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第6話
(1)
しおりを挟む久しぶりに友人と会えて嬉しいのに、どうしても無視できない感覚が和彦の胸には広がっていた。
「――それで、ダンナがクリニックに怒鳴り込んできて、大騒ぎになったんだ」
「それを澤村先生は、ニヤニヤしながら眺めてたんだな」
「そりゃもう、楽しかったからな。いつも威張り散らしてる奴が、受付の子の後ろに隠れて、真っ青になって震えてるんだぜ」
「……相変わらず、イイ男に対しては鬼だな」
同僚の医者が、不倫相手の夫からいかに無様に吊るし上げを食らったかを、澤村は実に嬉しそうに話す。
目立ちたがり屋同士、何かと張り合っていたなと、かつて自分がクリニックに勤めていた頃の出来事を思い出し、和彦はふっと笑みをこぼす。それと同時に、また、ある感覚に襲われた。
「どうした、佐伯、急にぼんやりして」
澤村に声をかけられ、我に返る。なんでもないと首を横に振り、フォークを手にした。
澤村とは、ときどき電話で話してはいたものの、こうして会うのは久しぶりだ。厄介事のほとぼりが冷めるまで会わないつもりだったが、皮肉なことに、その厄介事は和彦の体の一部になってしまった。
本当は、会わないほうがいいと思いながら、友人との気安い空気と会話を楽しみたいという気持ちを抑えきれなかった。何より、自分が失った生活を懐かしんでみたかった。だが――。
和彦はさりげなく、視線を周囲に向ける。昼時ということで、イタリアンレストランのテーブルは満席だ。座っているのは、見るからに普通の日常を過ごしている人たちだった。
澤村と一緒だと、和彦も違和感なくこの場に溶け込んでしまえ、人目を意識しなくていい。数か月前までの和彦にとって、それは当たり前のことだった。なのに今は、馴染んでしまえる自分に、落ち着かない。
さきほどから襲われる感覚の正体はこれだ。和彦の足元には、目には見えない境界線が引かれてしまったのだ。境界線の向こうには澤村が立ち、そこには和彦がなくした穏やかな日常がある。
「佐伯、聞いていいか?」
ここまで機嫌よさそうに話していた澤村が突然、声に気遣いを滲ませながら問いかけてきた。和彦は無意識に背筋を正す。
「……なんだ」
「お前、電話のたびに忙しそうにしてるけど、仕事はどうなんだ。あまり聞いてほしくなさそうだから、俺も電話では遠慮してたんだが、せっかくこうして顔を突き合わせているんだし……、なあ?」
なんでも明け透けに言っているようでいて、澤村は配慮ができる男だ。そんな男が、言いにくそうにしながらも尋ねてきたのだ。単なる好奇心ではなく、和彦の生活を心配してくれているのだと、よくわかる。
友人の気持ちに心苦しさを覚えながら、和彦は答えた。
「知人のツテで、個人クリニックの開業を手伝っているんだ。あんなトラブルを起こしたぼくじゃ、いまさら大手のクリニックを目指して就職活動なんてできないしな。いい経験だと思って、ほとぼりが冷めるまで勉強させてもらうつもりだ。いつか、自分が独立するときのために」
「どの辺りにできるクリニックだ?」
追及というほどではないが、冷静な声でさらに澤村に問われ、さすがに返事に詰まる。和彦のそんな反応は予測していたのか、澤村は軽くため息をついた。
「言いたくないんだな」
「すまない……」
「まだ、お前が巻き込まれたトラブルは片付いてないんだな」
微かに唇を歪めたのが、和彦にできる精一杯の返事だった。澤村は眉をひそめてから、あごを手をやる。
「……今住んでいる場所も、勤務先も教えられないなんて、普通じゃないだろ。トラブルというのがどの程度のものかわからないが、まともな人間が絡んでないのはわかる。だからこそ、警察か弁護士にでも相談してみたらどうだ。クリニックに送られてきたようなものを、また他人の目に晒したくないっていう気持ちも理解はできるが――」
泥沼にハマり込むぞ、と低い声で澤村が言う。
澤村が本気で心配してくれているとわかるだけに、和彦は自分たちの間にある境界線の存在を、ますます強く実感する。
「澤村先生は、見かけによらず心配性だ」
和彦はニヤリと笑いかける。澤村が面食らったように目を丸くしたので、畳み掛けるように言葉を続ける。
「実は今、クリニックに勤めていた頃より、いい生活をしている。いいマンションに住んで、金にも不自由しなくて、欲しいものはなんでも手に入る。……つき合う相手もよりどりみどりだ。みんな、ぼくを大事にしてくれる」
「……しばらく会わない間に、冗談の質が落ちたんじゃねーか、佐伯先生」
澤村が冗談として受け止めてくれたことに、内心でほっとした。同時に、わずかばかりの寂しさも覚える。
「今の生活で唯一足りないとしたら、冗談を鍛えてくれる友人だろうな」
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