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外伝(むしろメイン)
外伝六 あついアイマイ境界線(1)※
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メイン:ピオニー ジャンル:ちょっと大人
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私達が住むスラムという街は、決して綺麗な街とは言えない。
ひび割れた壁、転がる瓶、舞い上がる砂で濁った空気。暴れる砂嵐が視界を覆って、茶色い地面と黄色い空が溶けて混ざり合う。上も下も、右も左も、前も後ろも、全部同じになっていく。そんな街では、建物も、人も、ほとんどが多かれ少なかれ歪に同化し汚れている。
ここで見つけられる数少ない綺麗なものを挙げるなら、私は一番最初に、とある親子の心だと答えよう。今、私がこの街で汚れきらずに生きられてるのは、この親子のおかげなのだから。
*
オバサンと出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
私がそのとき住んでた家は、たくさんの女が集まって共同生活を営む家だった。みんな親は居ないか、居ても一緒に暮らすことができない事情を抱えた若い女達。
そこに住むための条件は難しくない。決められた仕事をすることと、稼いだお金は共有の収入箱に入れて、みんなで使うこと。このルールさえ守れば誰でも屋根と壁と食事と毛布にありつける、女限定の花園。
仕事の内容は、年齢別で分けられていた。
お姉さんと呼ばれる歳の子は、薄暗い路地に立ち、男を相手にしてお金を稼ぐ。
まだ仕事ができない小さい子達は、将来お姉さんと同じように稼ぐため、勉強をする。それが仕事のかわり。
どちらでもない中途半端な年齢の私は、小さい子の面倒を見ながら、みんなの洗濯や食事の準備を担当した。ときどき時間があれば街角に立ち、カゴに詰めたお花を売りながら、お姉さんのためにお客を探すこともした。
一緒に暮らす女の数は、頻繁に増えたり減ったりした。
捨て子が拾われて来たり、誰かが転がり込んでくれば増えるし、誰かが出ていったり、死んでしまえば減る。
家のなかで死なれると少し困るけど、毎日様子を見に来る男の人(私達はこの人を、大家さんと呼んだ)にお金を払えば、死体をどこかへ運んでくれた。
ここでは、人の命や尊厳も、紙切れ数枚で解決する。誰もが自分に与えられた役割以上のものを持たない、ある意味自由で、でもなんだか窮屈な家。
私がオバサンと出会ったのは、「お前も次の季節にはお姉さんの仲間入りだ」と、大家さんに言われた日のことだった。
街角に立ってお花を売る私に、オバサンはフラフラと近づいてきて、言った。
「あなた、ペロに似てるねぇ」
一体なんのことだか分からなくて、最初は酔っ払っているのだと思った。びっくりしてじっと見つめていると、オバサンは一方的に、ペロというものについて説明しはじめた。
「ペロっていうのはねぇ、私が昔拾った犬よぉ。もう死んじゃったけどねぇ。あなたの髪、黒くてくるんとして、ペロの尻尾にそっくり。かぁわいいんだぁ」
そうして私の頭をくしゃくしゃと撫で回して、
「よし。あなた、うちの子になりなよぉ」
と、私の腕を引いた。
断ることも。強く跳ね除けることも。大きな声を出すことも。
どれもできたはずだったのに、私はそれをしなかった。何も言わず、ただ引かれるままに歩いたのは、なぜだろう。
このときは、ただただ「不思議なちから」に引かれているのだと思っていた。
でも、今になって考えれば、私はそのとき、期待したのかもしれない。心のすみにいつも感じている窮屈さを取り払えるかも、と。
オバサンに連れられて着いた家は、お世辞にも住みやすそうな家とは言えなかった。土を固めただけの外観は、風がふけばサラサラと、少しずつかたちをかえてゆく。
そんなボロ家のドアを開けると、ところどころ破れて色の薄くなったシーツのうえに、小柄な少年が寝転がっていた。
短い灰色の髪を揺らし眠そうに起き上がった少年に、オバサンは冗談みたいな一言。
「ただいま! 今日からあんたに妹ができるよぉ。仲良くしてねぇ」
「母さん」
「拾っちゃったぁ」
「犬や猫じゃないんだから、さすがにそれは」
この少年は、オバサンを「母さん」と呼ぶ。与えられた役割でなく、本当の子どもなのだ。
