無知
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皇国歴一九六〇年 厳冬
「ハネさんが中佐? 本当ですか?」
巡の失礼な疑問は、妥当でもある。ハネさんは「元、ね」と肯定した。
「知らなかっただろ。すげー人なんだよ」
真実はとても誇らしげで、ハネさんもそれが嬉しいのか真実の体を抱きしめた。
「湯ノ島って、中尉と、仲よし」
「話によると湯ノ島中尉は優しくて思いやりがあって、まあ人がいいらしい。金や飯で困った時には助けて欲しいって頼みに行こう」
真実は決して中央への足掛かりとは言わなかった。そこは狸でなんとかするという決意でもあるようだ。
しかしなんと心細い情報なのだろうか。そういう性格とはハネさんの主観じゃないのか。
「なのでこれから伺おうと思う」
「急だな」
「善は急げだ」
「誰が行くんだ。お前とハネさんでか」
「例によって、巡は」
「ええ、留守番ですよね。どうぞ朝日さんも連れて行ってくださいな」
「なにすねてやがる。まあそうするが」
手を振る巡を置いて、狸が三匹、北楽を行く。湯ノ島は狙撃部隊にいるらしいので、冷気と暖気の混ざる廊下を歩く。
気がついたのは、やはりそうではないかと、思っていたが、俺たちは目立つ。
経歴だけでなく、彼女たちの容姿や振るまいがそうなのだ。
「やっぱり寒い、室内でもジャケットを着た方がいいな。あのぺらぺらのやつなんか丁度良いじゃん、中央から持ってきたやつ」
真実の声はかなり響く。風鈴のような涼やかさがある。背の高いハネさんは言わずもがな、軍服の視線がチクチクと刺さるが、彼女たちは全く気にしない。
「ここだな。失礼します」
そして、狸の長は相変わらずためらわない。
「湯ノ島中尉はいらっしゃいますか」
奥にいた女性が机から顔を上げた。
目の下には深いくま、薄い茶の髪を後ろでくくっている。
「はい、私ですが」
地の底から這い出るような低い声は、彼女との見た目には似合うようなものではない。
「あ、大鳥中佐! どうしてここに?」
「久しぶり。湯ノ島」
二人は数年ぶりの再会そうで、握手も力強い。
「この子たちは、あれですか、狸の」
「特別派遣部隊『狸』の榊真実曹長です」
「同じく、朝日誠上等兵です」
彼女と握手をすると、掌は岩のように固い。軍歴と修羅場を重ねた手だった。
「大鳥さんもこっちに来たんですね」
「随行員なの。湯ノ島、お願いがある」
湯ノ島は軽いハネさんの言に大真面目で答えた。
「どうぞこちらへ。できる限りのことは」
「ありがとう。行こう、真実」
少し話が大袈裟になって気がした。
案内されたのは、パーテーションの向う側、少しだけ上等な椅子のある簡素な応接間。湯ノ島は遠慮がちに上座についた。
「自己紹介がまだでした、黒子湯ノ島少佐です。昔は大鳥さんの部隊でお世話になっていました」
湯ノ島は名前だったことを知り、なんとなくハネさんに目を向けると、よくわからないながらも微笑んだ。
中尉はハネさんの記憶ではそうというだけで、現実は少佐だった。しかし彼女は気にした様子でもない。
「黒子少佐、お頼みしたいことがあります」
真実は単刀直入、そう言った。
「どうぞ」
と、彼女も応じる。
「私たち狸は、恥ずかしながら、軍からあまり好かれていません。私事での出撃や、その他の軍規違反も数々してきましたので」
「……自業自得ですね」
「ええ。おっしゃる通りです。そのために、狸に与えられるであろう餌は少ない。それを、人並みになるよう、有事の際には埋めて欲しい」
湯ノ島、いや黒子は声を落とす。
「出来なくはないですけど、厳しいですね」
「わかった。ありがとう」
ハネさんはすぐに席を立つ。そこに怒りや粘りの姿勢はない。
