特派の狸

こま

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第二章

死闘

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皇国歴一九六一年 厳冬

 黒子湯ノ島は四人の部下を北楽本部へと送還した。猫と不自然な交信を立て続けに行い、その到着予定時刻を改ざんした疑いがあったためである。
 真実から話をきいていた黒子はすぐにこれがレベトと手のものだと判断し戦場から遠ざけた。
(私の部下にもいるのか)
 心は虫に食われた反物のように穴が空き、それを埋めたのは真実からの無線である。
「なるべく信頼できる人を送ってよ」
 と言われ胸が痛んだ。すでに梟も一枚岩でないと判断されていた。
 すぐに副官を送るよう手配し、さらに自分の後任を付き合いの長い順に選んだ。
「私も前に出る」
 それはやめてくれ、あなたがいなくなれば滞ることが山程ある、と考えなおすよう説得されたが、黒子は無視をして前線に出た。大量の弾丸と一丁のロング・ライフル、そして使い古された鷹のマークがついた双眼鏡だけを持ち出した。



「元気か。巡」
「……肩が痛みます」
「戦闘に支障はでるか」
「はい、といえば免除してくれますか」
 合流した狸は独特な会話で再開を喜んだ。特に巡は目に涙を浮かべている。
「ははは、誠は腹に一発くらってんのに」
「なっ! だったら悠長なことはしていられませんよ!」
「免除しようか?」
「こんな時にそんなことを言う人がありますか!」
「だからだよ。こんな時だからこそ狸として動かなくちゃ。私が一緒だ、なにか怖いことがあるか?」
 巡はこの態度に苛つきもしたが、自分が普段の落ち着きを取り戻していることにも苛立った。
「怖いことなんかありません。ええ、何もね。ありませんよ」
「そうだろうとも。さて、移動だ。仔細は道中にきく。泣き腫らした顔の理由もね」
「説明はしますけど、泣いてなんかいませんからね」
 真実はこの部下がどうして御岳に気に入られているのかわかった気がした。ひどい環境にはそれに適して神経が太くなるし、それでいてからかわれると必死に否定する愛嬌がある。
(あの人、好きそうだもんなあ)
「なに笑ってるんですか」
「いや、続けて。レベトの平場ね、聞き逃しちゃいねえさ」
 真実の瞳は鮮やかに色めいている。殺意にしては華々しく、憎悪にしては清々しいその色は、討つべき存在がはっきりしたことへの歓喜に似た爽やかさがあった。
 それを時折こするようにして隠した。血濡れた手袋が目元を多少染めた。