それを感じ取ったとき、私は急に心細くなった。本物以上の役割を演じられる自信が無い。
足元から地面が崩れ落ちて行く感覚。
「ごめんなさい。やっぱり私」
「遠慮しないでぇ! あなたはもう、うちの家族の一員よぉ!」
窮屈だけど安定した土台へ帰ろうとした私の背中を、オバサンはトンと叩いた。
「あっ」
情けなく倒れそうになった私を受け止めたのは、少年の、少し日焼けした細い腕。
「お前、名前は?」
「ペロ」
私は、咄嗟に嘘をついた。少年にもオバサンにも、それが嘘だとすぐに分かっただろう。
けれど、少年の返事は、
「そうか」
たった三文字。
それだけで、私の新しい舞台がつくられた。
その日の夜のこと。この家にベッドというものは無い。それどころか、シーツだって、オバサンと少年のぶんで二枚しかない。
相談の末、私と少年は、一枚のシーツを半分ずつ使うことにした。
冷たい床に直接敷いたシーツ。それが、これから毎日私と少年の眠る場所。
横になる前に少年は、変なプリント(目玉が飛び出したアリクイの絵とか)のシャツを数枚、細長く折りたたんで並べ、シーツを左右にちょうど半分で区切る一本の線をひいた。
「ペロはそっち」
少年が指す、区切ったシーツの片側。横になってみると、片腕に触れるシャツは地面の冷たさを吸い取って、少しひんやりとした。
「ねぇ。私、妹だって言われたけど、もしかしたらお姉さんかもしれないね? 背だって私のほうが高いし。明日オバサンに聞いてみようか」
「そうだな」
返事はひとこと。少年はあまりおしゃべりをする子ではないらしい。
花園では、いつも誰かの声が聞こえていた。私も意識してよく話すようにしていた。言葉にたいした意味はなく、決められた台詞を言うのと何もかわらない。
ここでは、それをする必要は無いのかもしれない、と、私は口を閉じた。
シンと静まりかえった部屋。ときどき外で、野良猫が盛る声がする。
「ペロ、仕事は?」
「お花を売ってる」
「どっちの?」
「え?」
「いや、いい。そうか」
その日した話はこれだけだった。私はなかなか眠れなくて、じっと外の音に耳をすませた。風が何かを運ぶ音、どこかで布がはためく音、酔っぱらいの不規則な足音。いつも見ている光景も、音だけを聞くと、どれも物珍しく思えた。
隣にいる少年も眠れないのか、明け方近くまで何度も寝返りをうっていた。その動作はゆっくりとしていて、彼が線のこちら側へ入らないように気を使っているのがよく分かった。
翌朝。
私が仕事へ向かおうとすると、オバサンと少年はいつのまに相談したのか、
「もうあの仕事はやめて、新しい仕事を探したほうが良い」
と、こちらを向いて頷きあった。
たしかに、花園を出るなら違う仕事をしてもルール違反にはならない。私は、「そうする」と、頷く輪に加わった。
それから三人で、家の周辺を散歩した。
道中、オバサンに、「どうして私が妹なの?」と聞いてみたら、「後から来たから!」という返事。実際の歳の上下は関係無いらしい。
そして、私は少年のことを「お兄ちゃん」と呼ぶことになった。でもやっぱり本当は私のほうが少し年上なんじゃないか、なんて考えながら、前を歩くお兄ちゃんのつむじを眺めた。
散歩がてら、ふたりの生活について話を聞いた。
お兄ちゃんは毎日、近くの露店をまわって、荷物運びを手伝っているそうだ。荷物運びの仕事は、お金はもらえないけど、お店で売れ残った食べものをもらえるのだと言う。
オバサンは実はからだが丈夫じゃないらしく、外での仕事はできないから、家のなかで針仕事をしているらしい。「針仕事でもらえるお金は多くは無いけれど」まで説明したあと、ふたりは小声になって、「使うべきときのためにちょっとだけ貯めてあるんだ」と、ナイショ話のように教えてくれた。
そうして歩いているうちに、彼らはある露店の前で足を止めた。
売りもののシャツや小物が並ぶ奥には、店主らしきおばあさんが、長くて白い髪を波打たせて座っている。
おばあさんとふたりは親しげな様子。常連なんだろう。
「ペロの着るシャツを買いましょう。好きなのを選びなよぉ」
オバサンに言われて、並んでいるシャツをいくつか手に取ってみる。”納豆”がミッチリとプリントされたシャツや、見つめていると頭がフラフラするサイケデリックなウサギのシャツ。昨日、少年がせっせと折りたたんでシーツに並べたシャツは絶対にここで購入したものに違いない。聞かなくても分かる。
シャツの放つ謎の威圧感に、私は数歩後ずさり。