「……お時間を頂きありがとうございます、少佐。失礼します」
ハネさんに続いて真実も起立し、俺もそうした。黒子は黙って見送った。
あまりにも短い、あっさりとした面談だった。
巣穴まで戻ってきて、ようやく真実が抑えていたものを吐露する。
「理由はわかるがよぅ」
静かで、険しい声だった。巡に始終を伝えると、
「正しいじゃないですか」
と、売店で買ったせんべいをつまむ。
「うん。コネ、なくなった」
「ちょっとくらいならいいじゃんって思ったけど」
「誠ぉ、そりゃこっちの都合だ」
八つ当りのように叫び、真実は自分で急須からお茶を注いだ。
「部下がいて、この寒さと交通不便。よそに飯と金を分ける余裕なんてないんだよ」
「じゃあなんでイライラしてんだ」
彼女はその事を理解していたはずだ。あの場で理解したのであれば、彼女はここまでやさぐれない。
「ドライ過ぎるぜ、本当におんなじ部隊だったのかよ。ただの部下と上司、そんな感じでさ」
これが彼女の思うところなのだろう。
そうじゃない、とハネさんは首をふる。
「湯ノ島は、いつもああいう感じだった。柔らかくて、仲間を守る」
「黒子さんじゃなくても普通は断りますよ。考えてみれば私たちの要求はただのわがままですから」
「んなことはわかってんだよ」
真実はのんびりこたつに潜った。
「もしものための予防線だ。ないならないでまた考えるさ」
彼女は顔を布団に隠した。予防線ではなく、やはりあてにしていたようで、外れた悔しさと憤りとばつの悪さを見せたくないらしい。
「……巡」
上官のフォロー、というかこれは俺のためだ。もぞもぞとこたつで寝返りばかりうつ真実は見ていられないほど落ち込んでいるのだから。
「なんですか?」
「腕立てでもするか」
「……ええ。そうしましょう」
巡はジャケットを脱いでこたつを端に寄せた。スペースをつくり、彼女にしては少し甘い声で言う。
「ハネさんもします?」
答えがわかっている問いだった。
「やめとく」
「そうですか」
真実はまだ暖かさに潜ったままだった。
「……じゃあ始めますか。朝日さんはいつものメニューでお願いします」
五十回を三セット、これを休憩を挟みつつ巡の気のすむまで行うのがいつものである。徐々に回数が増えているので、慣れるということがない。
腕を軋ませる間、ハネさんはテレビをみていた。ニュースやバラエティを自由に行き来している。真実は寝たふりで腕立てふせの回数を数えている、気がした。
「結構できるようになりましたね」
巡は額に汗する俺を一瞥した。彼女は片手の親指だけで体を支え足を天に向けた変則的な静止運動をしている。
「お前に言われてもなあ」
巡となにかをすると自分の不出来が目立つ。しかし彼女なりに俺を立ててくれようとするのが、ありがたいようなそうでないような、不思議な感覚になる。
「あと二セットしたら、腹筋に移ってください」
「了解」
「巡ぃ、お前のそれ、なんだ」
真実はのそのそと顔だけ出した。
「全身運動ですよ」
その状態から腕立てをしてハネさんすらを驚かせた。
腕立てを終えて腹筋に移る。真実がそれをしげしげと眺めるので声をかけた。
「お前も一緒にやってくれ。巡と一緒じゃあ、ちょっと情けなくなる」
「御座、すごいね」
「それほどでも」
「私の腹は割れてるから、別にいい」
そっぽを向くボス狸のために少しだけ場所を空けた。体はこうしたわずかな休息とも呼べない休息すら求めていた。
「頼むよ。ほら、隣空けたから」
あぐらをかいて床を軽く叩く。「休まないで」と巡に叱られた。
「……まあ訓練は必要だし。やってもいいけど」
十回だけと真実は隣で腹筋を始めた。這うように並んだくせに上体を起こすことに関してはスムーズだった。
「十回を三セットですよ」
「厳しい教官だあね」
