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第39話
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声を洩らして、ゆっくりと瞬きをする。夕食後、入浴を済ませてから客間に入り、総和会から回ってきた書類に目を通していたのだが、堪らなく眠くなってきて、少しだけのつもりで横になったのだ。
体調が悪いわけではなく、単に昼間、クリニックが忙しかったせいだ。寒くなってきて、肌を露わにする機会がめっきり減ると、この間に肌のトラブルを解決しようという患者の数が増えてくる。もちろん、美容整形の施術目的の患者も訪れるため、朝から晩まで予約で埋まり、息つく暇もない。
忙しいと余計なことを考えなくて楽な部分もあるのだが、和彦の帰宅時間が遅くなると、少々機嫌が悪くなる男たちがいるのだ。
身を起こした和彦は、このときになって自分が寝汗をかいていることに気づく。布団もかけていなかったため、暑かったというわけではない。
ふっと息を吐き出して、夢見が悪かったなと、心の中で呟く。俊哉と対面してから、子供の頃の記憶が、やけに鮮やかに夢の中で蘇る。和彦にとっては、はっきりいって嬉しいことではない。強烈な恐怖と不安という感情に、いつも夢の中で足首を掴まれているようなのだ。
自分が抱えた秘密を賢吾と千尋に打ち明けて、何かが大きく変わったということはない。二人は相変わらず、和彦を大事に扱ってくれるし、それが過ぎて過保護なほどだが、それはいつものことだ。むしろ変わったのは、和彦のほうだろう。
佐伯家を捨てた自分というものを、漫然とながら考えるようになっていた。そして、そんな和彦を引き留め――咎めるように、子供の頃から積み重ねてきた俊哉とのやり取りを、夢に見てしまう。
これは父親に対する情の現れだろうかと考え、和彦は身を震わせる。怖かったからではなく、寝汗が引いて急に肌寒くなったからだ。
体にかけていた茶羽織に袖を通し、もそもそと這って布団の上から下りる。再び文机に向かう気にもなれず、だからといって買い込んで積んである本を読む気分でもなく、なんとなく客間を出ていた。
ダイニングでコーヒーを飲もうと思っていたが、廊下を歩いているうちに気が変わった。途中で会った組員に、賢吾が帰宅しているかを確認して、向かう先を変更する。
声をかけて部屋に入ると、寛いだ格好で賢吾が座卓につき、携帯電話を手にしていた。それを見た和彦は、慌てて部屋を出ようとする。
「電話中なら、あとで出直すっ……」
「かまわねーよ。メールの整理をしていただけだ」
賢吾に手招きされ、部屋に入り直す。傍らに座ると、すかさず肩に腕が回された。
「メシは食ったか、先生?」
「ああ。あんたは、帰りが遅かったみたいだが……」
「いつもの会食だ。最近、何かと誘いが多くてな」
どうしてだと、和彦が首を傾げて見せると、賢吾は答えず、表情を和らげる。そっと髪を撫でられた。
「寝てたのか?」
「……いや、仕事をしていた」
「そうか。寝ぼけたような顔をしていると思ったが、俺の気のせいか」
そう言う賢吾の声が、笑いを含んでいる。和彦はわずかに顔を熱くした。
「少し横になっていただけだ。ここのところクリニックが忙しくて」
「そんなに繁盛しなくていいと思っていたが、いざ、患者が来るようになると、金を出している身としては嬉しいもんだ。だが、忙しすぎるのは、どうだろうな。そのうち先生が、診察時間を伸ばして、土曜日の休みもなしにしたいと言い出すんじゃねーかと、少し心配しているんだが」
「勘弁してくれ。ぼくの身がもたない……」
「総和会のクリニックのほうもあるしな」
さらりと賢吾に言われて、咄嗟に言葉が出なかった。賢吾はこれまで、和彦が関わることになる総和会出資のクリニックについて、言及してきたことはない。和彦に言っても仕方ないと思っている部分もあるのだろう。また、和彦の知らないところで、賢吾と守光の間で何かしら話し合いが持たれているのかもしれないのだ。
「……その件で、資料をマンションのほうに置いてあるんだ」
「どこにあるか言ってくれれば、うちの人間に取りに行かせる」
そうではないと、和彦はじっと賢吾を見つめる。即座に、和彦が言いたいことを察したらしく、賢吾は唇の端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「先生はまじめだ。総和会のじじいのワガママなんざ、適当に聞き流せ。そういうところにつけ込まれて、なんやかんやと無理を押し付けられるんだ」
