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旅立ちの依頼
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ふと、扉の前に立ったクティーの背中に寒気が走った。
(何だか、とっても嫌な予感がする)
首を振って深呼吸をひとつすると、軽く扉を叩いた。
「すみません、お呼び立てされたクティーと申しますが」
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
返事と同時に扉が内側から開かれた。
(やっぱり!)
部屋からクティーを招いたのは、仕入れに行く道中で出会ったあの少年だった。
その背後には、当然のことながら付き人の青年もいた。
「ひょっとして、やっぱりって思ってます?」
少年は先ほどと変わらず、ニコニコ微笑みながらクティーを自分の向かいの椅子に引っ張って行き、そのまま座らせた。
そして、青年の介添えを受けながら、花の香りのするお茶まで淹れてくれた。
「こちらもどうぞ。私たちは、あまり甘い物は食べませんから」
青年が宿泊客に提供されている焼き菓子を皿ごとクティーの前に置いてくれた。
「先ほどは、不愛想な案内ですみませんでした。ちゃんとたどりつかれたんですね」
クティーは一度、椅子から立ち上がって頭を下げた。
どんな人間であれ、この二人が宿屋のお客様となったことは事実だった。
自分のせいで宿屋の評判を落とすことは避けたかったから、クティーは素直に謝ったのだ。
「あの、それでご用は何でしょうか?」
今まで誰かにお茶を出されたり、お菓子を出されたりと、かいがいしく世話を焼かれたことのなかったクティーは、どうにも居心地が悪そうな顔をしながら尋ねた。
さっさと用を済ませて夕食のカレーの下ごしらえをして、仮眠をとりたいのだ。
このままでは不眠不休の苦しい状態となってしまうことが予想できる。
「お呼び立てして申し訳ありません。用件は二点、いや三点あります」
少年は右手の指を二本立てた後、すぐに三本目を立てた。
「早速、お願いします。私、夕食の仕込みがありますので」
「はい。それではまず一点目。はじめまして、私はダルシャナ王国の商人でシャストラと申します。実はあなたの婚約者です。あなたがどこかに嫁がされたり、身売りされたりするのを防ぐために、このたび強引に婚約まで話を進めてしまいました。申し訳ありません」
シャストラと名乗った少年はクティーに丁寧に頭を下げた。
「え? あなたが私の婚約者? だって、同い年くらいにしか見えないんですけど?」
このドラヴィダ王国や近隣の国々では、女性は十三歳で成人したとみなされて、それと同時に結婚できるとされ、主に二十歳になる前に結婚するのが普通であった。
だから、クティーに縁談話が持ち込まれたのだが。
しかし、男性は十六歳で成人したとみなされて、そこから徐々に結婚していくのだ。
どう見ても目の前の少年は、十六歳には見えない。
「ええそうです。本当はあなたより少し年下の十四歳です。でも、もうすぐ十五歳になるんですよ。ですから、少しだけ嘘をつきました」
「少し?」
年齢を偽るのは、少し程度の嘘ではない。
仲介した人物や当人などにばれれば、破談になりかねないのだから。
そもそも、成人ではない者との結婚などありえないのだ。
「本当は、代わりに成人している私ではどうですか? とも提案をさせて頂いたのでございますが、シャストラさまに断られました」
背後に控えていた青年が柔らかく微笑んだ。
「ああ、これは失礼いたしました。私は、グラハと申します。母がシャストラさまの乳母だったご縁で、従者兼護衛の仕事をしております」
