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第二章
任務
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皇国歴一九六一年 厳冬
狸は中央に戻る。一年にも満たない軍歴だけど、その半分、ほとんど一夏という短い期間での都会暮らしから離れ、雪荒ぶ北楽に移り、同じくらいの時間を過ごした。
どちらも新人には厳しい環境ではあったけど、俺たちは身を寄せ合い、酷暑と極寒を生き抜いた。
そういう感慨深さは、見送りの時には感じなかった。
「頑張りなさい」
と、佐野さんが見送ってくれたときも、御岳さんが無言で煙草を吸っていたときも、黒子さんと握手をして別れたときも、寂しさはあったけどこれからの期待と不安が勝っていた。
「亀の再編成をしなければならんな」
榊大尉も土戸藩に帰る。そのトラックに同乗させてもらった。暖房のきいた荷台は外の景色もないからなおさらに暖かい。
交通手段には電車もあるが、彼女は北楽の景色を眺めたいと、道路での移動を選んだ。
「……姉貴、真紀の姉貴とは連絡とってんの」
車内で、榊さんがこぼした再編成の響きは朗らかなものだったが、それは多分、榊の一族が持つ特性によるものかもしれない。弱音を吐いて心を軽くし、しかし誤魔化す。真実とそっくりだけど、榊さんは年長な分、より気楽に見えた。
そういう心の機微を、真実は妹なだけあって鋭く見抜き、おそらくもうひとりの姉妹であるその人の名前を出したのだろう。少しでも気を紛らわそうとし、そして誰かに相談するべきだというように、優しく会話を繋げたのだ。
「北楽に来ることは伝えたよ。でも、それだけだ。説明できないし、しても長いし、あいつは心配性だから」
「そうかい。まあ、無事だったってことくらいはいいんじゃないか」
「それはお前がしてやりなさい。まったく誰に似たのか、真紀もお前も意地っ張りというかなんというか」
「その傷は、連中に一泡吹かそうって意地張って抗った勲章じゃないか。あんたに似たんだよ」
榊さんは微笑んで傷を撫で、
「そのあんたというのは真紀だな。矯正しようとしたのに、妹たちは面白がってもっと使うようになった。朝日くんも巡もヒヤヒヤするだろう」
と困った顔でいるが、その目には愛情をこれでもかというほどにたたえていた。
次第に車体の揺れが小さくなった。道路から雪が消え、どんどんと南下していく。最初の小休止は、赤間藩の氷都だった。
俺がここ離れたときにはなかったが、どうやら基地が新設されたらしい。そこで補給をした。
駐車場から遠くの街並みを眺めると、はっきりと復興の兆しがあった。田畑は人の手が入った形跡があって、道路は真新しいコンクリートになっていたし、家屋だって当然あのときのままではない。
「いい景色だ」
まだ年端のいかない俺だが、多少の追想くらいは許されるはずだ。失ったものと得たものを数えることこそしなかったけど、ジャケットの襟を正しながらすり寄ってくる狸には、どうしても俺たちの出発点を振り返ることを禁じえない。
「そうか? なんでもいいからさっさと便所に行ってこい。巡のやつ、どうもソワソワしてると思ったらよ、くっく、犬より速くすっ飛んでいったぜ」
「なるほど、だったら便所が軍人だな」
「おうとも。糞みたいな連中のなかに、たまに小銭が落ちてんのさ」
「狸はなんだ。その小銭か?」
紙幣でもいいくらいだ。そのくらいには稼いだ。だからこその階級と辞令だ。
「掃除用具だよ。巣穴は清潔に保たなきゃ」
「取り壊し業者じゃなくて?」
「少し前ならそう思われても仕方ねえかもな。まあなんだっていいんだ、私も用を足してくるから、急げよ」
景色を眺めるのを切り上げて休息をとり、また車内に戻った。土戸までは一時間とすこしで到着し、榊さんとも別れた。
「週に一度は連絡をしてくれ。お前の声がききたくてむせび泣くかもしれないからね」
「ヤだよ。そんなこと言うくせに、そっちからだって音沙汰無しじゃないか」
「ふふ、これでもお前たちよりは忙しい身でね」
「あーあー、それを言ったら終わりだね」
