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第二章
変遷
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皇国歴一九六一年 晩冬
水湖寮が、私を嫌いになった。ハネさんはそう言って、こたつにもぐり体を縮めた。
俺たちの新しい任務である渡航してのレベト調査についての話をしだしたときである。
「私も、行かなきゃダメ?」
こんなにもぐずる彼女は珍しい。だめというわけではないが、来てくれた方が安心できる。それは俺のわがままだけど、一緒にいたいのは俺だけじゃないはずだ。
「たしかに今度は長くなりそうだし、また芝ちゃんに頼むのも悪いよなあ」
真実はそう同意した。なにか策があるのだろう、狸お得意のにやけた顔でいる。
「だから、ハネさんは残っていればいいよ」
「え? いいの?」
「本人の意思を尊重するよ。私たちは何も知らない未知の土地で、孤独にめげず、帰りを待つ者もいない世界で、天使と政治を相手にする。それだけのことだもの」
「……ずるい」
ああ、たしかにずるい。そんなことを言ってはハネさんが断りづらいじゃないか。巡への目配せもさりげなく、それに応える彼女もしたたかで、
「命令書にハネさんの名前はありませんし、北楽でも大変にお世話になりましたから、今度は残っても大丈夫ですよ。むしろ残ってください。我々は平気です、怪我も欠損も武勇のうちですから」
と、ぞっとするようなことを言う。青ざめたハネさんは残った俺に助けを求めた。
「俺? うん、大丈夫だって。銃も練習するし、筋トレもするよ。あっちの言葉はわからないけど、勉強しとくよ」
「…………ねえ真実」
「どうした? 誠だって頑張るって言ってるぜ」
「やっぱり私も、行こうかな」
「そう? でも水湖寮はどうすんのさ」
「それは……ツテがあるから平気。ね、私、通訳できるよ? ご飯もつくれるし、事務もできるよ?」
「食堂くらいあるんじゃないですか? それに書類仕事くらいは私がやりますので」
巡はそっけなく、真実も悩んでいる。ようなふりをしている。それにしてもハネさんの食いつき方は突然で、巡のあしらい方か真実の術か、一体なにが彼女をそうさせたのだろう。
「私も、行く。決めたよ」
みんな意地悪。と頭までこたつにもぐってしまった。俺たちがみんな足を引っ込めてあぐらになるしかないサイズの人だから、こうやって拗ねられると大変である。
「くくく、わかったよハネさん。一緒に行こう。いまさら仲間外れになんかしないよ。行かないって言っても連れていくから安心して」
ハネさんは顔だけをこたつ布団から出して、小さくお礼を言った。かわいそうなほどに真実の策に嵌っている。
「そんじゃあ会議だ。狸はレベトの調査をするわけだが、直接乗り込んだりはしない。先ずは欧州同盟国で皇国からの派遣部隊として活動する」
「レベトに直接行った方が早くないか」
「狸はあいつらの計画の邪魔をしたんだぞ? そんなことしたらどんな言い訳したって怪しまれる。どこに渡航したって注目されるだろうけど、要心のためにもできるだけ回りくどく近づいた方がいいんだ」
「同盟国内ならどこでもいいんですか? たとえばドイツとか。レベトにも近いですし」
欧州同盟国とはイギリス、ドイツ、フランスなどの旧主要国が主体となった新国家である。帝国の版図拡大を抑制し抵抗するために生まれ、国としての歴史は浅いが、それがなければヨーロッパはすべてレベトに併呑されていたという意見もある。
軍の拡充を行い続けていて、なかでもドイツのそれは世界一の呼び声が高い。
「最終的にはドイツにも行くけど、あそこじゃ天使討伐が主任務になる。今回は戦闘より諜報だからイギリスでいいんだ」
「ですって。誠さん」
「え? うん、そうだな。もしかして俺のために質問したのか?」
「そういうわけじゃないですけど。私も命令書は見てませんし、なにか理由があるのかと思ってそうしたんです。で、誠さんが理解してなさそうな顔をしてたから」
「なるほど。うん、理解したぞ。レベトの悪事を調査して、不都合があれば片付ける。そういうことだな」
「完璧」
ハネさんはクスクス笑って、こたつを抜け出した。自室で荷物をまとめるらしい。
「ま、詳しいことはあっちについてから臨機応変にやろう。今は流れだけでいいや」