「は、はあ。どうも」
主も主なら、従者も従者だ。どちらも品行方正で立ち居振る舞いは、商人というよりも貴族のお坊ちゃんとその側仕えと言ったところだ。
「それで、二点目は?」
一点目が自己紹介。なら二点目からは何か重要な話なのだろう。
「二点目は、すぐにでもあなたを連れてダルシャナへ行こうと思うのですが、寄り道しながら帰国するつもりですので少し時間がかかります」
「そんな急に! 無理です!」
クティーは全力で首を横に振った。
ありえない。今夜のカレーのこともあるし、何より荷作りなど全く出来てはいない。
「急すぎます!」
祖母の喪明けが二か月後だから、まだもう少し猶予があると思っていたのに。
「急なのは百も承知です。しかし、僕は別に結婚を急いでいるわけではありません」
「じゃあ何ですか?」
「でも、今じゃないとダメなんです。あなたを連れ出す機会は今しかありません」
「どうしてですか?」
「もしかしたら、もうすぐこの町は国家同士の争いに巻き込まれてしまうかもしれません。そうなってからでは、ゆっくりあなたを探すことなどできないし、あなたを連れて無傷で脱出することも出来なくなってしまうでしょう」
言われたことが大きすぎてクティーには、いまいちピンとこない。
確かに国同士の争乱ともなれば、クティーの暮らしの基盤となっているこの宿屋もどうなってしまうかわからない。
しかし、何だかんだ言いながら上手く皆と一緒に避難すればいい。
そして、避難先で屋台でも出して、またカレーを作って売ればいいだけの話だ。
なんとか生活できるだろう。
所詮、庶民にお偉い方々の争いなどは良くわからないことなのだ。
「私は、あなたを探していたのです。どうしてもあなたでなければならないからです」
熱烈に言われて面食らうクティー。
「毎日、美味しいカレーが食べたい、とかですか?」
「違います」
冗談のつもりで尋ねたクティーに、シャストラは真顔で否定した。
「三点目。あなたにはカレー作り以外にもう一つ、お祖母さまから教わったことがあるはずです。神の力を引き出す技を」
「どうしてそれを……」
血の気が引いた。今の今まで世間には、カレーとナン作りしか取り得がない娘だと思われていたクティーだったが、実は、もう一つ祖母から受け継いだものがあったのだ。
周囲の誰にも見せなかった技、というより力が。
「世界中を旅しながら、私はあなたのような人を探しているのです。そして私の元へ招いています。実は、このたびの婚約の話もあなたを我が家に招くための方便なんですけどね。あ、がっかりされました?」
「いえ」
「まあ実際、あなたに出会って、このまま結婚までしてしまってもかまわないかも? とは思ってますけど」
「シャストラさま、女性に対して失礼ですよ」
シャストラの軽口も、グラハが主を諌める言葉も、クティーの耳には届いていないようだった。
「それで、私の力を何に利用されるのですか?」
声も重ねた手も震えている。
祖母の一族は、その力ゆえにドラヴィダの何代か前の王に滅ぼされてしまったのだ。
滅ぼされた当初は、ドラヴィダの王家に一矢報いるということが生き残った一族の使命となった。
しかし、それもなかなか難しいことがわかると、一族の灯を絶やさないことを絶対としたのだ。
だから、祖母はたった一人残していく孫娘のことをかなり心配していた。
一族のことも力のことも、絶対に誰にも言ってはいけない。表立ってはよほどのことがない限り、力を使ってもいけないと言われていた。
だから口伝でしか伝わってこなかった一族のことを、どうしてただの商人の坊ちゃんが知っているのだろう?
いや、坊ちゃんは商人の息子と言いながらも、実はどこかの王族や貴族だったりして、国家間や国内の覇権争いに手を貸せと言われるのだろうか?
