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1巻

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   プロローグ 着ぐるみの救世主


 およそ六百年ほど前、大陸の北方にミゼルというさかえた国があった。国土の大部分が山という厳しい条件ながら、貴重な魔法石まほうせきが採れることを背景に、魔法大国として名をせていた。
 魔法石とは魔力や魔法そのものを閉じ込めて利用できる希少な鉱石だ。
 それまで魔法といえば修業を積んだ魔法使いだけが行使できるもので、一般の人間には縁がないものだった。ところが、この魔法石の発見と研究によって、石にあらかじめ魔法を仕込んでおけば、魔力を持たない者でも扱えることが明らかになったのだ。
 光の魔法を仕込んだ石さえあれば、簡単に明かりを得ることができる。火の魔法を閉じ込めた石があれば、燃料がなくてもいつでも火が使えた。魔法石は貴重で高価なものだったが、砕けさえしなければ何度でも繰り返し使える。
 人々はこぞって魔法石を求め、やがて国外へ広まるにつれて、この世界の人間の生活を大きく変えていくこととなった。
 産出国であるミゼルの名は大陸中にとどろき、弱小国から並ぶものなき強国へと一気に変化をげた。
 魔法大国と呼ばれ、大陸で一番豊かでさかえていたミゼル。その栄光は長く続くかと思われた。
 だが、今から六百年前、ミゼルはあっという間に滅んでしまった。――謎の生物マゴスによって。
 ミゼル国の名は大陸史から消滅し、今となっては旧ミゼル国の一部を併合したファンデロー国のとりでの名に名残なごりがあるだけだった。
 ファンデロー国の最北端にある「ミゼルのとりで」。
 マゴスによって滅ぼされた国の名を冠するとりでは、かの生物との戦いの最前線になっている。
 人類の存亡をかけた戦いは壮絶さを極め、幾度となくとりでが破壊され、街や人々は蹂躙じゅうりんされた。だがそのたびに人類は「来訪者」と呼ばれる者たちの力を借りて、マゴスを退しりぞけてきたのだ。
 そして今、五十年に一度といわれるマゴスの襲来期が再び訪れていた。


 この物語は、のちに「マゴスからこの世界を救った救世主」と称されることになる着ぐるみ姿の女性が、ミゼルのとりで近くの街に降り立った時から始まる――


     * * * 


 ファンデロー国の最北端にある城塞じょうさい都市セノウはにぎやかな街だ。
 山間部に位置しながら、これだけ人口が多いのは、貴重な魔法鉱石の取引拠点だからというだけではない。マゴスの侵入を防ぐために作られた北のとりでにほど近く、国境警備団の運営本部のお膝元ひざもとでもあるからだ。
 毎日のようにとりでに向けて人や物資が運ばれ、一方では王都や周辺都市から必要な物資がセノウの街に運び込まれている。物が多く集まると人の出入りがさかんになるのは当然の流れだ。
 そのように普段は活気あふれるセノウの街も、マゴスの侵攻が始まったことで、閑散かんさんとしていた時期がある。だが「救世主」の噂を聞いて人々が街に戻り、今ではかつてのにぎわいを取り戻していた。
 街の中心にある国境警備団の建物からまっすぐ正門まで続く石畳のストリートには、店や露天商が並び、多くの買い物客でにぎわっている。
 そのメインストリートを人々の注目を浴びながら、二人の女性が仲良く連れ立って歩いていた。買い物を楽しんでいる様子で、手提げのかごからは果物らしきものが見え隠れしている。
 女性のうちの片方は、街の住人の誰もがよく知るミリヤムだ。国境警備団の総団長セルヴェスタン・ロードの一人娘で、金髪碧眼へきがんの美少女である。
 貴族出身のミリヤムは本来だったら平民には近づくこともできない高嶺たかねの花だが、気さくな性格で男性のみならず女性からも好かれていた。彼女が注目を浴びるのは当然と言える。
 だが、人々の視線はミリヤムではなく、その隣を歩くピンク色のワンピースを着た女性に向けられていた。

「な、なんじゃありゃ?」

 久しぶりにセノウを訪れたとある商人は、その女性を目撃し、あんぐりと口を開けた。彼の視線の先をミリヤムと談笑だんしょうしながら女性が通り過ぎていく。商人は振り返って馴染なじみの店主に尋ねた。