「私が暇をつくってしますから安心してください」
「ありがとう。巡さんも朝日くんも、何かあったらすぐに相談するように。いいね、榊の長姉からのお願いだ、どうか気楽に接してくれ」
傷を歪めて微笑んだ。ハネさんが抱擁しているときも姉の顔になって、
「あなたがこうでは、まったくしめしがつきませんね」
「うん。でも、いいの」
とその背をぽんと叩いた。
トラックに揺られながら、少し眠った。巡は癖づいてしまったぎょろぎょろと周囲を警戒することを意識的にせず、真実の頭を膝に乗せ安眠していた。
午後にはもう水湖寮の前に並ぶことができた。湿った土や芝生、露に濡れる木々は、今朝にでも雨が降ったのだろう、陽光がそれをこれでもかと輝かせ歓迎としてくれた。
「戻ってこれたね」
「うん。荷物を置いて挨拶に行こう。まずは芝ちゃんだな」
狸のいない間にここを管理していたのが軍の受付である芝さんだ。真実やハネさんとは懇意の人である。
「柳生さんにもお礼をしなければなりませんよ」
「うん。誠、花火を運べ」
「おう」
もともと荷物は少ないため、北楽で買い足した武器がかさばるくらいのものだ。一時間ほどで片付けを終え、ハネさんを残し久しぶりの中央基地へと出向いた。
受付は芝さんではなかったが、部屋を取ってあるとすぐに案内された。
俺たちは柳生少将直轄の部隊である。このことを、俺は巡に教えてもらった。てっきり完全に独立しているものだと思ったいた。だって、俺は彼女しか親とするものがいない子狸だったから。
基本的に誰の指示もあおがないとはいえ、お礼も兼ねて着任の挨拶をしなければならない。
「失礼します。狸の榊真実少尉です」
彼女に一切の気後れはなかった。颯爽と入室し敬礼をした。俺にも巡にもその気迫が乗り移ったのか、自分がこれほどまでに堂々とできるのかと驚いたくらいだ。
柳生さんは目を丸くして、見違えたと言った。
「ご苦労様でした」
彼の佇まいは、俺にこの場所を図書館だと錯覚させる。穏やかで、微笑がこれほど似合う人物を他に知らない。
「佐野中佐からききました。お手柄でしたね」
「それはどちらを指していますでしょうか」
真実の声には試すような色がある。なにも柳生さんにまでそんなことをしなくてもいいのに。
「もちろん、どちらもです。軍の腐敗を取り除くきっかけとなったこと、それと神殺し。どちらも、大きな功績です」
榊少尉、と改めて呼び、今回の一件、あまりに力になれず申し訳ない、と小さく頭を下げたのだ。
彼は、ほとんど陸軍の頂点にいる人だ。俺たちのような下っ端にこんなことをするなんてあきらかな異常である。
恐縮なんて生易しいものではなく、真実はものもいえず、俺なんかは知らずのうちに片膝をついて彼の頭よりも自分を低くしていた。
「あ、あの、私共も、ご期待に添えたかどうかは」
「いや、期待以上だったよ。今後も調査は続けていきますから、安心してください」
しどろもどろになる真実なんて珍しいが、それ以上に柳生さんの懐の深さというか広さというか、人間としての器量にぶちのめされた。狸にとって初めての敗北といっていい。
そういう心理的な敗戦直後の俺たちは数分の後、全員が正常の鼓動を取り戻した。巡が声もなく俺の肘を取って立たせてくれなければ、永遠にかしこまっていただろう。
「それで、恩着せがましいことを言うようだけど、ひとつ頼みがあるんだ」
柳生さんは引き出しから分厚い封筒を取り出した。あの手の書類は俺たちの境遇を大きく変化させてきた。頼みというのもそれに近いなにかなのだろう。
「レベトにはしてやられた。今後は大きな脅威として付き合わなくてはならない。しかし国交を断絶するというわけにもいかない。あの国の資源や官僚の助けはまだ必要だからね」
「政治ですか」
真実はやや唇をとがらせた。軍人がそれを語ることが気に入らないらしい。
「いや、我々にとっても必要だよ。今後、よからぬちょっかいを出されても困る。秘密裏に調査をしなくてはならないんだ」
真実は一呼吸置いた。俺たちにだってわかる話の結末を、彼女はどう締めるのだろうか。
「少将、椅子をもらってもよろしいでしょうか」