そういう国同士の争乱に巻き込まれることを嫌ったために、かつてのドラヴィダ王に一族は滅ぼされてしまったのだ。
「大丈夫です」
クティーの手にシャストラは己の手を重ねた。
「あなたの力を何らかの争いに利用しようなどとは思っていません。ただ、古の神の力を持つ一族が流浪したら、保護するのが歴代の私の家の役目なものですから」
「保護、ですか?」
「はい。保護して、決して絶やさないようにするためです。絶えてしまえば、もう二度とその神の力を引き出すことは出来ませんからね。でも、あなたに無理やり力を貸せとは、決して言いません。お約束いたします。ですから、どうか私と共にダルシャナへ来て下さい」
シャストラの手がクティーの両手を優しく包み込む。
年下ではあるが、さすがに男性と言うべきか、薄い手のひらに見えて、その指の根元には武骨な剣ダコができている。
相当に剣の練習もしているのだろう。
「あなたは一体何者なのですか? 本当にダルシャナ王国の商人なのですか?」
クティーの問いかけに、シャストラはただ薄く笑った。
「私のことはいずれお話します。というより、ダルシャナの私の家に来ればわかることですが」
「はあ……」
「というわけで、普通なら私とともにダルシャナへ即座に向かうところなのですが、先ほども申し上げましたように、今回は他に私の個人的な用がありまして、まっすぐ帰国するわけにはいかないのです。ですから、しばらく私の用向きにおつきあい頂けるとありがたいのですが」
「というより、その個人的な用が終わった頃に私を迎えに来て下されば良いのでは?」
この段階で、クティーはすでにダルシャナ王国に行かなければならないことを容認していた。
「残念ですが、帰国道中に用事を済ませる予定ですので、そうなると」
「もう一度、わざわざこちらまで来なくてはならなくなる?」
「そうです。だから失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、二往復しなくてもいいように一回ですませようと思いまして」
「そのほうが日程も旅費も少なくすむというわけ?」
「そうです」
悪びれた様子のない顔でシャストラは肯定した。
「さすが商人。それで、出発はいつですか?」
「できればすぐにでも、と言いたいところですが、いつなら出発できますか?」
「えっと……」
やはりすぐにも出て行かないといけないらしい。
「あの宿のご主人さまや料理所の女将さんとかには?」
中途半端にして出て行きたくないという思いが、クティーの中で湧きあがってくる。
しかし、心のどこかでは、雇われるだけのカレー料理人よりも新たな場所で自由にカレーが作れるかもしれない、という嬉しさもこみあげてきていた。
しかも、結婚やら婚約やらはここから出ていくための方便らしいし。
ということは、いずれ自由に好きな人と結婚できるかもしれない。
シャストラ坊ちゃんの話は、今のクティーにとって渡りに舟だ。
断る理由がない。
「心配事は雇い主の方の同意、ですか?」
「はい」
「それは大丈夫です。全てお金でというわけではありませんが、他にも色々特典をつけたら、あっさりあなたを手放すことに同意して下さいましたよ」
それで、さっきのとろけるような笑顔でクティーにこの部屋へ行けと促したのだ。
「わかりました。では、今すぐにでも荷物をまとめます。宿のご主人さまが納得されておられるなら、今日明日にでも出られると思いますけど」
クティーの荷物は少ない。
着替えに身の回りの物と言っても、自分で買った物はほんのわずかだ。
給金は下働きの人間より多少多くもらえるとはいえ、最低限の物が買える程度なのだ。
だから現金もわずかしかない。
祖母の形見にしても、たいしたものは残ってはいない。
仕入れた食材や香辛料にしても、宿屋として仕入れた物なのでクティーの物ではない。
「良いんですか?」
「え?」
「いや、いきなり住み慣れた場所を出ていくことになるのですから、すぐに出発を納得して頂けるものなのかなと思っていたんですよ」
「ああ。そうですよね」
「さらに私たちがうさんくさい人買いだと思われて、拒否されるのではないかと思っていましたし」
「確かに。それは今もそう疑っています。人買いや西の奴隷商人だという可能性も捨てきれませんよね」
ドラヴィダでは数代前の王が奴隷制度を廃止させたが、ドラヴィダから西の国々では、今でも奴隷制度が残っているのだ。
「はい」
「ですが、あなたは私の力を知っています。それだけで十分です。それだけで、私は新しい生活に身を任せようと思えたんです」
それにここにいても、結局は、好きでもない男に嫁ぐことになることは変わらないだろうし、そうでなくとも、作りたくもない不出来なカレーを作らざるをえない状況も、ままあることだろう。
そういった様々なことを考え合わせれば、このままここにいてもたいした将来は期待できない。それよりは、この二人と宿の外へ出た方がよほど、何か明るい未来が待っていそうに思えた。
世間知らずな小娘だと、騙されているのかもしれないが。
その時はその時だ。
それこそ一族の力を使えば良いだけのことだ。
「私、一緒に行きます。ダルシャナへ」
「わかりました。では、明日にでも一緒に出発して頂きましょう」
「よろしくお願いします」
クティーは丁寧に頭を下げた。
「はい。少し寄り道することになるかと思いますが。こちらこそ、よろしくお願いします」
シャストラが屈託なく手を差し出してきたので、クティーも自分の手を差し出した。
クティーの手がシャストラに軽く握られる。
これでクティーは、祖母と生まれてこのかたずっと暮らしていた住処兼職場を出ていくことを、正式に受け入れた。
(何だか、とっても嫌な予感がする)
首を振って深呼吸をひとつすると、軽く扉を叩いた。
「すみません、お呼び立てされたクティーと申しますが」
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
返事と同時に扉が内側から開かれた。
(やっぱり!)