「店主、店主、ちょっとあれ見てくれ」
「ん? ありゃ、透湖とうこちゃんじゃないか。ミリヤム嬢と仲良く買い物だな。やっぱり若い子はいいねぇ」

 初老の店主が二人の後ろ姿を見て微笑んだ。その反応に商人は困惑する。

「い、いや、店主、そうじゃなくて、あれおかしいだろ?」

 商人が驚くのも無理はないだろう。その女性の顔は変な被り物ですっぽりとおおわれていたのだから。
 ゴツゴツした岩のような頭部、黄緑色のギョロッとした目、大きな口から覗く鋭い歯。商人はその造形に見覚えがあった。

「マゴスの幼体そっくりじゃねえか。なんだ、あの悪趣味な被り物は」
「そうか、お前さんは半年ぶりにセノウに来たから知らんのだな」

 店主は訳知り顔でうなずいた。

「お前さんが半年ぶりにここに来たのも、救世主が現れてマゴスの脅威がなくなったと聞いたからだろう?」
「あ、ああ。『来訪者』がとりでを襲うマゴスをかたっぱしからやっつけてくれるから、以前と同じように活気づいていると聞いてな。……まさか」

 言いながらあることに気づいて商人は目を見開く。

「まさかあの被り物をした女性が、その『来訪者』……救世主だと?」
「ああ、その通りだとも」

 店主はにんまり笑い、得意げに続けた。

「彼女こそ、マゴスの脅威にさらされた我々のもとに、神が遣わしてくださった救世主様さ! マゴスをバタバタと倒してくれるんだ。とりでが襲われるたびに何十人も犠牲を出して、なんとか追い払っていたあのマゴスをだぞ。彼女のおかげでこの三か月間、国境警備団の兵士に犠牲者は一人も出ておらん。街に明るさと活気が戻ってきたのも彼女のおかげだ。それまでは葬式ばかりが続いて、街全体が沈んでいたからな。まさに救世主だろう?」
「だ、だが、その救世主がなぜマゴスの被り物なんて……」
「分かってないな。あの被り物が重要なんだよ。大丈夫、中身は可愛らしい普通の女の子さ。人間のな。おっと、聞くより見た方が早いだろう。おーい、透湖ちゃん、ミリヤム嬢!」

 店主が声をかけると、女性二人が足を止めて振り向いた。

「あら、ロンジ」

 最初に店主に気づいたのはミリヤムだ。遅れて被り物をした女性も気づく。

「こんにちは、ロンジさん」
「二人とも、この商人が都から珍しい品物を持ってきてくれたんだ。見ていってくれ」
「へぇ、都からの珍しいものですって? 透湖、見てみましょうよ」

 興味をかれた二人がやってくる。
 近くで見ると、被り物をした女性はますます怪しく思えた。何しろその被り物が恐ろしく精巧に作られているのだ。だが、店主も周辺の人々も慣れているようで、二人を微笑ましげに見ている。

「都から来た珍しいものってなんですか、ロンジさん」

 マスク越しに聞こえた声は、女性らしい柔らかな響きだ。普通、被り物をしていたらくぐもって聞こえるはずなのに、彼女の声はとてもクリアだった。

「これだよ、これ。南の方で今しか採れない果物なんだ」
「あら、グリアじゃない」

 貴族のミリヤムは珍しい果物の名前をすぐに言い当てる。

「これ、都の王侯貴族にとても人気がある果物なのよ。まさかセノウでも見られるなんて!」
「ミリヤム嬢ちゃんの言う通り、このグリアは都の王侯貴族に人気で、なかなか北部には出回らない代物しろものなんだ。いたみやすいしな。だが、この商人が魔法石に氷の魔力を込めて鮮度を保ったまま運んでくれたんだ」
「……パイナップルグリアに似ているわ」

 被り物をした女性がグリアを見ながらポツリとつぶやく。グリアなのだから似ているも何もないだろうと商人は眉を寄せたが、ミリヤムと店主には女性の言いたいことが分かったらしい。

「ほう、透湖ちゃんの世界にもグリアに似た果物があるのかね?」
「そういえば、食物の体系は似通っているって言っていたわね」
「ええ。こっちの単語に変換されちゃうから伝えられないのがもどかしいけれど、すごくよく似た果物があるの。見た目がそっくりだから、たぶん味も似ていると思うわ」
「それじゃ、確認するために買ってみましょうよ。ロンジ、そのグリアを一つもらうわ」
「そうこなくっちゃ」

 店主は破顔はがんすると、グリアを大きな紙で包み始めた。ミリヤムが支払いをしている間、女性は店先の品物を覗いていたが、怪訝けげんそうな商人の視線に気づいて背筋を伸ばした。