巡は喉から悲鳴をあげた。幸いなことに、彼は微笑んで、気が付かず申し訳ない、皆さんどうぞかけてください、と俺たちにまで勧めてくれた。部屋の端にある椅子を彼自ら運ぼうとしたので、慌てて用意した。
「……レベトは、寒いでしょうね」
真実に椅子やくつろげる場所を与えてはならない。とりわけ偉い人の前では。彼女は立ったままでも不遜なのに、足が組める状況になるとより自我を強烈に表に出してしまう。
猫背になって、今にも足を組みそうで俺も巡も恐々としている。
「これから暖かくなるよ。でも、レベトに乗り込むわけじゃない」
「というと」
「これは機密任務だ。まだきみたちに正式な命令は出ていない。だから、ここまでしか話せない」
「なるほど、命令があれば問答無用でしょう。これがお願いということですか」
「ええ。他に適任者はいます。しかしあなた方が最もそれに秀でているように思えましたので、声をかけたんです」
「理由をお聞かせ願えますでしょうか」
柳生さんは小さく笑った。上品に、尾を引くように、目を伏せた。あなた方は、と顔をあげると、まず俺を見た。
「最初は状況証拠こそ残しましたし、山羊の件でもまだ未熟でしたけど」
と悪行に触れた。実行犯の表情は変わらなかったようで、彼は頷いて、
「今や実にあっけらかんとしている。それに猫たちもうまく片付けた。工作部隊としての実績がある。ベテランに頼むのもいいのですが、神を殺せる力をともなっているものはいませんから」
評価されているのだろう。望外な評価だった。狸の経歴とはそういうものなのかと初めて実感した。
「そんなわけで、いかがでしょう。ひきうけてくれますか」
「はい」
柳生さんは、よかった、と書類を真実に手渡した。恭しく受け取り、その場で確認すると、彼女はなにを見たのか、肩を揺すった。
「たかだか少尉の率いる部隊に任せるには、博打が過ぎますね」
どういう手法を使ったのか、真実は分厚いそれをあっという間に読み終えた。柳生さんはそれを待ち、
「ひとつ、言っておきます」
と目を細めた。その奥には、年齢を感じさせない軍人としての闘志がある。この任務は必要事項であり、人事を尽くさねばならんという覚悟が滲み出ていた。大役ではあるが達成を望むという生易しいものではなく、できなければ北楽での惨劇が皇国全体を襲う、という脅しのようでもあった。
「これは厄介払いではありません。もうそんな考えの者は、少なくとも私とその周囲には皆無といっていい。少尉、博打の勝敗を決するのはあなただ」
「……やり方は任せてもらいますが」
「構いません」
「出立については記されていませんが」
「こちらから指示を出します」
「……柳生少将。ひとつよろしいですか」
どうぞ、と彼は言う。真実の背中越しからでも伝わってくるこれからの発言に対しての緊張を和らげようとしているのか、またしてもこの場所を優しい雰囲気で包んだ。
「あー、大鳥羽音さんを随行させてもいいっすかね」
「少尉!」
巡が静かに叫んだ。そのやや砕けた口調を厳しく叱責したのだが、柳生さんはニコニコ顔でもちろんですと快諾してくれた。
真実は随行員の許可を求めたのではない。自分をさらけ出すことを許してもらいたく、受け入れて欲しかったのだ。信頼しているという意思表示でもあり、しかしかけ離れた天上の階級である彼に対してはさすがの彼女も躊躇したのだろう、半端にそれを隠したために、巡に叱られたのだ。もっとも、御岳さんにするように接すれば、叱責は拳での粛清になってもおかしくはなかったが。
「いやあ、実は佐野くんが羨ましくてね。私には狸が懐かないんじゃないかと心配だったんだ」
そう言って彼は、口元を隠して笑った。つられて俺も肩を小さく揺すってしまい、巡にきつく睨まれた。
「お望みならば、調子に乗らせてもらいますが」
「うん。そうしてくれないか。どうも堅苦しいのは苦手でね」
なんというか、やはり近所の優しい人という感じがする。いっそタメ口にして、いや、巡に殺されそうだからやめておこう。
「では、そのように。失礼します」
敬礼も鮮やかで、彼女は颯爽と辞した。残された俺たちもそうした。小さく手を振ってくれた柳生さんに、会釈をしすると、
「遊んできなさい」