俺は黙々とこなしていく。とてもお喋りをしながらではできなかったが、彼女たちは余裕があった。
「真実さん、金策って具体的に何をするんですか?」
「そりゃあ色々だよ。物を売ったりさ」
「もの?」
「古新聞に釘とか鉄材の端切れ、あの倉庫にあった雑貨もいけるな」
「……それって規則的には」
「少なくとも、軍内部にある曲がった釘を町の産廃屋に売るなという規則はない」
それはそうだが北楽は物資の管理に厳しい。持ち出し禁止の注意書はかなり多い。
「町まで行くの大変ですよ?」
「あー、確かにな」
「そういえば中央でもそんなことしてたんでしたっけ?」
そのタイミングで小休止として腹筋を切り上げた。
「してた。巡が来る前は本当になんでもやったな」
「誠も最初はぐずぐず言ってたけど、すぐに馴染んだからな」
「朝日さんも?」
巡も足を地に降ろした。
「うん。言ったかな、模擬弾売ったりした」
懐かしいと思えるほど今は充実している。あの頃は訓練なんて出来なかったのだから。動き回る狸の尾を掴んで離さないように必死だった。
「ねえ、御座、誠は誠だよ」
ハネさんが仰向けになりながら、テレビに釘付けのまま言う。
「へ? いや、わかってますよ?」
「でも、朝日さんって呼んでる」
「そりゃあ歳上ですから」
どうやらハネさんのルールとして下の名前で呼ぶことが親密さの証であるようで、彼女自身もそのルールに則っている。俺に強いないのは、それが自分と同性のなかでの決め事なのかもしれない。
「いいじゃん。巡がそう呼びたいんだから」
「いえ、呼びたいというか……」
兵学校でも彼女はそうだったし、上下関係に厳しい巡だからこそその辺りを変えるのは難しいのだろう。歳上だが階級は下なので、きっと折り合いをつけてのことなのだ。
「巡の方が上官なんだから、むしろ誠の方が敬語を使わなきゃおかしいくらいだ」
「でも……年長者なので」
「誠は、どうなの」
「俺ですか? あんまり考えたこともないですね」
「じゃ、じゃあ誠さんって呼んでも」
「巡ぃ、随分と急接近だなぁ」
にたにたとからかい一色の笑み。真実のこういう態度は相手を硬化させる。
「……今のままで支障はないので」
「誠は、誠でしょ?」
仲間なのだから親密にすべき派のハネさん。理由はないのだろうが、それを防ごうとする真実。妙な対立だ。
「そ、そうだ! 真実さんだって誠って呼んでますよ。関係性的には私と一緒じゃないですか」
「軍歴は私の方がちょっと長いもんね」
言葉に詰まった巡だが、乾坤一擲の思い付きに立ち上がった。
「私は真実さんを真実さんって呼んでますよね!」
「そんなことで目くじら立てる私でもないからな」
項垂れる巡、つまるところ、彼女が呼びたいように呼べばいいのだ。
「朝日さんで駄目なんだったら誠でいいだろ。学校でも言った通り、どっちでもいいし敬語もいらないよ。呼び捨てでも気にしないから」
軍は本来縦社会で、緩い特派が異端なのだ。
「誠ぉ、いいのかぁ?」
「だってお前もそう呼ぶし、ハネさんだってそうだから」
「へえ、良かったなあ、巡ぃ。急接近だぜ」
その急接近がなんなのかがわからない。一緒に筋トレをして、飯を食って、戦って、そういう仲なのに今更近づくも遠ざかるもないだろうに。
「……朝日さんのままでいいですよぅ」
「そうかそうか。お前がそうしたいならそうすべきだなぁ」
「真実、あんまりからかうなって。巡も、気にしないで好きに呼んでくれ」
「誠、そういうところ、あるよね」
「はは、ははは」
から笑いの巡はこたつに入り「朝日さんはまだ腹筋の途中ですよね」と、無慈悲な教官に戻り、真実が喉で笑う。
「それより金策ってなんですか。本当に物資を違法に売るんですか」
勢いに任せた質問に被さって、聞き慣れたサイレンが鳴った。
