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第39話
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賢吾が何か話しかけてきたが、もう声も出せない。和彦が深く息を吐き出すと、大きな手に髪を撫でられた。
そこからの和彦の意識は曖昧だ。安定剤の効き目に逆らうことなく眠りにつきながらも、唐突に押し寄せる強烈な不安感に追い立てられるように目が覚め、まだ走行中の車内だと確認して、再びウトウトする。賢吾も、そんな和彦の様子に気づいているようだった。
安心させるように肩に手がかかり、子供をあやすように軽く叩かれる。ふいに携帯電話の着信音が聞こえ、ビクリと体を震わせる。なぜだかわからないが、総和会からか、俊哉から連絡が入ったと思ったのだ。すると、顔を寄せてきた賢吾に囁かれた。
「大丈夫だ。今夜は、先生の怖いものは何も近寄らせねーから。安心しろ」
そう言ったあと、賢吾が助手席に座る組員に短く何か告げる。すぐに着信音が切れた。和彦はおずおずと肩から力を抜き、すぐにまたスウッと眠りにつく。
その後の記憶はさらに曖昧なものとなる。体がふわりと宙に浮く感覚があり、また抱き上げられたのだろうかとぼんやりと考えているうちに、布団らしきものの上に横たえられた。
なんとか瞼を持ち上げようとしたが、両目を温かな感触に覆われる。
「もう、本宅に着いた。俺はここにいるから。……今夜は何も考えるな」
大事にされていると、理屈ではなく肌で実感する。また嗚咽をこぼしそうになったが、その前に和彦は完全に意識を手放した。
和彦が目を覚ましたとき、まっさきに視界に飛び込んできたのは、千尋の寝顔だった。二度、三度と瞬きをしているうちに、昨夜、自分の身に起こったことを思い出し、胃がキリキリと痛む。
わずかに上体を起こして辺りを見回し、不思議な感覚を味わう。安定剤を服用して、自宅の寝室のベッドに潜り込んだのに、起きてみれば、長嶺の本宅の客間にいるのだ。賢吾が運び込んでくれたことは覚えているが、結局、自分の目で確認することはなかった。和彦が眠りにつくまで、両目は賢吾のてのひらに覆われていたせいだ。
起きてみれば、傍らには千尋がいる。和彦が寝入ってからもう一組の布団を敷いたらしいが、千尋の体は、ほとんど和彦の布団に入り込んでいた。
番犬にしては無防備だなと思いながら和彦は、千尋の茶色の髪をそっと撫でる。しっかり寝入っているところを起こすのは忍びなくて、静かに布団から抜け出した。
体は少しだるく感じるが、強い眠気はもう残っていない。立ち上がった和彦は自分の体調を簡単に確認してから、客間を出る。
長嶺の本宅はいつも通りの朝を迎えていた。どこからともなく人の話し声と気配がして、一日の始まりらしい活気が伝わってくる。
気力も体力も使い果たして、自分の体の中が空っぽになったように感じていたが、ぼんやりと立ち尽くしていると、確かに満ちてくるものがある。
もし、賢吾によって本宅に連れてこられないままだったら、今ごろ広いベッドで目を覚まし、静かな寝室で一人、何を思っていただろうかと考えていた。
「――先生」
和彦を驚かせないようにという配慮か、抑えた声で呼ばれる。視線を上げると、本宅の台所を取り仕切っている笠野が立っていた。台所仕事の合間に来たらしく、エプロンをつけたままだ。
「様子が気になって、客間をちょっと覗かせてもらおうと思ったんですが、起きられていたんですね」
「ああ……。あまり悠長に寝てもいられない。クリニックもあるし」
笠野は一瞬、物言いたげな顔をしたが、すぐにいかつい顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「まだ時間もありますし、朝メシの前に、風呂に入ってさっぱりしませんか? すぐに準備させますから」
「いや、シャワーで済ませる」
「でしたら、着替えは脱衣所に置いておきますね」
頷いた和彦は、笠野に見送られながらシャワーを浴びに向かった。笠野は本宅に住み込んでいるので、昨夜の騒動を知らないはずはない。それでも、過剰な気遣いを表情に出さないのは、さすがというべきなのだろう。
頭と体を完全に目覚めさせるため、熱い湯を浴びる。目を閉じると、昨夜の出来事がめまぐるしく頭の中を駆け巡り、これからどうしようかと、途方に暮れたくなる。
夢の中で味わった苦痛に近い人恋しさが蘇り、胸が詰まった。それが、今の生活を失いたくないという強い実感へと繋がる。
おかげで、奮い立つというほど立派なものではないが、きっと自分は足掻き苦しむしかないのだろうなと、ささやかながら覚悟は決まった。せめて、今日一日ぐらいはきちんと生活できるように。明日どうするかは、明日決める。