部屋からクティーを招いたのは、仕入れに行く道中で出会ったあの少年だった。
その背後には、当然のことながら付き人の青年もいた。
「ひょっとして、やっぱりって思ってます?」
少年は先ほどと変わらず、ニコニコ微笑みながらクティーを自分の向かいの椅子に引っ張って行き、そのまま座らせた。
そして、青年の介添えを受けながら、花の香りのするお茶まで淹れてくれた。
「こちらもどうぞ。私たちは、あまり甘い物は食べませんから」
青年が宿泊客に提供されている焼き菓子を皿ごとクティーの前に置いてくれた。
「先ほどは、不愛想な案内ですみませんでした。ちゃんとたどりつかれたんですね」
クティーは一度、椅子から立ち上がって頭を下げた。
どんな人間であれ、この二人が宿屋のお客様となったことは事実だった。
自分のせいで宿屋の評判を落とすことは避けたかったから、クティーは素直に謝ったのだ。
「あの、それでご用は何でしょうか?」
今まで誰かにお茶を出されたり、お菓子を出されたりと、かいがいしく世話を焼かれたことのなかったクティーは、どうにも居心地が悪そうな顔をしながら尋ねた。
さっさと用を済ませて夕食のカレーの下ごしらえをして、仮眠をとりたいのだ。
このままでは不眠不休の苦しい状態となってしまうことが予想できる。
「お呼び立てして申し訳ありません。用件は二点、いや三点あります」
少年は右手の指を二本立てた後、すぐに三本目を立てた。
「早速、お願いします。私、夕食の仕込みがありますので」
「はい。それではまず一点目。はじめまして、私はダルシャナ王国の商人でシャストラと申します。実はあなたの婚約者です。あなたがどこかに嫁がされたり、身売りされたりするのを防ぐために、このたび強引に婚約まで話を進めてしまいました。申し訳ありません」
シャストラと名乗った少年はクティーに丁寧に頭を下げた。
「え? あなたが私の婚約者? だって、同い年くらいにしか見えないんですけど?」
このドラヴィダ王国や近隣の国々では、女性は十三歳で成人したとみなされて、それと同時に結婚できるとされ、主に二十歳になる前に結婚するのが普通であった。
だから、クティーに縁談話が持ち込まれたのだが。
しかし、男性は十六歳で成人したとみなされて、そこから徐々に結婚していくのだ。
どう見ても目の前の少年は、十六歳には見えない。
「ええそうです。本当はあなたより少し年下の十四歳です。でも、もうすぐ十五歳になるんですよ。ですから、少しだけ嘘をつきました」
「少し?」
年齢を偽るのは、少し程度の嘘ではない。
仲介した人物や当人などにばれれば、破談になりかねないのだから。
そもそも、成人ではない者との結婚などありえないのだ。
「本当は、代わりに成人している私ではどうですか? とも提案をさせて頂いたのでございますが、シャストラさまに断られました」
背後に控えていた青年が柔らかく微笑んだ。
「ああ、これは失礼いたしました。私は、グラハと申します。母がシャストラさまの乳母だったご縁で、従者兼護衛の仕事をしております」
「は、はあ。どうも」
主も主なら、従者も従者だ。どちらも品行方正で立ち居振る舞いは、商人というよりも貴族のお坊ちゃんとその側仕えと言ったところだ。
「それで、二点目は?」
一点目が自己紹介。なら二点目からは何か重要な話なのだろう。
「二点目は、すぐにでもあなたを連れてダルシャナへ行こうと思うのですが、寄り道しながら帰国するつもりですので少し時間がかかります」