「ほら巡、理解してただろ?」
「……英語の勉強しましょうか。日常会話くらいはできるようになっておかないといけませんから」
「や、そんな、今からやっても間に合わないよ」
「いつかはやらなければいけませんよ。それを今から始めるだけです」
「くっくっく、巡、徹底的にやれ。あとで交代してやる」
「俺たちも荷物を」
「私がやっておきます」
押し入れから引っ張り出された分厚い教科書は、やけにボロボロだ。それは俺の努力の証で、あの狂おしく悲惨な学校生活を嫌でも思い出させる。
「それを見ると吐きそうになるんだ。実際に、何度も吐いたんだよ」
「吐くほどやったなら、当然覚えているんでしょう?」
「諦めな。優秀な先生に筆と紙、机、辞書、そんでバケツ。勉強道具は揃ってるから」
「最後のは勉強に必要ないだろ」
「ありますよ。部屋を汚さないためにもね。居眠りしてもそれで起こせますし」
「鳴らせばすっ飛んでくるかもなあ。くはは、お前の天敵は足が異常に速いから」
「巡、早速だけど、どこから始めるんだ? 単語と文法はある程度頭に入っているから、会話に慣れておきたいんだけど」
「そこまで怯えるような人ですか?」
「さあ? まあ気持ちはわかるよ、多分呼んだらくるから、脅しが脅しじゃなくなってるもんな」
笠置さんに対しての印象について、俺たちとの間で大きな隔たりがある。が、俺の知識は彼女への畏怖がもとになっている。それは間違いない。
三月末に、同盟国のイギリス地区へと派遣される正式な辞令が出た。これはあくまでも表向きのもので、柳生少将からの命令書は真実が管理していて、その在り処はわからない。
「明日、イギリス行きの船に乗る。物資輸送の船に同乗して、一月くらいの船旅になる。そして長くこの国の土を踏むことができないと思われる。各自準備を怠らず、できることしておけ」
私は挨拶回りに行く。と、朝っぱらから出ていった。巡とハネさんは世話になった人に手紙を書くと言って自室に引っ込んだ。
久しぶりに暇になった。朝食は済んでいるが、しまいっぱなしの乾パンを片手に散歩に出た。
サイレンは鳴らない。北楽の忙しさが嘘のようである。体が何かを求めているのがわかるのだが、それが戦闘行為ならば、どうやって解消すればいいのだろう。
とはいえ歩きながら乾パンを食っていると、それはそれで楽しい時間で、やはり俺は戦いには向いていないのではないのだろうか。
「おい。軍服のままで歩きながらものを食うな」
いつの間にか訓練場に差し掛かっていた。そこで訓練を見学していた上官が、当然の注意をしてきた。
「ん? お前」
傷だ。目にかかるそれが怪しく歪む。
「ひぃ! 笠置さん!?」
「久しぶりだというのに悲鳴で挨拶か。礼儀のわからんやつだな」
「すいません! ご無沙汰をしております、笠置さん。お変わりありませんでしょうか」
彼女は、それでいい、と苦笑した。
「少し待っていろ。そろそろ切り上げようと思っていたから、門から回ってこっちに来い」
「よろしいのでしょうか」
「拒否などできんぞ。どうせ暇だろう。それともなんだ、私がそっちに行けばいいのか?」
「すぐに参ります」
乾パンをポケットにおしこみ走り出すと、忙しないと、舌打ちがきこえた。その瞬間に足が止まった。我ながら挙動が不審である。
訓練場に差し掛かったところで笠置さんと合流した。ジャケットに隊章はおらず、代わりに兵学校の校章がついていた。
「朝飯は食ったか」
「はい」
「私は食いそびれた」
彼女の自家用車で街まで出た。タイヤのゴツい四駆車だった。
昼には早い半端な時間で、食堂に客はいない。
「大体きいているよ。北楽でえらく頑張ったそうじゃないか」
どこまで知っているのだろう。真実の信頼を得ている人ではあるけど、あまり深いところまで喋らない方がいいかもしれない。
「俺は命令に従っただけです。真実と巡には世話になりっぱなしでした。それに他の部隊の方々のご協力も手厚いものばかりでしたので」
「ほう、階級を上げて中央に返り咲き、今度は海を渡る。しかも半年かそこらで、だ。命令に従っただけでは得難い勲功だと思うが」
「どうでしょう。俺にはよくわかりませんが、そうした評価を頂いたことは嬉しく思っています」
試されているのだろうか。何を話すか黙するかを丁寧に選別しなければ、鉄拳による採点が待っていそうだ。