シャワーを止めて風呂場を出た和彦は、ぎょっとして立ち尽くす。脱衣場に、賢吾がいた。
「な、に、して……」
そこからの和彦の意識は曖昧だ。安定剤の効き目に逆らうことなく眠りにつきながらも、唐突に押し寄せる強烈な不安感に追い立てられるように目が覚め、まだ走行中の車内だと確認して、再びウトウトする。賢吾も、そんな和彦の様子に気づいているようだった。
安心させるように肩に手がかかり、子供をあやすように軽く叩かれる。ふいに携帯電話の着信音が聞こえ、ビクリと体を震わせる。なぜだかわからないが、総和会からか、俊哉から連絡が入ったと思ったのだ。すると、顔を寄せてきた賢吾に囁かれた。
「大丈夫だ。今夜は、先生の怖いものは何も近寄らせねーから。安心しろ」
そう言ったあと、賢吾が助手席に座る組員に短く何か告げる。すぐに着信音が切れた。和彦はおずおずと肩から力を抜き、すぐにまたスウッと眠りにつく。
その後の記憶はさらに曖昧なものとなる。体がふわりと宙に浮く感覚があり、また抱き上げられたのだろうかとぼんやりと考えているうちに、布団らしきものの上に横たえられた。
なんとか瞼を持ち上げようとしたが、両目を温かな感触に覆われる。
「もう、本宅に着いた。俺はここにいるから。……今夜は何も考えるな」
大事にされていると、理屈ではなく肌で実感する。また嗚咽をこぼしそうになったが、その前に和彦は完全に意識を手放した。
和彦が目を覚ましたとき、まっさきに視界に飛び込んできたのは、千尋の寝顔だった。二度、三度と瞬きをしているうちに、昨夜、自分の身に起こったことを思い出し、胃がキリキリと痛む。
わずかに上体を起こして辺りを見回し、不思議な感覚を味わう。安定剤を服用して、自宅の寝室のベッドに潜り込んだのに、起きてみれば、長嶺の本宅の客間にいるのだ。賢吾が運び込んでくれたことは覚えているが、結局、自分の目で確認することはなかった。和彦が眠りにつくまで、両目は賢吾のてのひらに覆われていたせいだ。
起きてみれば、傍らには千尋がいる。和彦が寝入ってからもう一組の布団を敷いたらしいが、千尋の体は、ほとんど和彦の布団に入り込んでいた。
番犬にしては無防備だなと思いながら和彦は、千尋の茶色の髪をそっと撫でる。しっかり寝入っているところを起こすのは忍びなくて、静かに布団から抜け出した。
体は少しだるく感じるが、強い眠気はもう残っていない。立ち上がった和彦は自分の体調を簡単に確認してから、客間を出る。
長嶺の本宅はいつも通りの朝を迎えていた。どこからともなく人の話し声と気配がして、一日の始まりらしい活気が伝わってくる。
気力も体力も使い果たして、自分の体の中が空っぽになったように感じていたが、ぼんやりと立ち尽くしていると、確かに満ちてくるものがある。
もし、賢吾によって本宅に連れてこられないままだったら、今ごろ広いベッドで目を覚まし、静かな寝室で一人、何を思っていただろうかと考えていた。
「――先生」
和彦を驚かせないようにという配慮か、抑えた声で呼ばれる。視線を上げると、本宅の台所を取り仕切っている笠野が立っていた。台所仕事の合間に来たらしく、エプロンをつけたままだ。
「様子が気になって、客間をちょっと覗かせてもらおうと思ったんですが、起きられていたんですね」
「ああ……。あまり悠長に寝てもいられない。クリニックもあるし」
笠野は一瞬、物言いたげな顔をしたが、すぐにいかつい顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「まだ時間もありますし、朝メシの前に、風呂に入ってさっぱりしませんか? すぐに準備させますから」
「いや、シャワーで済ませる」
「でしたら、着替えは脱衣所に置いておきますね」
頷いた和彦は、笠野に見送られながらシャワーを浴びに向かった。笠野は本宅に住み込んでいるので、昨夜の騒動を知らないはずはない。それでも、過剰な気遣いを表情に出さないのは、さすがというべきなのだろう。
頭と体を完全に目覚めさせるため、熱い湯を浴びる。目を閉じると、昨夜の出来事がめまぐるしく頭の中を駆け巡り、これからどうしようかと、途方に暮れたくなる。
夢の中で味わった苦痛に近い人恋しさが蘇り、胸が詰まった。それが、今の生活を失いたくないという強い実感へと繋がる。
おかげで、奮い立つというほど立派なものではないが、きっと自分は足掻き苦しむしかないのだろうなと、ささやかながら覚悟は決まった。せめて、今日一日ぐらいはきちんと生活できるように。明日どうするかは、明日決める。
シャワーを止めて風呂場を出た和彦は、ぎょっとして立ち尽くす。脱衣場に、賢吾がいた。
「な、に、して……」
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