と微笑んだ。仕事を放棄して観光してこいという意味ではないのだろう。きっと狸らしく、好き勝手にやってこいという激励だ。
俺たちははいと声を揃え、今度こそ部屋を出た。
狸は中央に戻る。一年にも満たない軍歴だけど、その半分、ほとんど一夏という短い期間での都会暮らしから離れ、雪荒ぶ北楽に移り、同じくらいの時間を過ごした。
どちらも新人には厳しい環境ではあったけど、俺たちは身を寄せ合い、酷暑と極寒を生き抜いた。
そういう感慨深さは、見送りの時には感じなかった。
「頑張りなさい」
と、佐野さんが見送ってくれたときも、御岳さんが無言で煙草を吸っていたときも、黒子さんと握手をして別れたときも、寂しさはあったけどこれからの期待と不安が勝っていた。
「亀の再編成をしなければならんな」
榊大尉も土戸藩に帰る。そのトラックに同乗させてもらった。暖房のきいた荷台は外の景色もないからなおさらに暖かい。
交通手段には電車もあるが、彼女は北楽の景色を眺めたいと、道路での移動を選んだ。
「……姉貴、真紀の姉貴とは連絡とってんの」
車内で、榊さんがこぼした再編成の響きは朗らかなものだったが、それは多分、榊の一族が持つ特性によるものかもしれない。弱音を吐いて心を軽くし、しかし誤魔化す。真実とそっくりだけど、榊さんは年長な分、より気楽に見えた。
そういう心の機微を、真実は妹なだけあって鋭く見抜き、おそらくもうひとりの姉妹であるその人の名前を出したのだろう。少しでも気を紛らわそうとし、そして誰かに相談するべきだというように、優しく会話を繋げたのだ。
「北楽に来ることは伝えたよ。でも、それだけだ。説明できないし、しても長いし、あいつは心配性だから」
「そうかい。まあ、無事だったってことくらいはいいんじゃないか」
「それはお前がしてやりなさい。まったく誰に似たのか、真紀もお前も意地っ張りというかなんというか」
「その傷は、連中に一泡吹かそうって意地張って抗った勲章じゃないか。あんたに似たんだよ」
榊さんは微笑んで傷を撫で、
「そのあんたというのは真紀だな。矯正しようとしたのに、妹たちは面白がってもっと使うようになった。朝日くんも巡もヒヤヒヤするだろう」
と困った顔でいるが、その目には愛情をこれでもかというほどにたたえていた。
次第に車体の揺れが小さくなった。道路から雪が消え、どんどんと南下していく。最初の小休止は、赤間藩の氷都だった。
俺がここ離れたときにはなかったが、どうやら基地が新設されたらしい。そこで補給をした。
駐車場から遠くの街並みを眺めると、はっきりと復興の兆しがあった。田畑は人の手が入った形跡があって、道路は真新しいコンクリートになっていたし、家屋だって当然あのときのままではない。
「いい景色だ」
まだ年端のいかない俺だが、多少の追想くらいは許されるはずだ。失ったものと得たものを数えることこそしなかったけど、ジャケットの襟を正しながらすり寄ってくる狸には、どうしても俺たちの出発点を振り返ることを禁じえない。
「そうか? なんでもいいからさっさと便所に行ってこい。巡のやつ、どうもソワソワしてると思ったらよ、くっく、犬より速くすっ飛んでいったぜ」
「なるほど、だったら便所が軍人だな」
「おうとも。糞みたいな連中のなかに、たまに小銭が落ちてんのさ」
「狸はなんだ。その小銭か?」
紙幣でもいいくらいだ。そのくらいには稼いだ。だからこその階級と辞令だ。
「掃除用具だよ。巣穴は清潔に保たなきゃ」
「取り壊し業者じゃなくて?」
「少し前ならそう思われても仕方ねえかもな。まあなんだっていいんだ、私も用を足してくるから、急げよ」
景色を眺めるのを切り上げて休息をとり、また車内に戻った。土戸までは一時間とすこしで到着し、榊さんとも別れた。
「週に一度は連絡をしてくれ。お前の声がききたくてむせび泣くかもしれないからね」
「ヤだよ。そんなこと言うくせに、そっちからだって音沙汰無しじゃないか」
「ふふ、これでもお前たちよりは忙しい身でね」
「あーあー、それを言ったら終わりだね」
「私が暇をつくってしますから安心してください」