 誠は腹に銃弾を受け、それでもなお活発に戦闘を続けている。
 援軍は求めていない。真実たちの安否すらも頭から抜け落ち、ただフェンリルと己だけを世界に留めている。
「うははっ! どうなってやがる、なんで死なねえ!」
 フェンリルはもとより片腕がなく、爪も牙も半分以上が砕けている。刀傷も弾痕もない。
 しかしおびただしく流血している。誠が殴るたびに、その箇所の皮膚が裂け、拳が半分ほど肉に埋まるときもあった。
 通常の天使ならば一撃で戦闘不能におちいるこれを数え切れないほど受けても、フェンリルは、誠の目からすれば、元気そのものだった。
 オオと吠えれば唾の飛沫がかかる。そういう距離である。誠は見上げるような巨躯を前にしながらもむしろ前傾になってほとんど零距離になって攻撃を続けた。
「どうだよ、いい気分か。俺は最悪だ、わはは」
 渇きと肺のひきつりによって声も潰れている。それでも会話のようにフェンリルへと声をかけるのは彼が友情を感じているからであり、仇同然の犬神に対して旧知のような対応をとっている。
 先に限界を迎えたのは誠だった。
 彼の感じる友情が乗り移った蹴りがフェンリルの唯一の肘を砕いた。砕いたが、その腕で殴りつけられた。
 この一騎討ちで初めて誠が膝をついた。どれだけ踏ん張っても立ち上がれず、その顔に砕けた爪の断面が、断崖のように荒々しいそれが叩きつけらる。
 吹き出した鋭利な鮮血は打ち水のようでもあり、熟れた果実を潰したようでもある。梟や烏の目にはそれがはっきりと映り、陣営はにわかに慌ただしくなる。
 フェンリルの腕が引き抜かれようとしたとき、誠はその手首を握った。自らの力でそこにいろと言わんばかりに握りしめ、それを支えに立ち上がる。
「俺の爺さまは四肢が離れたって俺を想っていたんだ。このくらいで死んだら、合わせる顔がないんだよ。付き合えよ、もうちっと少しだけ」
 誠は途切れ々々にそう言った。フェンリルは口を開け、その肩に牙を立てた。突き刺さるほど尖ってはいないが、顎の筋肉だけでを砕いた。
「おっ」
 感嘆のような声が出た。それはすでに精神力だけで動いていた体の悲鳴であり、膝の感覚が失われ、しかしフェンリルがそれを支えるかのようにして噛む力強めている。
(目ン玉がぼやけるな)
 花火の着火に失敗し一時的に視力を失ったことを思い出した。
(首がこんなに近いのに、体が動かねえ)
 ぼんやりと月が出ている。夜間の戦闘に備えて照明の準備作業にとりかかる土竜が見えた。
 ぱっと照らされる戦場、その光の中に、何かがくるくると飛んで、落ちた。
『狸だ! このクソ忙しい時にあいつら何してやがった!』
 飛蝗の大友中尉が、わざわざ無線を使って罵声を浴びせた。狸が来たという連絡を彼なりの鼓舞の文言にした。
(真実か。巡もかな)
『朝日! 生きてるか!』
(巡だ。こっちのせりふだよ)
 誠はふいに、握った手を解き、そのままフェンリルの顔にもっていった。触れた場所は目のしたの窪みで、滑らせるようにしてその瞳の奥に指を突っ込んだ。
 雄叫びもなくフェンリルは空いた腕で殴りつけ、また間合いが離れた。
 この戦場で、もっとも凄惨な姿をしているものは、死者を含めても狸の朝日誠であるかもしれなかった。噛まれた肩は軍服の上から見てもわかるくらいに潰れていたし、顔にはまるでおろし金でこすったような、見るに堪えない拷問の跡のような傷がある。
 その傷に触れ、合わせる顔じゃないな、とただ生きているだけといった顔で笑う。
「まあとにかく……死ぬまでやるよ。危ねえな、ギリギリだ、意識飛んだぜマジで」
『朝日上等兵、一歩右へ』
 黒子の声に反射で従うと、フェンリルの片耳が削げた。銃弾はそのまま空に消え、
『邪魔者は榊たちに任せろ。問答は無用、そいつも排除するぞ』
『……了解っす』
 自分一人でやるとは言い出せない。相手が上官だからではなく、彼の理解する事実のためである。これ以上の戦闘は、死期を早めるだけだと自覚していた。
「射線に入ったらすいません」
『あまり猛禽を舐めるなよ』
 誠の顔の真横を弾丸が飛び、フェンリルの肌を抉った。
『援護する。遊んできなさい』
 月光とサーチライトが戦場の汚らしさを照らし、誠はまたフェンリルと殴りあった。直接その戦闘行為を見て、彼の親しい者たちは息をのんだ。
 黒子は誠の顔をこのとき初めて見た。照準越しではあるが、胃が縮むような閉塞感を覚えた。
(あれが、あののんびりした子なのか)
 真実や巡の隣にいる穏やかそうな少年というのが彼女の印象だった。激戦をくぐり抜いてきているし、番号持ちのはの一号も討伐している。しかしそれらは狸の、もっといえば真実の実力だと思っていた。送られてきた報告書は誠の戦果を証明していたが、それでもどこか信じられずにいた。
(信じきれてはいなかった。こんなだから、部下が離れるんだ)
 梟の雛たちの離反に歯噛みし、憂さ晴らしのような瞳がフェンリルを射抜くが、引き金にかかる指は動かない。
 フェンリルの潰れた目が、まだそこに視力をもってあるような気がする。隙というものがまるでなく、あるとすれば誠と激しい接近戦をしているときだけである。真実は誠が撃ち抜かれるのを許したが、黒子は友人をぶち抜いてでもフェンリルを殺そうとは思えなかった。
 狸に急ぐよう伝えるようとしても、あっちでは猫狩りで手一杯だろうと、彼女は照準を覗きながら誠の生還だけを願った。

 猫はすでにその数を半分にしている。
 天使との鍔迫り合いの最中には、天使ごとまとめて叩き切られ、下がって装填していればなんの躊躇いもなく首を落とされた。
 糾弾されれば言い訳もない刀傷や弾痕を残し、狸は暴れ狂った。
「いやあ、なかなかこれは……独り占めしたいな」
 真実は猫と天使に囲まれたとき、巡と偶然背中合わせになった際にそう言った。
「……それは、強欲ですね」
 巡は思わず微笑した。「こんなときでもあなたはあなただ」
 感情の抑制ができずに、巡は背に感じる熱からぱっと離れ、自らを戦闘に投げ込んだ。
「餌はほら! こんなにありますよ!」
 肩の銃痕は悲鳴をあげるように痛みを伝えている。それに負けぬよう叫んだ。真実と、手のかかる仲間をおもえば、痛みはむしろ奮戦のためのへの起爆剤となった。
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