「えっと、でも、お金あんまり無いんでしょう? 買ってもらうなんて」
「それはそれ、これはこれぇ!」
オバサンは私の耳元に顔を近づけ、
「あのねぇ、私達は、お金が無くても食べものをもらえる仕事をしてるけど、店主のおばあさんは、商品が売れないとお腹空かせて死んじゃうんだぁ。あんまりお店流行ってないみたいだから。だからね、気にしないで。好きなの選んでよぉ。私達が貯めているお金は、こういうことに使うためなんだよぉ」
ふたりはつまり、”店主と常連”という役を演じている。助け合い、と呼ぶ演劇だ。それならば、私も花園でやっていたことだ。
理解して顔をあげると、お兄ちゃんが、
「俺はこれにする」
と、血走った目のどんぐり(?)がプリントされたシャツを手にしていた。斬新。
悩みに悩んで、私は最終的に、シャツではなくるバッグを選んだ。人間の手足が生えたマンボウのプリントバッグ。シャツはお兄ちゃんのものを共同で着れば良い。どうせなら、シャツ以外でみんなで使えるものが欲しかった。模様はこの際、気にしてはいけない。
買い物を済ませた帰り道。三人で相談しながら歩く。議題は、私の新しい仕事は何にすべきか。家に着いても誰も良い案を出せなくて、私はとりあえず家事を担当することになった。家事ではお金を稼げないことが気になったけど、家事をしていた時間を別のことに使えるから、とふたりは喜んでくれた。
そうして三人で暮らしはじめてしばらく。
オバサンはことあるごとに、「娘だよ」と私を近所の人に紹介した。紹介されるたび、私はオバサンの娘になっていく。
お兄ちゃんはあいかわらず、毎夜丁寧にシャツを折りたたみ、私とのあいだにまっすぐ線を引き続けた。腕に触れるシャツは、今夜も少しひんやりとしている。
そんな生活を繰り返し、私はあるとき、やっぱりどこか窮屈さを感じている自分に気がついた。私はこの新しい舞台でペロとして与えられた役割をこなしている。けれどそれは、呼び方と場所がかわっただけで、やっていることは花園にいた頃とかわらない。
よく知らぬ女達の”助け合い”という演目で、”花園の女のひとり”という役だった私。
偶然出会ったオバサンの”家族ごっこ”という演目で、”ペロ”という役の私。
このままペロを演じ続ければ、いつか窮屈さは消えるだろうか?
私はペロになりたいのだろうか?
答えが出ないまま過ごし続けて、ある日のこと。事件は起きた。
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私達が住むスラムという街は、決して綺麗な街とは言えない。
ひび割れた壁、転がる瓶、舞い上がる砂で濁った空気。暴れる砂嵐が視界を覆って、茶色い地面と黄色い空が溶けて混ざり合う。上も下も、右も左も、前も後ろも、全部同じになっていく。そんな街では、建物も、人も、ほとんどが多かれ少なかれ歪に同化し汚れている。
ここで見つけられる数少ない綺麗なものを挙げるなら、私は一番最初に、とある親子の心だと答えよう。今、私がこの街で汚れきらずに生きられてるのは、この親子のおかげなのだから。
*
オバサンと出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
私がそのとき住んでた家は、たくさんの女が集まって共同生活を営む家だった。みんな親は居ないか、居ても一緒に暮らすことができない事情を抱えた若い女達。
そこに住むための条件は難しくない。決められた仕事をすることと、稼いだお金は共有の収入箱に入れて、みんなで使うこと。このルールさえ守れば誰でも屋根と壁と食事と毛布にありつける、女限定の花園。
仕事の内容は、年齢別で分けられていた。
お姉さんと呼ばれる歳の子は、薄暗い路地に立ち、男を相手にしてお金を稼ぐ。
まだ仕事ができない小さい子達は、将来お姉さんと同じように稼ぐため、勉強をする。それが仕事のかわり。
どちらでもない中途半端な年齢の私は、小さい子の面倒を見ながら、みんなの洗濯や食事の準備を担当した。ときどき時間があれば街角に立ち、カゴに詰めたお花を売りながら、お姉さんのためにお客を探すこともした。
一緒に暮らす女の数は、頻繁に増えたり減ったりした。
捨て子が拾われて来たり、誰かが転がり込んでくれば増えるし、誰かが出ていったり、死んでしまえば減る。
家のなかで死なれると少し困るけど、毎日様子を見に来る男の人(私達はこの人を、大家さんと呼んだ)にお金を払えば、死体をどこかへ運んでくれた。