彼女は注文した野菜炒め定食が届くまで、水も飲まず、店員がそれを運んできてもなお俺から視線を逸らさない。割り箸を静かに割って、そんな些細な動作にさえ緊張した。
「なるほど」
と、彼女はようやく飯を食い始めた。それに合わせて水を飲むと、喉がこれでもかというほど渇いていたことに気がついた。
「だいぶ上手くなったな。大役を仰せつかるわけだ」
「上手くとはどういうことでしょう。それに北楽に行ったのは、大役とは言い難い理由だと思います」
「わかってやってんのか?」
「どうでしょう。ただ、俺にとって教官と呼べる者は一人だけで、その人に少しでもいいところを見せようと必死になっているのかもしれません」
「馬鹿なことを。そんなおべっかを教えたつもりはないぞ」
「はい。ですから、おべっかではありません」
付け合せのたくあんをかじり、味噌汁を飲んだ。俺を睨みつけたまま食事を続けている。どうにも落ち着かなくなって、しかし言葉にしてわかったが、こんなにも彼女を恐れているのに、いいところを見せたいというのは本心だった。
だからその視線にもごく自然に振る舞うことができた。
「……ふふ、及第点をやろう。表と裏で暴れ狂っていただけのことはあるな」
「ありがとうございます、でいいんでしょうか?」
「うん。しかし、あのお前がなあ」
「そんなに変わりましたか? なんだか出会う人みんなにそう言われている気がします」
自分ではそんなつもりはない。むしろ自分とはこうなのだと律し、あったものを固めただけという認識でしかない。変じたのではなく強固になっただけだ。
「顔に動揺が現れなくなったし、言葉にも震えがない。隠すのではなく逸らす。その場に応じた行動が取れる。どこかで特殊な訓練でも受けたのかと思ったよ」
「ああ、それは、まあ。隊長がそういう具合ですので」
彼女は小さく笑った。もう傷が歪んでも恐れはなく、しかし畏怖は残っている。残ったそれは心地のいいもので、暗鬱な訓練の過去を多少鮮やかにしてくれた。
「飯につきあわせて悪かったな」
「いえ、勉強させていただきました」
「おいおい、まったく別人だな。なら寮まで送ろうか」
「ありがたいのですが、歩いて帰ります」
本当の自分を偽るような感覚と同時に、こうして拙い敬語で会話する俺も、自分でつくりあげたひとつの作品のようで愛おしくなる。いつかはもっと、胸襟を開いて遊べる時がくるのだろうか、そのときはまた変わったと言われるのだろうか。
見送る際、彼女は車の窓から言った。
「巡はどうだ」
「どうって、すごいやつです。強くて頭もよくって参ります。いくつも他言語を扱えるし、気が回るし、何度も助けられました」
「そうか。元気ならそれでいい。撃たれたときいてな、調子はどうかと思ったんだが、それならいい」
「撃たれた方の腕だけで逆立ちをして、空いた手でみかんを食ったりしていましたので、絶好調かと思います」
「あはは。それくらいはやる女だ。私の教え子の中でも一番優秀だから」
笠置さんと別れ寮に帰ると昼を過ぎていて、ハネさんが作ってくれたおにぎりを食い、昼寝をした。夕方になって戻ってきた真実はそんな俺を笑った。
「まだ配属先が決まらねえと見た。軍ってのにはうんざりするね」
勝手にあの日々に浸ってやがる。ならば一緒に沈んでやろうじゃねえか。それができるのは俺だけなんだから。
「なら、誘ってくれよ。文句は売るほどあるだろう」
巡はきょとんとしていた。ハネさんはいつものように微笑を浮かべ、そして俺を誘う害獣は澄まし顔でウインクをした。
「言われるまでもないさ。私についてこい。絶対に逃さねえぞ。お前らもだ。仔狸ども、私についてこい」
言ってから、自分の意図せず発生した熱気に照れて、巡の袖を引いて膝枕を求めた。
「な、なんですか」
「ハネさん、ご飯まだ?」
「用意するね」
「いや、え? 真実さんどうしちゃったんですか」
「うるさいな。もう茶番は終わったの。幕は降りてんだよ。あんまり見るなよ」
たしかに芝居じみたやり取りだった。始めたのはそっちのくせに、なにも恥ずかしがるところなんてないのに、なんてことは言わない。ただ、訂正すべきところがある。
「降りねえよ。降りてたまるか」
幕も、この役も、なに一つだって手放してたまるもんか。絶対に逃さねえだとさ、俺だって、絶対に逃げたりするもんか。
水湖寮が、私を嫌いになった。ハネさんはそう言って、こたつにもぐり体を縮めた。
俺たちの新しい任務である渡航してのレベト調査についての話をしだしたときである。
「私も、行かなきゃダメ?」
こんなにもぐずる彼女は珍しい。だめというわけではないが、来てくれた方が安心できる。それは俺のわがままだけど、一緒にいたいのは俺だけじゃないはずだ。
「たしかに今度は長くなりそうだし、また芝ちゃんに頼むのも悪いよなあ」
真実はそう同意した。なにか策があるのだろう、狸お得意のにやけた顔でいる。
「だから、ハネさんは残っていればいいよ」
「え? いいの?」
「本人の意思を尊重するよ。私たちは何も知らない未知の土地で、孤独にめげず、帰りを待つ者もいない世界で、天使と政治を相手にする。それだけのことだもの」
「……ずるい」
ああ、たしかにずるい。そんなことを言ってはハネさんが断りづらいじゃないか。巡への目配せもさりげなく、それに応える彼女もしたたかで、
「命令書にハネさんの名前はありませんし、北楽でも大変にお世話になりましたから、今度は残っても大丈夫ですよ。むしろ残ってください。我々は平気です、怪我も欠損も武勇のうちですから」
と、ぞっとするようなことを言う。青ざめたハネさんは残った俺に助けを求めた。
「俺? うん、大丈夫だって。銃も練習するし、筋トレもするよ。あっちの言葉はわからないけど、勉強しとくよ」
「…………ねえ真実」
「どうした? 誠だって頑張るって言ってるぜ」
「やっぱり私も、行こうかな」
「そう? でも水湖寮はどうすんのさ」
「それは……ツテがあるから平気。ね、私、通訳できるよ? ご飯もつくれるし、事務もできるよ?」
「食堂くらいあるんじゃないですか? それに書類仕事くらいは私がやりますので」
巡はそっけなく、真実も悩んでいる。ようなふりをしている。それにしてもハネさんの食いつき方は突然で、巡のあしらい方か真実の術か、一体なにが彼女をそうさせたのだろう。
「私も、行く。決めたよ」
みんな意地悪。と頭までこたつにもぐってしまった。俺たちがみんな足を引っ込めてあぐらになるしかないサイズの人だから、こうやって拗ねられると大変である。
「くくく、わかったよハネさん。一緒に行こう。いまさら仲間外れになんかしないよ。行かないって言っても連れていくから安心して」
ハネさんは顔だけをこたつ布団から出して、小さくお礼を言った。かわいそうなほどに真実の策に嵌っている。
「そんじゃあ会議だ。狸はレベトの調査をするわけだが、直接乗り込んだりはしない。先ずは欧州同盟国で皇国からの派遣部隊として活動する」
「レベトに直接行った方が早くないか」
「狸はあいつらの計画の邪魔をしたんだぞ? そんなことしたらどんな言い訳したって怪しまれる。どこに渡航したって注目されるだろうけど、要心のためにもできるだけ回りくどく近づいた方がいいんだ」
「同盟国内ならどこでもいいんですか? たとえばドイツとか。レベトにも近いですし」
欧州同盟国とはイギリス、ドイツ、フランスなどの旧主要国が主体となった新国家である。帝国の版図拡大を抑制し抵抗するために生まれ、国としての歴史は浅いが、それがなければヨーロッパはすべてレベトに併呑されていたという意見もある。
軍の拡充を行い続けていて、なかでもドイツのそれは世界一の呼び声が高い。
「最終的にはドイツにも行くけど、あそこじゃ天使討伐が主任務になる。今回は戦闘より諜報だからイギリスでいいんだ」
「ですって。誠さん」
「え? うん、そうだな。もしかして俺のために質問したのか?」
「そういうわけじゃないですけど。私も命令書は見てませんし、なにか理由があるのかと思ってそうしたんです。で、誠さんが理解してなさそうな顔をしてたから」
「なるほど。うん、理解したぞ。レベトの悪事を調査して、不都合があれば片付ける。そういうことだな」
「完璧」
ハネさんはクスクス笑って、こたつを抜け出した。自室で荷物をまとめるらしい。
「ま、詳しいことはあっちについてから臨機応変にやろう。今は流れだけでいいや」
「ほら巡、理解してただろ?」
「……英語の勉強しましょうか。日常会話くらいはできるようになっておかないといけませんから」
「や、そんな、今からやっても間に合わないよ」
「いつかはやらなければいけませんよ。それを今から始めるだけです」