「そんな急に! 無理です!」
クティーは全力で首を横に振った。
ありえない。今夜のカレーのこともあるし、何より荷作りなど全く出来てはいない。
「急すぎます!」
祖母の喪明けが二か月後だから、まだもう少し猶予があると思っていたのに。
「急なのは百も承知です。しかし、僕は別に結婚を急いでいるわけではありません」
「じゃあ何ですか?」
「でも、今じゃないとダメなんです。あなたを連れ出す機会は今しかありません」
「どうしてですか?」
「もしかしたら、もうすぐこの町は国家同士の争いに巻き込まれてしまうかもしれません。そうなってからでは、ゆっくりあなたを探すことなどできないし、あなたを連れて無傷で脱出することも出来なくなってしまうでしょう」
言われたことが大きすぎてクティーには、いまいちピンとこない。
確かに国同士の争乱ともなれば、クティーの暮らしの基盤となっているこの宿屋もどうなってしまうかわからない。
しかし、何だかんだ言いながら上手く皆と一緒に避難すればいい。
そして、避難先で屋台でも出して、またカレーを作って売ればいいだけの話だ。
なんとか生活できるだろう。
所詮、庶民にお偉い方々の争いなどは良くわからないことなのだ。
「私は、あなたを探していたのです。どうしてもあなたでなければならないからです」
熱烈に言われて面食らうクティー。
「毎日、美味しいカレーが食べたい、とかですか?」
「違います」
冗談のつもりで尋ねたクティーに、シャストラは真顔で否定した。
「三点目。あなたにはカレー作り以外にもう一つ、お祖母さまから教わったことがあるはずです。神の力を引き出す技を」
「どうしてそれを……」
血の気が引いた。今の今まで世間には、カレーとナン作りしか取り得がない娘だと思われていたクティーだったが、実は、もう一つ祖母から受け継いだものがあったのだ。
周囲の誰にも見せなかった技、というより力が。
「世界中を旅しながら、私はあなたのような人を探しているのです。そして私の元へ招いています。実は、このたびの婚約の話もあなたを我が家に招くための方便なんですけどね。あ、がっかりされました?」
「いえ」
「まあ実際、あなたに出会って、このまま結婚までしてしまってもかまわないかも? とは思ってますけど」
「シャストラさま、女性に対して失礼ですよ」
シャストラの軽口も、グラハが主を諌める言葉も、クティーの耳には届いていないようだった。
「それで、私の力を何に利用されるのですか?」
声も重ねた手も震えている。
祖母の一族は、その力ゆえにドラヴィダの何代か前の王に滅ぼされてしまったのだ。
滅ぼされた当初は、ドラヴィダの王家に一矢報いるということが生き残った一族の使命となった。
しかし、それもなかなか難しいことがわかると、一族の灯を絶やさないことを絶対としたのだ。
だから、祖母はたった一人残していく孫娘のことをかなり心配していた。
一族のことも力のことも、絶対に誰にも言ってはいけない。表立ってはよほどのことがない限り、力を使ってもいけないと言われていた。
だから口伝でしか伝わってこなかった一族のことを、どうしてただの商人の坊ちゃんが知っているのだろう?
いや、坊ちゃんは商人の息子と言いながらも、実はどこかの王族や貴族だったりして、国家間や国内の覇権争いに手を貸せと言われるのだろうか?