「決まってらあ。一番手っ取り早いのがコイツだよ」
特派の長がそう吠えた。
「ハネさんが中佐? 本当ですか?」
巡の失礼な疑問は、妥当でもある。ハネさんは「元、ね」と肯定した。
「知らなかっただろ。すげー人なんだよ」
真実はとても誇らしげで、ハネさんもそれが嬉しいのか真実の体を抱きしめた。
「湯ノ島って、中尉と、仲よし」
「話によると湯ノ島中尉は優しくて思いやりがあって、まあ人がいいらしい。金や飯で困った時には助けて欲しいって頼みに行こう」
真実は決して中央への足掛かりとは言わなかった。そこは狸でなんとかするという決意でもあるようだ。
しかしなんと心細い情報なのだろうか。そういう性格とはハネさんの主観じゃないのか。
「なのでこれから伺おうと思う」
「急だな」
「善は急げだ」
「誰が行くんだ。お前とハネさんでか」
「例によって、巡は」
「ええ、留守番ですよね。どうぞ朝日さんも連れて行ってくださいな」
「なにすねてやがる。まあそうするが」
手を振る巡を置いて、狸が三匹、北楽を行く。湯ノ島は狙撃部隊にいるらしいので、冷気と暖気の混ざる廊下を歩く。
気がついたのは、やはりそうではないかと、思っていたが、俺たちは目立つ。
経歴だけでなく、彼女たちの容姿や振るまいがそうなのだ。
「やっぱり寒い、室内でもジャケットを着た方がいいな。あのぺらぺらのやつなんか丁度良いじゃん、中央から持ってきたやつ」
真実の声はかなり響く。風鈴のような涼やかさがある。背の高いハネさんは言わずもがな、軍服の視線がチクチクと刺さるが、彼女たちは全く気にしない。
「ここだな。失礼します」
そして、狸の長は相変わらずためらわない。
「湯ノ島中尉はいらっしゃいますか」
奥にいた女性が机から顔を上げた。
目の下には深いくま、薄い茶の髪を後ろでくくっている。
「はい、私ですが」
地の底から這い出るような低い声は、彼女との見た目には似合うようなものではない。
「あ、大鳥中佐! どうしてここに?」
「久しぶり。湯ノ島」
二人は数年ぶりの再会そうで、握手も力強い。
「この子たちは、あれですか、狸の」
「特別派遣部隊『狸』の榊真実曹長です」
「同じく、朝日誠上等兵です」
彼女と握手をすると、掌は岩のように固い。軍歴と修羅場を重ねた手だった。
「大鳥さんもこっちに来たんですね」
「随行員なの。湯ノ島、お願いがある」
湯ノ島は軽いハネさんの言に大真面目で答えた。
「どうぞこちらへ。できる限りのことは」
「ありがとう。行こう、真実」
少し話が大袈裟になって気がした。
案内されたのは、パーテーションの向う側、少しだけ上等な椅子のある簡素な応接間。湯ノ島は遠慮がちに上座についた。
「自己紹介がまだでした、黒子湯ノ島少佐です。昔は大鳥さんの部隊でお世話になっていました」
湯ノ島は名前だったことを知り、なんとなくハネさんに目を向けると、よくわからないながらも微笑んだ。
中尉はハネさんの記憶ではそうというだけで、現実は少佐だった。しかし彼女は気にした様子でもない。
「黒子少佐、お頼みしたいことがあります」
真実は単刀直入、そう言った。
「どうぞ」
と、彼女も応じる。
「私たち狸は、恥ずかしながら、軍からあまり好かれていません。私事での出撃や、その他の軍規違反も数々してきましたので」
「……自業自得ですね」
「ええ。おっしゃる通りです。そのために、狸に与えられるであろう餌は少ない。それを、人並みになるよう、有事の際には埋めて欲しい」
湯ノ島、いや黒子は声を落とす。
「出来なくはないですけど、厳しいですね」
「わかった。ありがとう」
ハネさんはすぐに席を立つ。そこに怒りや粘りの姿勢はない。
「……お時間を頂きありがとうございます、少佐。失礼します」