「商人さんはセノウに来たのは久しぶりなんですか? 失礼ですが、私と会うのは初めて……ですよね?」

 急に話しかけられて、商人は戸惑いながらもなんとかうなずく。女性の丁寧な言葉づかいを聞いて、自分のぶしつけな態度をなんとなく恥じていた。

「あ、ああ。そうだ。久しぶりなんだ。……その、じろじろ見ちまってすまないな。どうも、こう、身構えちまって……」
「いえいえ。街の人たちが私の姿にすっかり慣れてくれたこともあって、ちょっと失念していました。びっくりするのは当然だと思います。でもこんなナリはしていても、ちゃんと人間ですから」

 言いながら女性は被り物に両手を添えて、すぽっと上に持ち上げた。

「あ……!」

 商人は驚きの声をあげる。被り物の中から、黒髪と黒目をした童顔の女性が現れたからだ。自分たちとは異なる顔だちだが、確かに人間だった。
 しかも、思ったよりも子どもだ。そのことに戸惑い、目を何度もしばたたかせる商人に、女性はにっこり笑った。

『初めまして、梶原かじわら透湖といいます』
「へ?」

 商人には女性の言葉がまったく分からなかった。
 女性は苦笑すると、被り物を元に戻し、顔をすっぽりおおって再び言う。

「私の国の言葉で『初めまして、梶原透湖です』って言ったんです。今もさっきと同じニホンゴをしゃべっているんですけど、ちゃんと通じていると思います。どうですか?」

 被り物を通して聞こえてくる言葉は、商人と同じ流暢りゅうちょうなファンデロー語だった。

「あ、ああ、大丈夫だ。通じている」
「そう。よかった。つまりですね、このマスクが私の言葉をこっちの言葉に変換し、逆にみんなの言葉も私に分かるように自動翻訳してくれているんです。だから、私はこのマスクを通さないとこっちの言葉がしゃべれないし、みんなが何を言っているのか分からないんですよ。このマスクを常に被っているのは、そういうわけなんです。すごく変ですよね。自分でも分かっています……でも! 好きで被っているわけではないので、そこのところよろしくお願いします!」
「あ、ああ」

 マスクから元気よく繰り出される言葉に押されて、商人は思わずうなずいていた。二人のやりとりを聞いていたミリヤムがくすくす笑う。

「あなたもすぐに慣れるわよ。この街のみんなは今ではすっかり慣れているもの。セノウだけじゃないわ。近隣の街から透湖を見にわざわざやってくる人もいるのよ」
「そんなに……」

 商人がつぶやく。透湖に向ける目は奇異なものを見るような目ではなくなっていた。代わりに浮かんでいるのは好奇心で、どこか値踏みをするような眼差しだった。
 なんとなく嫌な予感を覚えたのか、透湖はミリヤムをうながす。

「ミリヤム、そろそろおいとましましょう。まだ買い物の途中だし」
「そうね。じゃあ、私たちそろそろ行くわ。商人さん、それにロンジ」
「おう、寄ってくれてありがとうよ。透湖ちゃん、ミリヤム嬢。グリアを食べたら、ぜひ感想を聞かせてくれ」
「ええ、必ず。またね、ロンジさん」

 買ったグリアを手提げのかごに入れると、透湖たちは店を後にした。
 透湖たちの後ろ姿を見送った店主は、考え事をしている商人に声をかける。

「また何か思いついたようだな、あんた」

 長い付き合いのある店主は、商人が品物の売買だけでなく、新しい商品の開発まで手広くおこなっていることを知っていた。
 商人は、目をキラキラさせながら何度もうなずく。

「ああ、これはいける。いけるぜ店主。絶対にヒットすること間違いなしだ!」

 ――この出会いから数か月後、透湖の被っているマスクのレプリカが「救世主のお守り」として発売され、爆発的にヒットすることを、この時の彼女たちは知るよしもなかった。



   第一章 異世界トリップは着ぐるみとともに


 ロンジの店を出た透湖は、メインストリートを歩きながらぼやいた。

「救世主とか、恥ずかしすぎる……。そんなたいそうなものじゃないのに」

 実はロンジの店を最初に通りかかった時に、彼と商人がしていた話は透湖たちの耳にもしっかりと届いていたのだ。
 ロンジの声が、本人が思っている以上に大きいせいである。

「あら、救世主なのは本当のことでしょ?」

 ミリヤムが悪戯いたずらっぽく笑った。

「ロンジが言っていたように、透湖のおかげで兵士にほとんど犠牲が出なくなったし、街にも活気が戻ってきたんだから。この街にとって透湖は救世主なのよ」

 透湖は慌てて手を振って否定した。

「よしてよ、ミリヤムまで。そりゃあ、確かにマゴス相手に無双しているけど、私は何もしていないんだから。全部この着ぐるみがやってるの。チートなのは着ぐるみで、私は添え物! この怪獣のマスクがなければ、みんなと言葉も交わせないんだからね」

 そうなのだ。ロンジをはじめとしたセノウの街の住人は、マゴスを次々と退治する透湖に感謝してくれるが、彼女はほとんど何もやっていない。
 ――「口から炎」とか、「目からビーム」とか叫んでいるだけだものね……
 これが自分自身の力だったら、められてまんざらでもなかったかもしれない。けれど、自分が無力であることを誰よりも知っている透湖にとって、賞賛されるのは居心地が悪いだけだった。

「でも、その着ぐるみの力は透湖じゃないと発揮されないんだから、やっぱりあなたの手柄だと思うわよ。着ぐるみと透湖はセットなんだし」
「それは……そうだけど……」

「来訪者」が持っているとされる不思議な力が宿っているのも、学ばずして言葉が分かるという恩恵を受けているのも、全部着ぐるみだ。だが、そのチート力が発揮されるのは「中の人」が透湖である時に限られていた。
 つまりチートな着ぐるみは透湖が被っていなければ発動しない。だからこそ救世主は透湖である、とミリヤムは言いたいのだろう。
 ――でも、違うんだよなぁ……。虎のを借る狐……とは少し違うけど、今の私はそれに近い感じだわ。他者の力を借りているだけなのに、「救世主」だなんて。
 マスクの下でため息をつき、透湖は空を見上げた。
 雲一つない、青く澄み渡った空が頭上に広がっている。
 ――こうして空だけ見ていると、違う世界にいるだなんて思えないわね。
 けれど、透湖の世界にはマゴスなんていないし、魔法も魔法石も存在しない。ここは確かに異世界なのだ。
 この国では、世界を渡って落ちてきた者を「来訪者」と呼ぶ。
 透湖はその「来訪者」であり、ちょうど三か月前、着ぐるみ姿のままこの世界に落ちてきた。
 ――違うわ。落ちてきたんじゃなくて、気づいたらこの世界にいたのだわ。
 とある地方大学に通う、普通の学生に過ぎなかった透湖が、なぜ着ぐるみ姿で違う世界にまぎれ込んでしまったのか。
 これまで何千回も考えたし、今でも毎朝目を覚ますたびに自問するが、答えはいつも同じだ。

「……どう考えても渡辺わたなべのせいだよね」

 透湖はため息とともに、三か月前のことを思い出していた。


     * * *


「もう、本当に申し訳ないっす先輩。俺、一生恩に着ます!」

 着ぐるみのマスクを手に取った透湖に、後輩の渡辺哲也てつやが何度繰り返したか分からない台詞せりふを口にする。

「一生なんて大げさね。その足が治ったら焼肉でもおごってくれればいいわよ」

 鷹揚おうように応じてから、透湖は包帯でグルグル巻きにされた渡辺の足をちらりと見る。
 その足はギプスで固められ、松葉杖まつばづえなしには歩けないのだという。


 ――これじゃ、着ぐるみのバイトを再開できるのはいつになるのかしらね。
 しばらくの間、彼がバイトどころか日常生活にも不自由することは確実で、透湖は大いに同情していた。だからこそ、彼の代役として着ぐるみを身に着けて、これからおこなわれるヒーローショーの悪役として舞台に立つことを承諾しょうだくしたのだ。
 透湖が通う大学のある街では、この週末、地域振興フェスティバルがもよおされていた。
 駅前の商店街ではセールがおこなわれ、街のふれあい広場には特産物を売る露店や食べ物の屋台が立ち並び、住人や近隣の街から訪れる人でにぎわっている。
 渡辺が着ぐるみで出る予定だったヒーローショーは、この地域振興フェスティバルの目玉の一つだ。
 もっとも、出演するのはテレビに出るほど有名なヒーローではなく、いわゆるご当地ヒーローというやつだ。平和をおびやかす敵から街を守るため、そして街のPRのために日夜戦っている五人のヒーローが主役なのである。
 街のイベントには必ず出演して場を盛り上げてくれるので、それなりに人気もあるらしく、昨日の土曜日におこなわれたショーには親子連れが多く訪れたらしい。
 盛況のうちに一日三回の公演を終え、さらに本日のショーもあと一つを残すところまでは何事もなく順調に進んでいた。
 ところが二回目のショーが終わった直後、怪獣の着ぐるみを脱いで休憩に入ろうとした渡辺がアクシデントに見舞われた。大道具の人が階段の踊り場に置いておいた荷物に足を引っかけ、階段から転げ落ちて怪我をしたのだ。
 幸いなことに骨は折れておらず、近くの病院ですぐ処置をしてもらい、渡辺は会場に戻ってきた。
 しかし低予算でやっているためスタッフは最小限しかおらず、代役をこなせる者もいなかった。スーツアクター――いわゆる「中の人」を派遣する会社に連絡して代役を頼むという案も出たが、今から依頼したところで三回目のショーには間に合わない。
 みんなが困り果てていたところに、偶然顔を出したのが透湖だった。
 可愛い後輩が出演するヒーローショーを見ようと、急に思い立って足を運んだのが運の尽き……と、この日の行動を心底後悔することになるのだが、後の祭りというものだろう。