「できるわけない。もうすでに、人も金も動き出しているんだし――」
「だから、本宅でのんびりしていても、落ち着かないか? そろそろマンションに戻りたいと言いたいんだろう」
「まあ……、そういうことだ。十分甘えさせてもらって、落ち着いたし」
体調が悪いわけではなく、単に昼間、クリニックが忙しかったせいだ。寒くなってきて、肌を露わにする機会がめっきり減ると、この間に肌のトラブルを解決しようという患者の数が増えてくる。もちろん、美容整形の施術目的の患者も訪れるため、朝から晩まで予約で埋まり、息つく暇もない。
忙しいと余計なことを考えなくて楽な部分もあるのだが、和彦の帰宅時間が遅くなると、少々機嫌が悪くなる男たちがいるのだ。
身を起こした和彦は、このときになって自分が寝汗をかいていることに気づく。布団もかけていなかったため、暑かったというわけではない。
ふっと息を吐き出して、夢見が悪かったなと、心の中で呟く。俊哉と対面してから、子供の頃の記憶が、やけに鮮やかに夢の中で蘇る。和彦にとっては、はっきりいって嬉しいことではない。強烈な恐怖と不安という感情に、いつも夢の中で足首を掴まれているようなのだ。
自分が抱えた秘密を賢吾と千尋に打ち明けて、何かが大きく変わったということはない。二人は相変わらず、和彦を大事に扱ってくれるし、それが過ぎて過保護なほどだが、それはいつものことだ。むしろ変わったのは、和彦のほうだろう。
佐伯家を捨てた自分というものを、漫然とながら考えるようになっていた。そして、そんな和彦を引き留め――咎めるように、子供の頃から積み重ねてきた俊哉とのやり取りを、夢に見てしまう。
これは父親に対する情の現れだろうかと考え、和彦は身を震わせる。怖かったからではなく、寝汗が引いて急に肌寒くなったからだ。
体にかけていた茶羽織に袖を通し、もそもそと這って布団の上から下りる。再び文机に向かう気にもなれず、だからといって買い込んで積んである本を読む気分でもなく、なんとなく客間を出ていた。
ダイニングでコーヒーを飲もうと思っていたが、廊下を歩いているうちに気が変わった。途中で会った組員に、賢吾が帰宅しているかを確認して、向かう先を変更する。
声をかけて部屋に入ると、寛いだ格好で賢吾が座卓につき、携帯電話を手にしていた。それを見た和彦は、慌てて部屋を出ようとする。
「電話中なら、あとで出直すっ……」
「かまわねーよ。メールの整理をしていただけだ」
賢吾に手招きされ、部屋に入り直す。傍らに座ると、すかさず肩に腕が回された。
「メシは食ったか、先生?」
「ああ。あんたは、帰りが遅かったみたいだが……」
「いつもの会食だ。最近、何かと誘いが多くてな」
どうしてだと、和彦が首を傾げて見せると、賢吾は答えず、表情を和らげる。そっと髪を撫でられた。
「寝てたのか?」
「……いや、仕事をしていた」
「そうか。寝ぼけたような顔をしていると思ったが、俺の気のせいか」
そう言う賢吾の声が、笑いを含んでいる。和彦はわずかに顔を熱くした。
「少し横になっていただけだ。ここのところクリニックが忙しくて」
「そんなに繁盛しなくていいと思っていたが、いざ、患者が来るようになると、金を出している身としては嬉しいもんだ。だが、忙しすぎるのは、どうだろうな。そのうち先生が、診察時間を伸ばして、土曜日の休みもなしにしたいと言い出すんじゃねーかと、少し心配しているんだが」
「勘弁してくれ。ぼくの身がもたない……」
「総和会のクリニックのほうもあるしな」
さらりと賢吾に言われて、咄嗟に言葉が出なかった。賢吾はこれまで、和彦が関わることになる総和会出資のクリニックについて、言及してきたことはない。和彦に言っても仕方ないと思っている部分もあるのだろう。また、和彦の知らないところで、賢吾と守光の間で何かしら話し合いが持たれているのかもしれないのだ。
「……その件で、資料をマンションのほうに置いてあるんだ」
「どこにあるか言ってくれれば、うちの人間に取りに行かせる」
そうではないと、和彦はじっと賢吾を見つめる。即座に、和彦が言いたいことを察したらしく、賢吾は唇の端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「先生はまじめだ。総和会のじじいのワガママなんざ、適当に聞き流せ。そういうところにつけ込まれて、なんやかんやと無理を押し付けられるんだ」
「できるわけない。もうすでに、人も金も動き出しているんだし――」
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