ハネさんに続いて真実も起立し、俺もそうした。黒子は黙って見送った。
あまりにも短い、あっさりとした面談だった。
巣穴まで戻ってきて、ようやく真実が抑えていたものを吐露する。
「理由はわかるがよぅ」
静かで、険しい声だった。巡に始終を伝えると、
「正しいじゃないですか」
と、売店で買ったせんべいをつまむ。
「うん。コネ、なくなった」
「ちょっとくらいならいいじゃんって思ったけど」
「誠ぉ、そりゃこっちの都合だ」
八つ当りのように叫び、真実は自分で急須からお茶を注いだ。
「部下がいて、この寒さと交通不便。よそに飯と金を分ける余裕なんてないんだよ」
「じゃあなんでイライラしてんだ」
彼女はその事を理解していたはずだ。あの場で理解したのであれば、彼女はここまでやさぐれない。
「ドライ過ぎるぜ、本当におんなじ部隊だったのかよ。ただの部下と上司、そんな感じでさ」
これが彼女の思うところなのだろう。
そうじゃない、とハネさんは首をふる。
「湯ノ島は、いつもああいう感じだった。柔らかくて、仲間を守る」
「黒子さんじゃなくても普通は断りますよ。考えてみれば私たちの要求はただのわがままですから」
「んなことはわかってんだよ」
真実はのんびりこたつに潜った。
「もしものための予防線だ。ないならないでまた考えるさ」
彼女は顔を布団に隠した。予防線ではなく、やはりあてにしていたようで、外れた悔しさと憤りとばつの悪さを見せたくないらしい。
「……巡」
上官のフォロー、というかこれは俺のためだ。もぞもぞとこたつで寝返りばかりうつ真実は見ていられないほど落ち込んでいるのだから。
「なんですか?」
「腕立てでもするか」
「……ええ。そうしましょう」
巡はジャケットを脱いでこたつを端に寄せた。スペースをつくり、彼女にしては少し甘い声で言う。
「ハネさんもします?」
答えがわかっている問いだった。
「やめとく」
「そうですか」
真実はまだ暖かさに潜ったままだった。
「……じゃあ始めますか。朝日さんはいつものメニューでお願いします」
五十回を三セット、これを休憩を挟みつつ巡の気のすむまで行うのがいつものである。徐々に回数が増えているので、慣れるということがない。
腕を軋ませる間、ハネさんはテレビをみていた。ニュースやバラエティを自由に行き来している。真実は寝たふりで腕立てふせの回数を数えている、気がした。
「結構できるようになりましたね」
巡は額に汗する俺を一瞥した。彼女は片手の親指だけで体を支え足を天に向けた変則的な静止運動をしている。
「お前に言われてもなあ」
巡となにかをすると自分の不出来が目立つ。しかし彼女なりに俺を立ててくれようとするのが、ありがたいようなそうでないような、不思議な感覚になる。
「あと二セットしたら、腹筋に移ってください」
「了解」
「巡ぃ、お前のそれ、なんだ」
真実はのそのそと顔だけ出した。
「全身運動ですよ」
その状態から腕立てをしてハネさんすらを驚かせた。
腕立てを終えて腹筋に移る。真実がそれをしげしげと眺めるので声をかけた。
「お前も一緒にやってくれ。巡と一緒じゃあ、ちょっと情けなくなる」
「御座、すごいね」
「それほどでも」
「私の腹は割れてるから、別にいい」
そっぽを向くボス狸のために少しだけ場所を空けた。体はこうしたわずかな休息とも呼べない休息すら求めていた。
「頼むよ。ほら、隣空けたから」
あぐらをかいて床を軽く叩く。「休まないで」と巡に叱られた。
「……まあ訓練は必要だし。やってもいいけど」
十回だけと真実は隣で腹筋を始めた。這うように並んだくせに上体を起こすことに関してはスムーズだった。
「十回を三セットですよ」
「厳しい教官だあね」
俺は黙々とこなしていく。とてもお喋りをしながらではできなかったが、彼女たちは余裕があった。
