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第29話
(6)
しおりを挟む歩くごとに、靴の裏から水が染み込んでくるかのように、足取りが重かった。さらに、ムッとするような湿気が体中にまとわりついてくる。とにかく、何もかもが不快だった。
急き立てられるように速足のせいか、さきほどのレストランでのやり取りのせいか、和彦の息遣いは荒く、心なしか頭が痛い。
雨で濡れた髪を掻き上げた和彦は、左頬に触れる。すでに痛みはないが、少しだけ熱を帯びている。ここであることに気づき、自分の手を見る。微かに震えていた。正直、殴られることは想定していたが、喉元に手をかけられたことには衝撃を受けた。当然、英俊は本気ではなかっただろうが、脅しとしては効果的だ。
子供の頃、英俊からさんざん与えられた痛みの記憶が一気に噴き出してきて、気分が悪い。意識した途端、その場で嘔吐してしまいそうだ。
なのに和彦は、歩くのをやめられない。立ち止まった瞬間、英俊に背後から腕を捕まれそうな恐怖があった。もしかすると、本当に英俊が背後から尾行してきているのかもしれないが、振り返って確認することもできない。
傘を差して歩いている人たちの間を縫うようにして、ひたすら前を見据えて歩き続けるのが精一杯だ。
長嶺組の組員からは、英俊と別れたあと、タクシーを数回乗り換えてほしいと言われていた。佐伯家が尾行をつけていないか確認してからでないと、迂闊に和彦と接触できないのだ。
本当はホテルのエントランスからすぐにタクシーに乗り込みたかったが、天候のせいでタクシー待ちの客が並んでおり、悠長に列に加わる気にはなれなかった。歩き出してはみたものの、通りを走るタクシーはほとんど客を乗せている。
少し座って休みたいと思い、慎重に周囲を見回す。すると突然、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。一瞬、英俊かと思って動揺しかけたが、すぐに思い直す。着信音は、組などとの連絡に使っている携帯電話のものだ。
「もしもし――」
『佐伯先生、尾行がついています。このまま真っ直ぐ行って、その先にあるデパートの地下二階の駐車場に降りてください。それと、後ろは振り返らないで』
聞き覚えのない声に、和彦の頭は混乱する。
「誰だ?」
『今日先生を護衛している総和会の者です。さきほどから先生の護衛を、長嶺組から完全に引き継ぎました』
本当なのかと問いかけたかったが、その前に電話は切られる。長嶺組と連絡を取って確認したかったが、尾行がついていると聞かされて、和彦は落ち着いてはいられなかった。歩きながら携帯電話を操作しようとしたが、指先が強張って上手く動かない。その間に何度も人とぶつかりそうになり、避けているうちにデパート前へと到着する。ここまでくると、躊躇している間はなかった。
デパートに入ると、女性洋品ばかりの一階の売り場を見るふりをしながらフロアを歩き回り、さりげなくエスカレーターで地下一階に移動する。こちらも同じように歩き回ってから、タイミングを見計らってエレベーターに駆け込み、指示された通り駐車場へと向かう。
頻繁に車が行き来している駐車場で、和彦は困惑する。この広いスペースの中、自分はどこに行けばいいのかと思ったのだ。エレベーターのすぐ側に立っていると、今にも扉が開いて英俊が姿を見せそうで、とりあえず歩き出す。
車が傍らを走りすぎるたびに緊張していたが、それも長くは続かない。とにかく和彦は、疲労感に苛まれていた。
大きくため息をついて、足を止める。すると、駐車場内のどこかで車が乱暴に発進した鋭い音が、辺りに反響する。嫌な予感に和彦が眉をひそめると同時に、シルバーのバンがやってきて、ぴったりと傍らに停まった。
後部座席のスライドドアが開き、総和会本部で見かけたことのある男が身を乗り出すようにして、和彦に手招きをした。
「乗ってください」
ためらいに、すぐには足が動かなかった。総和会と長嶺組の間にどんなやり取りがあったのかわからないまま、状況に流されていいのかと思ったのだ。
しかし、男に強い口調でもう一度呼ばれ、和彦は従うしかなかった。
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