「ありがとう。巡さんも朝日くんも、何かあったらすぐに相談するように。いいね、榊の長姉からのお願いだ、どうか気楽に接してくれ」
傷を歪めて微笑んだ。ハネさんが抱擁しているときも姉の顔になって、
「あなたがこうでは、まったくしめしがつきませんね」
「うん。でも、いいの」
とその背をぽんと叩いた。
トラックに揺られながら、少し眠った。巡は癖づいてしまったぎょろぎょろと周囲を警戒することを意識的にせず、真実の頭を膝に乗せ安眠していた。
午後にはもう水湖寮の前に並ぶことができた。湿った土や芝生、露に濡れる木々は、今朝にでも雨が降ったのだろう、陽光がそれをこれでもかと輝かせ歓迎としてくれた。
「戻ってこれたね」
「うん。荷物を置いて挨拶に行こう。まずは芝ちゃんだな」
狸のいない間にここを管理していたのが軍の受付である芝さんだ。真実やハネさんとは懇意の人である。
「柳生さんにもお礼をしなければなりませんよ」
「うん。誠、花火を運べ」
「おう」
もともと荷物は少ないため、北楽で買い足した武器がかさばるくらいのものだ。一時間ほどで片付けを終え、ハネさんを残し久しぶりの中央基地へと出向いた。
受付は芝さんではなかったが、部屋を取ってあるとすぐに案内された。
俺たちは柳生少将直轄の部隊である。このことを、俺は巡に教えてもらった。てっきり完全に独立しているものだと思ったいた。だって、俺は彼女しか親とするものがいない子狸だったから。
基本的に誰の指示もあおがないとはいえ、お礼も兼ねて着任の挨拶をしなければならない。
「失礼します。狸の榊真実少尉です」
彼女に一切の気後れはなかった。颯爽と入室し敬礼をした。俺にも巡にもその気迫が乗り移ったのか、自分がこれほどまでに堂々とできるのかと驚いたくらいだ。
柳生さんは目を丸くして、見違えたと言った。
「ご苦労様でした」
彼の佇まいは、俺にこの場所を図書館だと錯覚させる。穏やかで、微笑がこれほど似合う人物を他に知らない。
「佐野中佐からききました。お手柄でしたね」
「それはどちらを指していますでしょうか」
真実の声には試すような色がある。なにも柳生さんにまでそんなことをしなくてもいいのに。
「もちろん、どちらもです。軍の腐敗を取り除くきっかけとなったこと、それと神殺し。どちらも、大きな功績です」
榊少尉、と改めて呼び、今回の一件、あまりに力になれず申し訳ない、と小さく頭を下げたのだ。
彼は、ほとんど陸軍の頂点にいる人だ。俺たちのような下っ端にこんなことをするなんてあきらかな異常である。
恐縮なんて生易しいものではなく、真実はものもいえず、俺なんかは知らずのうちに片膝をついて彼の頭よりも自分を低くしていた。
「あ、あの、私共も、ご期待に添えたかどうかは」
「いや、期待以上だったよ。今後も調査は続けていきますから、安心してください」
しどろもどろになる真実なんて珍しいが、それ以上に柳生さんの懐の深さというか広さというか、人間としての器量にぶちのめされた。狸にとって初めての敗北といっていい。
そういう心理的な敗戦直後の俺たちは数分の後、全員が正常の鼓動を取り戻した。巡が声もなく俺の肘を取って立たせてくれなければ、永遠にかしこまっていただろう。
「それで、恩着せがましいことを言うようだけど、ひとつ頼みがあるんだ」
柳生さんは引き出しから分厚い封筒を取り出した。あの手の書類は俺たちの境遇を大きく変化させてきた。頼みというのもそれに近いなにかなのだろう。
「レベトにはしてやられた。今後は大きな脅威として付き合わなくてはならない。しかし国交を断絶するというわけにもいかない。あの国の資源や官僚の助けはまだ必要だからね」
「政治ですか」
真実はやや唇をとがらせた。軍人がそれを語ることが気に入らないらしい。
「いや、我々にとっても必要だよ。今後、よからぬちょっかいを出されても困る。秘密裏に調査をしなくてはならないんだ」
真実は一呼吸置いた。俺たちにだってわかる話の結末を、彼女はどう締めるのだろうか。
「少将、椅子をもらってもよろしいでしょうか」
巡は喉から悲鳴をあげた。幸いなことに、彼は微笑んで、気が付かず申し訳ない、皆さんどうぞかけてください、と俺たちにまで勧めてくれた。部屋の端にある椅子を彼自ら運ぼうとしたので、慌てて用意した。
「……レベトは、寒いでしょうね」
真実に椅子やくつろげる場所を与えてはならない。とりわけ偉い人の前では。彼女は立ったままでも不遜なのに、足が組める状況になるとより自我を強烈に表に出してしまう。
猫背になって、今にも足を組みそうで俺も巡も恐々としている。
「これから暖かくなるよ。でも、レベトに乗り込むわけじゃない」
「というと」
「これは機密任務だ。まだきみたちに正式な命令は出ていない。だから、ここまでしか話せない」
「なるほど、命令があれば問答無用でしょう。これがお願いということですか」
「ええ。他に適任者はいます。しかしあなた方が最もそれに秀でているように思えましたので、声をかけたんです」
「理由をお聞かせ願えますでしょうか」
柳生さんは小さく笑った。上品に、尾を引くように、目を伏せた。あなた方は、と顔をあげると、まず俺を見た。
「最初は状況証拠こそ残しましたし、山羊の件でもまだ未熟でしたけど」
と悪行に触れた。実行犯の表情は変わらなかったようで、彼は頷いて、
「今や実にあっけらかんとしている。それに猫たちもうまく片付けた。工作部隊としての実績がある。ベテランに頼むのもいいのですが、神を殺せる力をともなっているものはいませんから」
評価されているのだろう。望外な評価だった。狸の経歴とはそういうものなのかと初めて実感した。
「そんなわけで、いかがでしょう。ひきうけてくれますか」
「はい」
柳生さんは、よかった、と書類を真実に手渡した。恭しく受け取り、その場で確認すると、彼女はなにを見たのか、肩を揺すった。
「たかだか少尉の率いる部隊に任せるには、博打が過ぎますね」
どういう手法を使ったのか、真実は分厚いそれをあっという間に読み終えた。柳生さんはそれを待ち、
「ひとつ、言っておきます」
と目を細めた。その奥には、年齢を感じさせない軍人としての闘志がある。この任務は必要事項であり、人事を尽くさねばならんという覚悟が滲み出ていた。大役ではあるが達成を望むという生易しいものではなく、できなければ北楽での惨劇が皇国全体を襲う、という脅しのようでもあった。
「これは厄介払いではありません。もうそんな考えの者は、少なくとも私とその周囲には皆無といっていい。少尉、博打の勝敗を決するのはあなただ」
「……やり方は任せてもらいますが」
「構いません」
「出立については記されていませんが」
「こちらから指示を出します」
「……柳生少将。ひとつよろしいですか」
どうぞ、と彼は言う。真実の背中越しからでも伝わってくるこれからの発言に対しての緊張を和らげようとしているのか、またしてもこの場所を優しい雰囲気で包んだ。
「あー、大鳥羽音さんを随行させてもいいっすかね」
「少尉!」
巡が静かに叫んだ。そのやや砕けた口調を厳しく叱責したのだが、柳生さんはニコニコ顔でもちろんですと快諾してくれた。
真実は随行員の許可を求めたのではない。自分をさらけ出すことを許してもらいたく、受け入れて欲しかったのだ。信頼しているという意思表示でもあり、しかしかけ離れた天上の階級である彼に対してはさすがの彼女も躊躇したのだろう、半端にそれを隠したために、巡に叱られたのだ。もっとも、御岳さんにするように接すれば、叱責は拳での粛清になってもおかしくはなかったが。
「いやあ、実は佐野くんが羨ましくてね。私には狸が懐かないんじゃないかと心配だったんだ」
そう言って彼は、口元を隠して笑った。つられて俺も肩を小さく揺すってしまい、巡にきつく睨まれた。
「お望みならば、調子に乗らせてもらいますが」
「うん。そうしてくれないか。どうも堅苦しいのは苦手でね」
なんというか、やはり近所の優しい人という感じがする。いっそタメ口にして、いや、巡に殺されそうだからやめておこう。
「では、そのように。失礼します」
敬礼も鮮やかで、彼女は颯爽と辞した。残された俺たちもそうした。小さく手を振ってくれた柳生さんに、会釈をしすると、
「遊んできなさい」
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