649 / 1,289
第28話
(20)
しおりを挟む普段の言動のせいですっかり忘れてしまいそうになるが、長嶺千尋の本質は決して、可愛い犬っころなどではない。
したたかでありながら激しい気性を持つ〈何か〉だ。それは、祖父の守光のような老獪な化け狐かもしれないし、父親の賢吾のような冷酷な大蛇かもしれない。もしくは、まったく別の獣か――。
クリニックを一歩出た和彦は、目の前に立つ千尋を一目見た瞬間、総毛立つような感覚に襲われた。明らかに千尋の様子が尋常ではなかったからだ。
細身のスーツにナロータイという、オシャレな若手ビジネスマンのような格好は、恵まれた容姿を持つ千尋を、育ちのいい青年に見せる道具としては効果的だ。だが、まるで炎をまとったように、激しい怒りを全身に漲らせている今の千尋は、ジャケットの前を開き、ナロータイを緩めているだけなのに、筋者らしい凶暴さを感じさせる。
こんな千尋に声をかけたくないが、まさか無視をするわけにもいかない。和彦はできるだけ、いつもの調子で声をかけた。
「お前、こんなところで何をしてるんだ……」
千尋に歩み寄りながら、周囲に視線を向ける。通りを行き交う人たちが、この青年が長嶺組の跡目だとわかるとは思えない。しかしそれを抜きにしても、千尋の存在は人目を惹く。クリニックが入るビルの前で、目立ちたくなかった。
「先生を待ってた」
「それはわかるが……、せめて車で待つぐらいできるだろ。もし、お前の素性を知っている人間に見つかったらどうするんだ」
「いいよ。そのときは、そのときだ」
低く抑えた声に、自暴自棄な響きを感じ取り、和彦は眉をひそめる。
「お前――」
「先生に話があるんだ」
そう言って千尋に腕を掴まれたが、反射的に振り払う。カッとしたように睨みつけてきた千尋を、和彦は睨み返す。
「どうして、そんなに怒ってるんだ」
「……先生に心当たりはあるはずだよ」
「心当たりって……」
「来週、会うんだろ。あんなに怖がってた、自分の兄貴に」
あっ、と声を洩らした和彦は、この瞬間、自分が大きな思い違いをしていたことに気づいた。
和彦の反応を見て、千尋は不機嫌そうに唇を曲げる。
「俺のことなんて、すっかり忘れてたって顔だ」
「違うっ。そうじゃなくて――」
「話は、車の中で」
短く言い放った千尋に再び腕を掴まれ、今度こそ否とは言わせない強引さで引っ張られる。いつにない千尋の迫力に圧され、和彦は従うしかなかった。
駐車場に待機していたのは、千尋がいつも利用している車だった。どうやら和彦の護衛は帰らせてしまったようだ。大きくため息をついて、千尋に続いて車に乗り込む。
車が発進するとすぐ、千尋は口を開いた。
「俺は、今日知った。それで組の人間に聞いて回ったら……、みんな知ってたんだ。それどころか、総和会も一枚噛んでるって。――俺だけ、先生に関する大事なことを教えてもらえてなかったわけだ」
千尋の声音は不安定で、子供が拗ねているようだと思えば、今にも爆発しそうな強い苛立ちを滲ませ、聞いている和彦はハラハラしてくる。反射的に千尋の腕に手をかけると、反対にその手を握り締められた。
「俺になんて言う必要はないと思った?」
千尋にズバリと言葉で切り込まれ、咄嗟に返事に詰まる。和彦は逡巡した挙げ句、正直に答えるしかなかった。
「……最初は、大げさにするつもりはなかったんだ。組長にさえ許可をもらえれば、それだけでいいと……。だけど、総和会にも報告することになって、ぼくの周囲にいる人間たちにも知らせていって――。お前には、組長か会長が知らせてくれると思っていたんだ」
「残念。俺に教えてくれたのは、組員の一人だ。つまり俺は、オヤジにもじいちゃんにも忘れられてたってことか」
「そうじゃないだろ。連絡の行き違い……、いや、ぼくのせいだな。慌しい中で、お前の存在を後回しにしていた」
正確には、軽んじていたのかもしれない。そう、和彦は心の中で呟く。
長嶺の男ではあるが、祖父や父親に比べて千尋は、組織や人に対しても影響力が限られている。二人が許可をしたのなら、千尋にあえて話す必要がないと、無意識のうちに和彦はそう判断していたのだ。もちろん、それだけではない。
「悪かった。ぼくの個人的なことで、お前を煩わせたくないという気持ちもあったんだ。……兄さんから電話がかかってきただけで、あれだけの醜態をお前に晒して、心配をかけたせいもあるし……」
「煩わせてるのは、俺たちのほうだろ。先生をさんざん、こっちの世界の理屈で振り回してるのに、何言ってるんだよ」
「千尋……」
72
あなたにおすすめの小説
水仙の鳥籠
下井理佐
BL
とある遊郭に売られた少年・翡翠と盗人の一郎の物語。
翡翠は今日も夜な夜な男達に抱かれながら、故郷の兄が迎えに来るのを格子の中で待っている。
ある日遊郭が火に見舞われる。
生を諦めた翡翠の元に一人の男が現れ……。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
いつかコントローラーを投げ出して
せんぷう
BL
オメガバース。世界で男女以外に、アルファ・ベータ・オメガと性別が枝分かれした世界で新たにもう一つの性が発見された。
世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。
バランサー。
アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。
これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。
裏社会のトップにして最強のアルファ攻め
×
最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け
※オメガバース特殊設定、追加性別有り
.
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる