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嫌がらせ

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「はー、はー」
「?」
 すると背後から同じく荒い呼吸が聞こえてきた。
 嫌な予感がしたクティーは、恐る恐る背後を振り返ると、そこにはさきほどの少年と青年が座り込んでいた。

「なかなか足が速いんですね。驚きました」
 クティーと目が合った少年は、ニコリと微笑んだ。
「な、どうして?」
 明らかに市場とは正反対の宿屋を目指していたはずなのに、どうして自分の後を追って来たのか? 二人の行動に戸惑うクティー。

「何か市場で買い物でもあったんですか?」
「いいえ」
 少年は首を横に振ると、腰のあたりを払って立ち上がった。
「この機会に『世界一美味しいカレー』の中身を見学させて頂こうかと」
 全く想像していなかった答えに、クティーは何とも返事ができなかった。
(何? この坊ちゃん、世間勉強の旅の途中、とか?)
 クティーの脳内では、たちまち疑問でいっぱいになってしまった。
 それほど目の前の少年が、クティーの予想を裏切る行動と言葉であふれていたからだ。

「えーっと、確か一般的にカレーに使われる香辛料は、ガラムマサラ、コリアンダー、クミン、ターメリック、カルダモン、シナモン、クローブ、ローリエ、パプリカ、チリ、ブラックペッパー、ローレル、シナモン、メースなどなどだったと思うのですけど、他にも何か特別なものでもあるんですか?」
「詳しいんですね。坊ちゃんは、カレーをお作りになったことが?」
「いいえ。作り方の本を読んだだけです。でも本物の料理人のレシピは少し違うんでしょう? 何を入れるんですか?」
 少年は興味津々の瞳でクティーを覗き込んでくる。あまりに無防備なオレンジ色の瞳に思わずクティーは、吸い込まれそうになってしまった。

「いい加減にしてください! これ以上私に関わらないで下さい! 今日の仕入れの時間がなくなってしまうんで、これで」
 ぞんざいに少年に頭を下げると、市場の入り口から中央通路を真っ直ぐ走って行き、香辛料専門の店が並ぶ辺りへと向かった。

「クティー、どこで油を売ってたんだ!」
「俺たちはもう終わっちまったぞ! 後は仕入れた食材を店に運んできてもらうだけだ」
「すみません!」
 思った通りクティー以外の料理人たちは、あらかた仕入れを終えていた。

 クティーも素早く背負っていた袋から小さな紙片と、香辛料を入れる真鍮しんちゅうの器を取りだした。
 紙片には、今日仕入れたい香辛料や食材を記しておいたのだ。
「今日は、これとこれと……」
 香辛料の店の親父に、紙片を見ながら素早く指で示していく。
「クティー、今日のメインはいつものか?」
「はい。鶏肉のカレーです。鶏肉を仕入れてから帰りますので」
「いやそれなら大丈夫だ。俺のメインも今日は鶏肉料理だ。多めに仕入れたからそれを使うといい。じゃあお前の仕入れはここで終わりだな?」
 強めに念押しされて、クティーは頷くしかなかった。

(あっちも鶏か。今日はついてないな。ったく、あの坊ちゃんのせいだよ)
 心の中でため息をつきながら、仕入れた香辛料を入れた真鍮の器の蓋を閉めて、丁寧に袋に入れる。

 クティーのカレーのメニューは、基本は朝食が豆や野菜のカレー、そして夕食は鶏肉のカレーだ。これは祖母が生きていた頃から変わらないのだが、昼食の場合などは、食堂に客からの注文があれば、朝のカレーを出したり、早めに作った夕食用のカレーか、良い海産物が手に入ったら、海産物がメインのカレーを出したりしていた。

 だから、尋ねなくとも夕食は鶏肉カレーというのは、宿屋の食堂で働いている誰もが知っていることだった。
 しかし、何日かに一度は、メインの料理が鶏肉料理でかぶってしまうことがあるのだ。
 その時だけは、クティーが仕入れる前にクティーの分も仕入れてやったと、クティーに直接鶏肉を仕入れさせてはくれない。
 それはなぜか?
 ただの『同じものをメインにするから』という親切心ではない。
 
 クティーのため息の理由。
 それは、鶏肉の良い部位は全て持って行かれてしまうからだった。クティーに回ってくるのは、骨とそこについたわずかな肉片だけなのだ。
 この時ばかりは、鶏の旨味は出せても、カレーのメインとなる肉のかたまりがないので客から文句がでるのだ。
 
 クティーは、のろのろと先輩料理人たちの後を歩いて行った。
(今日はどうしようかなあ? 肉の代わりに何をメインにしようかな? この前は、じゃがいもにしたし、その前は……)
 何か鶏肉の代用品に出来ないものか。
 クティーは食堂の裏手の貯蔵庫にあった食材を思い浮かべながら、メインのことを考えていた。
 
 何と言っても祖母のカレーの評判を台無しにしたくはなかった。
 今までもこういった嫌がらせはあったが、そのたびに何とか乗り切ってきた。
 しかし、どうしても出来栄えが劣ってしまうのだ。

 先輩たちは表立っては嫌がらせはしない。なぜなら、カレーを食堂の大事な看板メニューと考えている主人の怒りを買ってしまうからだ。
 だから、カレーを作らせてはくれるが、自分たちが作る料理よりも劣るような手段を何度もとってくるのだ。そして、いつかカレーが看板メニューから外されてクティーが追い出されることを願っているのだ。

 そういう先輩たちからの料理に対する嫌がらせもあれば、宿屋の主人の女房と食堂の女将からは、クティーが進んで出ていくようにと、幼い頃は養女の口を祖母に申し込んでいたのだが、祖母が亡くなってからはあからさまに縁談の話を勧めてくるようになり、祖母の喪が明け次第、とうとう正式に縁談をまとめて追い出す計画が整ったらしい。
 しかも、クティーのカレーの味を認めてくれている宿屋の主人も知らないことなのだ。全ては女たちが決めたこと。
 当然ながらクティー本人は承諾した覚えはない。
 
 祖母の喪が明ければ、婚礼前日に荷物をまとめ、夜明け前に迎えの馬車に乗って山一つ越えた隣国・ダルシャナ王国の商家へ嫁ぐことになったらしい。そしてそれと引き換えに女たちの元には、多額の支度金が入り込むという算段なのだ。
 つまりクティーが、ここでカレーを作れるのもあとわずかということなのだが。
(それなのに…)
 納得のいかない材料で納得できない味のカレーを作らなければならない。まずいものを作る回数は、亡くなった祖母の名誉のためにも減らしたいのに、最近は、ことあるごとに足を引っ張られていた。
 これも、クティーのカレーの評判をおとしめて、少しでも追い出しやすくするためなのだろう。

 そんな悪意のような意思が透けてみえるだけに、クティーは隙を見せないように頑張っていたのだが今日はあの少年のせいで負けてしまった。
(全く! 今度会ったら絶対ぶん殴ってやる)
 物騒なことを考えているうちに宿屋に帰りついた。

 宿屋の裏の使用人用の門をくぐったところで、なぜか普段は絶対にいないはずの主人がクティーを待っていた。
「クティー、やっと戻ったな。待っていたぞ」
 宿屋の主人が妙に優しい声でクティーを手招きした。
「申し訳ございません。仕入れに手間取りまして……」
 叱られる前触れだと思って、恐る恐る主人に頭を下げる。

「そんなことはどうでもいい。実は、お前のことを今日お着きになられたお客さまが待っておられるのだ」
 主人はクティーの詫びを軽く手を振って遮ると、クティーの細い肩に手をかけ抱き寄せてきた。
「お客さま、ですか?」
「そうだ。すぐに一階の奥の部屋へ行きなさい。今日の夕食は遅れても構わん」
 クティーの耳元に小声でそう用件を伝えると、返事も聞かずに主人は軽い足取りで自室へ戻っていった。
「何が何だか?」
 クティーは手早く裏にある食料貯蔵庫に仕入れたものを片付けてくると、主人の言われた通りの部屋を訪ねた。

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