「くっくっく、巡、徹底的にやれ。あとで交代してやる」
「俺たちも荷物を」
「私がやっておきます」
押し入れから引っ張り出された分厚い教科書は、やけにボロボロだ。それは俺の努力の証で、あの狂おしく悲惨な学校生活を嫌でも思い出させる。
「それを見ると吐きそうになるんだ。実際に、何度も吐いたんだよ」
「吐くほどやったなら、当然覚えているんでしょう?」
「諦めな。優秀な先生に筆と紙、机、辞書、そんでバケツ。勉強道具は揃ってるから」
「最後のは勉強に必要ないだろ」
「ありますよ。部屋を汚さないためにもね。居眠りしてもそれで起こせますし」
「鳴らせばすっ飛んでくるかもなあ。くはは、お前の天敵は足が異常に速いから」
「巡、早速だけど、どこから始めるんだ? 単語と文法はある程度頭に入っているから、会話に慣れておきたいんだけど」
「そこまで怯えるような人ですか?」
「さあ? まあ気持ちはわかるよ、多分呼んだらくるから、脅しが脅しじゃなくなってるもんな」
笠置さんに対しての印象について、俺たちとの間で大きな隔たりがある。が、俺の知識は彼女への畏怖がもとになっている。それは間違いない。
三月末に、同盟国のイギリス地区へと派遣される正式な辞令が出た。これはあくまでも表向きのもので、柳生少将からの命令書は真実が管理していて、その在り処はわからない。
「明日、イギリス行きの船に乗る。物資輸送の船に同乗して、一月くらいの船旅になる。そして長くこの国の土を踏むことができないと思われる。各自準備を怠らず、できることしておけ」
私は挨拶回りに行く。と、朝っぱらから出ていった。巡とハネさんは世話になった人に手紙を書くと言って自室に引っ込んだ。
久しぶりに暇になった。朝食は済んでいるが、しまいっぱなしの乾パンを片手に散歩に出た。
サイレンは鳴らない。北楽の忙しさが嘘のようである。体が何かを求めているのがわかるのだが、それが戦闘行為ならば、どうやって解消すればいいのだろう。
とはいえ歩きながら乾パンを食っていると、それはそれで楽しい時間で、やはり俺は戦いには向いていないのではないのだろうか。
「おい。軍服のままで歩きながらものを食うな」
いつの間にか訓練場に差し掛かっていた。そこで訓練を見学していた上官が、当然の注意をしてきた。
「ん? お前」
傷だ。目にかかるそれが怪しく歪む。
「ひぃ! 笠置さん!?」
「久しぶりだというのに悲鳴で挨拶か。礼儀のわからんやつだな」
「すいません! ご無沙汰をしております、笠置さん。お変わりありませんでしょうか」
彼女は、それでいい、と苦笑した。
「少し待っていろ。そろそろ切り上げようと思っていたから、門から回ってこっちに来い」
「よろしいのでしょうか」
「拒否などできんぞ。どうせ暇だろう。それともなんだ、私がそっちに行けばいいのか?」
「すぐに参ります」
乾パンをポケットにおしこみ走り出すと、忙しないと、舌打ちがきこえた。その瞬間に足が止まった。我ながら挙動が不審である。
訓練場に差し掛かったところで笠置さんと合流した。ジャケットに隊章はおらず、代わりに兵学校の校章がついていた。
「朝飯は食ったか」
「はい」
「私は食いそびれた」
彼女の自家用車で街まで出た。タイヤのゴツい四駆車だった。
昼には早い半端な時間で、食堂に客はいない。
「大体きいているよ。北楽でえらく頑張ったそうじゃないか」
どこまで知っているのだろう。真実の信頼を得ている人ではあるけど、あまり深いところまで喋らない方がいいかもしれない。
「俺は命令に従っただけです。真実と巡には世話になりっぱなしでした。それに他の部隊の方々のご協力も手厚いものばかりでしたので」
「ほう、階級を上げて中央に返り咲き、今度は海を渡る。しかも半年かそこらで、だ。命令に従っただけでは得難い勲功だと思うが」
「どうでしょう。俺にはよくわかりませんが、そうした評価を頂いたことは嬉しく思っています」
試されているのだろうか。何を話すか黙するかを丁寧に選別しなければ、鉄拳による採点が待っていそうだ。
彼女は注文した野菜炒め定食が届くまで、水も飲まず、店員がそれを運んできてもなお俺から視線を逸らさない。割り箸を静かに割って、そんな些細な動作にさえ緊張した。
「なるほど」
と、彼女はようやく飯を食い始めた。それに合わせて水を飲むと、喉がこれでもかというほど渇いていたことに気がついた。