ここでは、人の命や尊厳も、紙切れ数枚で解決する。誰もが自分に与えられた役割以上のものを持たない、ある意味自由で、でもなんだか窮屈な家。
私がオバサンと出会ったのは、「お前も次の季節にはお姉さんの仲間入りだ」と、大家さんに言われた日のことだった。
街角に立ってお花を売る私に、オバサンはフラフラと近づいてきて、言った。
「あなた、ペロに似てるねぇ」
一体なんのことだか分からなくて、最初は酔っ払っているのだと思った。びっくりしてじっと見つめていると、オバサンは一方的に、ペロというものについて説明しはじめた。
「ペロっていうのはねぇ、私が昔拾った犬よぉ。もう死んじゃったけどねぇ。あなたの髪、黒くてくるんとして、ペロの尻尾にそっくり。かぁわいいんだぁ」
そうして私の頭をくしゃくしゃと撫で回して、
「よし。あなた、うちの子になりなよぉ」
と、私の腕を引いた。
断ることも。強く跳ね除けることも。大きな声を出すことも。
どれもできたはずだったのに、私はそれをしなかった。何も言わず、ただ引かれるままに歩いたのは、なぜだろう。
このときは、ただただ「不思議なちから」に引かれているのだと思っていた。
でも、今になって考えれば、私はそのとき、期待したのかもしれない。心のすみにいつも感じている窮屈さを取り払えるかも、と。
オバサンに連れられて着いた家は、お世辞にも住みやすそうな家とは言えなかった。土を固めただけの外観は、風がふけばサラサラと、少しずつかたちをかえてゆく。
そんなボロ家のドアを開けると、ところどころ破れて色の薄くなったシーツのうえに、小柄な少年が寝転がっていた。
短い灰色の髪を揺らし眠そうに起き上がった少年に、オバサンは冗談みたいな一言。
「ただいま! 今日からあんたに妹ができるよぉ。仲良くしてねぇ」
「母さん」
「拾っちゃったぁ」
「犬や猫じゃないんだから、さすがにそれは」
この少年は、オバサンを「母さん」と呼ぶ。与えられた役割でなく、本当の子どもなのだ。
それを感じ取ったとき、私は急に心細くなった。本物以上の役割を演じられる自信が無い。
足元から地面が崩れ落ちて行く感覚。
「ごめんなさい。やっぱり私」
「遠慮しないでぇ! あなたはもう、うちの家族の一員よぉ!」
窮屈だけど安定した土台へ帰ろうとした私の背中を、オバサンはトンと叩いた。
「あっ」
情けなく倒れそうになった私を受け止めたのは、少年の、少し日焼けした細い腕。
「お前、名前は?」
「ペロ」
私は、咄嗟に嘘をついた。少年にもオバサンにも、それが嘘だとすぐに分かっただろう。
けれど、少年の返事は、
「そうか」
たった三文字。
それだけで、私の新しい舞台がつくられた。
その日の夜のこと。この家にベッドというものは無い。それどころか、シーツだって、オバサンと少年のぶんで二枚しかない。
相談の末、私と少年は、一枚のシーツを半分ずつ使うことにした。
冷たい床に直接敷いたシーツ。それが、これから毎日私と少年の眠る場所。
横になる前に少年は、変なプリント(目玉が飛び出したアリクイの絵とか)のシャツを数枚、細長く折りたたんで並べ、シーツを左右にちょうど半分で区切る一本の線をひいた。
「ペロはそっち」
少年が指す、区切ったシーツの片側。横になってみると、片腕に触れるシャツは地面の冷たさを吸い取って、少しひんやりとした。
「ねぇ。私、妹だって言われたけど、もしかしたらお姉さんかもしれないね? 背だって私のほうが高いし。明日オバサンに聞いてみようか」
「そうだな」
返事はひとこと。少年はあまりおしゃべりをする子ではないらしい。
花園では、いつも誰かの声が聞こえていた。私も意識してよく話すようにしていた。言葉にたいした意味はなく、決められた台詞を言うのと何もかわらない。
ここでは、それをする必要は無いのかもしれない、と、私は口を閉じた。
シンと静まりかえった部屋。ときどき外で、野良猫が盛る声がする。
「ペロ、仕事は?」
「お花を売ってる」
「どっちの?」
「え?」
「いや、いい。そうか」
その日した話はこれだけだった。私はなかなか眠れなくて、じっと外の音に耳をすませた。風が何かを運ぶ音、どこかで布がはためく音、酔っぱらいの不規則な足音。いつも見ている光景も、音だけを聞くと、どれも物珍しく思えた。
隣にいる少年も眠れないのか、明け方近くまで何度も寝返りをうっていた。その動作はゆっくりとしていて、彼が線のこちら側へ入らないように気を使っているのがよく分かった。