「真実さん、金策って具体的に何をするんですか?」
「そりゃあ色々だよ。物を売ったりさ」
「もの?」
「古新聞に釘とか鉄材の端切れ、あの倉庫にあった雑貨もいけるな」
「……それって規則的には」
「少なくとも、軍内部にある曲がった釘を町の産廃屋に売るなという規則はない」
それはそうだが北楽は物資の管理に厳しい。持ち出し禁止の注意書はかなり多い。
「町まで行くの大変ですよ?」
「あー、確かにな」
「そういえば中央でもそんなことしてたんでしたっけ?」
そのタイミングで小休止として腹筋を切り上げた。
「してた。巡が来る前は本当になんでもやったな」
「誠も最初はぐずぐず言ってたけど、すぐに馴染んだからな」
「朝日さんも?」
巡も足を地に降ろした。
「うん。言ったかな、模擬弾売ったりした」
懐かしいと思えるほど今は充実している。あの頃は訓練なんて出来なかったのだから。動き回る狸の尾を掴んで離さないように必死だった。
「ねえ、御座、誠は誠だよ」
ハネさんが仰向けになりながら、テレビに釘付けのまま言う。
「へ? いや、わかってますよ?」
「でも、朝日さんって呼んでる」
「そりゃあ歳上ですから」
どうやらハネさんのルールとして下の名前で呼ぶことが親密さの証であるようで、彼女自身もそのルールに則っている。俺に強いないのは、それが自分と同性のなかでの決め事なのかもしれない。
「いいじゃん。巡がそう呼びたいんだから」
「いえ、呼びたいというか……」
兵学校でも彼女はそうだったし、上下関係に厳しい巡だからこそその辺りを変えるのは難しいのだろう。歳上だが階級は下なので、きっと折り合いをつけてのことなのだ。
「巡の方が上官なんだから、むしろ誠の方が敬語を使わなきゃおかしいくらいだ」
「でも……年長者なので」
「誠は、どうなの」
「俺ですか? あんまり考えたこともないですね」
「じゃ、じゃあ誠さんって呼んでも」
「巡ぃ、随分と急接近だなぁ」
にたにたとからかい一色の笑み。真実のこういう態度は相手を硬化させる。
「……今のままで支障はないので」
「誠は、誠でしょ?」
仲間なのだから親密にすべき派のハネさん。理由はないのだろうが、それを防ごうとする真実。妙な対立だ。
「そ、そうだ! 真実さんだって誠って呼んでますよ。関係性的には私と一緒じゃないですか」
「軍歴は私の方がちょっと長いもんね」
言葉に詰まった巡だが、乾坤一擲の思い付きに立ち上がった。
「私は真実さんを真実さんって呼んでますよね!」
「そんなことで目くじら立てる私でもないからな」
項垂れる巡、つまるところ、彼女が呼びたいように呼べばいいのだ。
「朝日さんで駄目なんだったら誠でいいだろ。学校でも言った通り、どっちでもいいし敬語もいらないよ。呼び捨てでも気にしないから」
軍は本来縦社会で、緩い特派が異端なのだ。
「誠ぉ、いいのかぁ?」
「だってお前もそう呼ぶし、ハネさんだってそうだから」
「へえ、良かったなあ、巡ぃ。急接近だぜ」
その急接近がなんなのかがわからない。一緒に筋トレをして、飯を食って、戦って、そういう仲なのに今更近づくも遠ざかるもないだろうに。
「……朝日さんのままでいいですよぅ」
「そうかそうか。お前がそうしたいならそうすべきだなぁ」
「真実、あんまりからかうなって。巡も、気にしないで好きに呼んでくれ」
「誠、そういうところ、あるよね」
「はは、ははは」
から笑いの巡はこたつに入り「朝日さんはまだ腹筋の途中ですよね」と、無慈悲な教官に戻り、真実が喉で笑う。
「それより金策ってなんですか。本当に物資を違法に売るんですか」
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