「だいぶ上手くなったな。大役を仰せつかるわけだ」
「上手くとはどういうことでしょう。それに北楽に行ったのは、大役とは言い難い理由だと思います」
「わかってやってんのか?」
「どうでしょう。ただ、俺にとって教官と呼べる者は一人だけで、その人に少しでもいいところを見せようと必死になっているのかもしれません」
「馬鹿なことを。そんなおべっかを教えたつもりはないぞ」
「はい。ですから、おべっかではありません」
付け合せのたくあんをかじり、味噌汁を飲んだ。俺を睨みつけたまま食事を続けている。どうにも落ち着かなくなって、しかし言葉にしてわかったが、こんなにも彼女を恐れているのに、いいところを見せたいというのは本心だった。
だからその視線にもごく自然に振る舞うことができた。
「……ふふ、及第点をやろう。表と裏で暴れ狂っていただけのことはあるな」
「ありがとうございます、でいいんでしょうか?」
「うん。しかし、あのお前がなあ」
「そんなに変わりましたか? なんだか出会う人みんなにそう言われている気がします」
自分ではそんなつもりはない。むしろ自分とはこうなのだと律し、あったものを固めただけという認識でしかない。変じたのではなく強固になっただけだ。
「顔に動揺が現れなくなったし、言葉にも震えがない。隠すのではなく逸らす。その場に応じた行動が取れる。どこかで特殊な訓練でも受けたのかと思ったよ」
「ああ、それは、まあ。隊長がそういう具合ですので」
彼女は小さく笑った。もう傷が歪んでも恐れはなく、しかし畏怖は残っている。残ったそれは心地のいいもので、暗鬱な訓練の過去を多少鮮やかにしてくれた。
「飯につきあわせて悪かったな」
「いえ、勉強させていただきました」
「おいおい、まったく別人だな。なら寮まで送ろうか」
「ありがたいのですが、歩いて帰ります」
本当の自分を偽るような感覚と同時に、こうして拙い敬語で会話する俺も、自分でつくりあげたひとつの作品のようで愛おしくなる。いつかはもっと、胸襟を開いて遊べる時がくるのだろうか、そのときはまた変わったと言われるのだろうか。
見送る際、彼女は車の窓から言った。
「巡はどうだ」
「どうって、すごいやつです。強くて頭もよくって参ります。いくつも他言語を扱えるし、気が回るし、何度も助けられました」
「そうか。元気ならそれでいい。撃たれたときいてな、調子はどうかと思ったんだが、それならいい」
「撃たれた方の腕だけで逆立ちをして、空いた手でみかんを食ったりしていましたので、絶好調かと思います」
「あはは。それくらいはやる女だ。私の教え子の中でも一番優秀だから」
笠置さんと別れ寮に帰ると昼を過ぎていて、ハネさんが作ってくれたおにぎりを食い、昼寝をした。夕方になって戻ってきた真実はそんな俺を笑った。
「まだ配属先が決まらねえと見た。軍ってのにはうんざりするね」
勝手にあの日々に浸ってやがる。ならば一緒に沈んでやろうじゃねえか。それができるのは俺だけなんだから。
「なら、誘ってくれよ。文句は売るほどあるだろう」
巡はきょとんとしていた。ハネさんはいつものように微笑を浮かべ、そして俺を誘う害獣は澄まし顔でウインクをした。
「言われるまでもないさ。私についてこい。絶対に逃さねえぞ。お前らもだ。仔狸ども、私についてこい」
言ってから、自分の意図せず発生した熱気に照れて、巡の袖を引いて膝枕を求めた。
「な、なんですか」
「ハネさん、ご飯まだ?」
「用意するね」
「いや、え? 真実さんどうしちゃったんですか」
「うるさいな。もう茶番は終わったの。幕は降りてんだよ。あんまり見るなよ」
たしかに芝居じみたやり取りだった。始めたのはそっちのくせに、なにも恥ずかしがるところなんてないのに、なんてことは言わない。ただ、訂正すべきところがある。
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自分では書き物をしないので素人考えなのですが、タグが1つしかないことが気になりました。もっと多くの人の目に留まってほしいと思うのでタグを増やしてみてはどうでしょうか。もし理由があってのストロングスタイルなら気にしないでください。
狸の皆さんの活躍を楽しみにしています。これからも執筆お願いします。