『あああ、透湖先輩、いいところに来てくれたっす!! 先輩、前にスーツアクターをやったことがあるって言ってましたよね? 一生のお願いです! この着ぐるみを着て舞台に出てほしいんっす!』

 確かに透湖は以前、数回だけ着ぐるみのバイトをした経験がある。それを渡辺に言ったことも覚えている。
 ――でもまさか、こんなことになろうとは。
 渡辺にとって透湖の来訪は、まさに渡りに船だったことだろう。着ぐるみの経験者で、体格も渡辺と似通っているのだから。

『お願いします、透湖先輩! 今日の公演の成否は先輩にかかっているんです!』
『お願いします、哲也の先輩! あなただけが頼りなんです!』

 渡辺だけではなく、スタッフ総出で代役を懇願こんがんされては、拒めるはずもなかった。
 ――まぁ、いいか。せっかくショーを見に来た子どもたちを、がっかりさせたくないし。
 なかあきらめの境地となり、ステージの裏側でスタッフの一人と渡辺の手を借りながら支度を開始して――今に至る。

「焼肉っすね! 絶対おごります! なんなら今日でもいいっすよ!」

 意気込んで言う渡辺を、透湖は苦笑しながら落ち着かせた。

「怪我した日くらい、安静にしてなさいよ。それより、確か渡辺も一人暮らしよね? その足で生活できるの? 家族に連絡取った方がいいんじゃない?」

 とある地方の、一流でも三流でもない、いわゆる中堅と言われる大学に通っている透湖たち。
 学年も学部も違う二人の接点は「幻想文学研究室」というゼミだ。研究室と銘打めいうってはいるが、要するに自分の好きな小説を読み、感想を言い合ったりしているだけの趣味の集まりである。
 透湖は偶然ふらりと立ち寄ったゼミが気に入って、そのまま所属した。そこに一年遅れて入ってきたのが、この渡辺哲也というわけだ。
 SF小説が好きだという渡辺と、SFからミステリー、はてはライトノベルにまで手を出す雑食の透湖。好みは多少違えど、なぜかウマが合い、小説以外のことまでよく話すようになった。
 渡辺は明るくて人懐ひとなつこい性格のため、透湖もつい色々と世話を焼いてしまう。ただし……

「生活っすか? 移動が少し面倒だけど、生きていくのに支障ないっす。わざわざ実家に連絡しなくても大丈夫っすよ」

 明るく笑いながら、渡辺は透湖の提案を拒否した。
 これだけ気さくなのに、渡辺は決して家族のことを口にしない。そのことに透湖は気づいていた。きっと何か理由があるのだろう。
 それに気づけたのは、透湖自身も家族のことを話したくない理由があるからだ。だからこそ、透湖と渡辺は気が合うのかもしれない。

「そろそろ開演時間が近いっすね」

 腕時計を確認して渡辺が言った。

「先輩、さっきも言いましたけど、先輩が声を出したりする必要はないっす。録音された音に合わせて先輩がやることは、歩く、暴れる、ヒーローに倒されたふりをして舞台に横たわる、の三つだけっす。ただ、立ち位置は重要っす」
「う、うん。さっき舞台の上で確認しておいたわ。でも、マスク被っちゃうと感覚もずれるからなぁ……」

 正直自信がない。
 以前にやった着ぐるみは、キャンペーンのために作られた認知度の低いゆるキャラで、チラシを配る人のかたわらで手を振ったり、人と握手したりするだけ。演技もほとんど必要なかったのだ。
 ――やっぱり私には荷が重いんじゃ……

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