そういう国同士の争乱に巻き込まれることを嫌ったために、かつてのドラヴィダ王に一族は滅ぼされてしまったのだ。
「大丈夫です」
クティーの手にシャストラは己の手を重ねた。
「あなたの力を何らかの争いに利用しようなどとは思っていません。ただ、古の神の力を持つ一族が流浪したら、保護するのが歴代の私の家の役目なものですから」
「保護、ですか?」
「はい。保護して、決して絶やさないようにするためです。絶えてしまえば、もう二度とその神の力を引き出すことは出来ませんからね。でも、あなたに無理やり力を貸せとは、決して言いません。お約束いたします。ですから、どうか私と共にダルシャナへ来て下さい」
シャストラの手がクティーの両手を優しく包み込む。
年下ではあるが、さすがに男性と言うべきか、薄い手のひらに見えて、その指の根元には武骨な剣ダコができている。
相当に剣の練習もしているのだろう。
「あなたは一体何者なのですか? 本当にダルシャナ王国の商人なのですか?」
クティーの問いかけに、シャストラはただ薄く笑った。
「私のことはいずれお話します。というより、ダルシャナの私の家に来ればわかることですが」
「はあ……」
「というわけで、普通なら私とともにダルシャナへ即座に向かうところなのですが、先ほども申し上げましたように、今回は他に私の個人的な用がありまして、まっすぐ帰国するわけにはいかないのです。ですから、しばらく私の用向きにおつきあい頂けるとありがたいのですが」
「というより、その個人的な用が終わった頃に私を迎えに来て下されば良いのでは?」
この段階で、クティーはすでにダルシャナ王国に行かなければならないことを容認していた。
「残念ですが、帰国道中に用事を済ませる予定ですので、そうなると」
「もう一度、わざわざこちらまで来なくてはならなくなる?」
「そうです。だから失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、二往復しなくてもいいように一回ですませようと思いまして」
「そのほうが日程も旅費も少なくすむというわけ?」
「そうです」
悪びれた様子のない顔でシャストラは肯定した。
「さすが商人。それで、出発はいつですか?」
「できればすぐにでも、と言いたいところですが、いつなら出発できますか?」
「えっと……」
やはりすぐにも出て行かないといけないらしい。
「あの宿のご主人さまや料理所の女将さんとかには?」
中途半端にして出て行きたくないという思いが、クティーの中で湧きあがってくる。
しかし、心のどこかでは、雇われるだけのカレー料理人よりも新たな場所で自由にカレーが作れるかもしれない、という嬉しさもこみあげてきていた。
しかも、結婚やら婚約やらはここから出ていくための方便らしいし。
ということは、いずれ自由に好きな人と結婚できるかもしれない。
シャストラ坊ちゃんの話は、今のクティーにとって渡りに舟だ。
断る理由がない。
「心配事は雇い主の方の同意、ですか?」
「はい」
「それは大丈夫です。全てお金でというわけではありませんが、他にも色々特典をつけたら、あっさりあなたを手放すことに同意して下さいましたよ」
それで、さっきのとろけるような笑顔でクティーにこの部屋へ行けと促したのだ。
「わかりました。では、今すぐにでも荷物をまとめます。宿のご主人さまが納得されておられるなら、今日明日にでも出られると思いますけど」
クティーの荷物は少ない。
着替えに身の回りの物と言っても、自分で買った物はほんのわずかだ。
給金は下働きの人間より多少多くもらえるとはいえ、最低限の物が買える程度なのだ。
だから現金もわずかしかない。
祖母の形見にしても、たいしたものは残ってはいない。
仕入れた食材や香辛料にしても、宿屋として仕入れた物なのでクティーの物ではない。
「良いんですか?」
「え?」
「いや、いきなり住み慣れた場所を出ていくことになるのですから、すぐに出発を納得して頂けるものなのかなと思っていたんですよ」
「ああ。そうですよね」
「さらに私たちがうさんくさい人買いだと思われて、拒否されるのではないかと思っていましたし」
「確かに。それは今もそう疑っています。人買いや西の奴隷商人だという可能性も捨てきれませんよね」
ドラヴィダでは数代前の王が奴隷制度を廃止させたが、ドラヴィダから西の国々では、今でも奴隷制度が残っているのだ。
「はい」
「ですが、あなたは私の力を知っています。それだけで十分です。それだけで、私は新しい生活に身を任せようと思えたんです」
それにここにいても、結局は、好きでもない男に嫁ぐことになることは変わらないだろうし、そうでなくとも、作りたくもない不出来なカレーを作らざるをえない状況も、ままあることだろう。
そういった様々なことを考え合わせれば、このままここにいてもたいした将来は期待できない。それよりは、この二人と宿の外へ出た方がよほど、何か明るい未来が待っていそうに思えた。
世間知らずな小娘だと、騙されているのかもしれないが。
その時はその時だ。
それこそ一族の力を使えば良いだけのことだ。
「私、一緒に行きます。ダルシャナへ」
「わかりました。では、明日にでも一緒に出発して頂きましょう」
「よろしくお願いします」
クティーは丁寧に頭を下げた。
「はい。少し寄り道することになるかと思いますが。こちらこそ、よろしくお願いします」
シャストラが屈託なく手を差し出してきたので、クティーも自分の手を差し出した。
クティーの手がシャストラに軽く握られる。
これでクティーは、祖母と生まれてこのかたずっと暮らしていた住処兼職場を出ていくことを、正式に受け入れた。
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