翌朝。
私が仕事へ向かおうとすると、オバサンと少年はいつのまに相談したのか、
「もうあの仕事はやめて、新しい仕事を探したほうが良い」
と、こちらを向いて頷きあった。
たしかに、花園を出るなら違う仕事をしてもルール違反にはならない。私は、「そうする」と、頷く輪に加わった。
それから三人で、家の周辺を散歩した。
道中、オバサンに、「どうして私が妹なの?」と聞いてみたら、「後から来たから!」という返事。実際の歳の上下は関係無いらしい。
そして、私は少年のことを「お兄ちゃん」と呼ぶことになった。でもやっぱり本当は私のほうが少し年上なんじゃないか、なんて考えながら、前を歩くお兄ちゃんのつむじを眺めた。
散歩がてら、ふたりの生活について話を聞いた。
お兄ちゃんは毎日、近くの露店をまわって、荷物運びを手伝っているそうだ。荷物運びの仕事は、お金はもらえないけど、お店で売れ残った食べものをもらえるのだと言う。
オバサンは実はからだが丈夫じゃないらしく、外での仕事はできないから、家のなかで針仕事をしているらしい。「針仕事でもらえるお金は多くは無いけれど」まで説明したあと、ふたりは小声になって、「使うべきときのためにちょっとだけ貯めてあるんだ」と、ナイショ話のように教えてくれた。
そうして歩いているうちに、彼らはある露店の前で足を止めた。
売りもののシャツや小物が並ぶ奥には、店主らしきおばあさんが、長くて白い髪を波打たせて座っている。
おばあさんとふたりは親しげな様子。常連なんだろう。
「ペロの着るシャツを買いましょう。好きなのを選びなよぉ」
オバサンに言われて、並んでいるシャツをいくつか手に取ってみる。”納豆”がミッチリとプリントされたシャツや、見つめていると頭がフラフラするサイケデリックなウサギのシャツ。昨日、少年がせっせと折りたたんでシーツに並べたシャツは絶対にここで購入したものに違いない。聞かなくても分かる。
シャツの放つ謎の威圧感に、私は数歩後ずさり。
「えっと、でも、お金あんまり無いんでしょう? 買ってもらうなんて」
「それはそれ、これはこれぇ!」
オバサンは私の耳元に顔を近づけ、
「あのねぇ、私達は、お金が無くても食べものをもらえる仕事をしてるけど、店主のおばあさんは、商品が売れないとお腹空かせて死んじゃうんだぁ。あんまりお店流行ってないみたいだから。だからね、気にしないで。好きなの選んでよぉ。私達が貯めているお金は、こういうことに使うためなんだよぉ」
ふたりはつまり、”店主と常連”という役を演じている。助け合い、と呼ぶ演劇だ。それならば、私も花園でやっていたことだ。
理解して顔をあげると、お兄ちゃんが、
「俺はこれにする」
と、血走った目のどんぐり(?)がプリントされたシャツを手にしていた。斬新。
悩みに悩んで、私は最終的に、シャツではなくるバッグを選んだ。人間の手足が生えたマンボウのプリントバッグ。シャツはお兄ちゃんのものを共同で着れば良い。どうせなら、シャツ以外でみんなで使えるものが欲しかった。模様はこの際、気にしてはいけない。
買い物を済ませた帰り道。三人で相談しながら歩く。議題は、私の新しい仕事は何にすべきか。家に着いても誰も良い案を出せなくて、私はとりあえず家事を担当することになった。家事ではお金を稼げないことが気になったけど、家事をしていた時間を別のことに使えるから、とふたりは喜んでくれた。
そうして三人で暮らしはじめてしばらく。
オバサンはことあるごとに、「娘だよ」と私を近所の人に紹介した。紹介されるたび、私はオバサンの娘になっていく。
お兄ちゃんはあいかわらず、毎夜丁寧にシャツを折りたたみ、私とのあいだにまっすぐ線を引き続けた。腕に触れるシャツは、今夜も少しひんやりとしている。
そんな生活を繰り返し、私はあるとき、やっぱりどこか窮屈さを感じている自分に気がついた。私はこの新しい舞台でペロとして与えられた役割をこなしている。けれどそれは、呼び方と場所がかわっただけで、やっていることは花園にいた頃とかわらない。
よく知らぬ女達の”助け合い”という演目で、”花園の女のひとり”という役だった私。
偶然出会ったオバサンの”家族ごっこ”という演目で、”ペロ”という役の私。
このままペロを演じ続ければ、いつか窮屈さは消えるだろうか?
私はペロになりたいのだろうか?
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