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外伝(むしろメイン)
外伝六 あついアイマイ境界線(2)
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その日、私とお兄ちゃんは、ふたりで街まで出かけていた。オバサンの誕生日が来るから、いつもより少しだけ豪華な夕飯にしよう、と相談して、食材を買いに出かけたのだった。このお金の使い方にお兄ちゃんは反対をしなかったから、”使うべきとき”で合っているのだ。
いくつかのお店をまわって、いつも貰えるスラムの売れ残り野菜じゃなく、綺麗な形の果物や野菜を買った。メインには思いっきり贅沢をしようと、お肉屋さんにも行った。チキンをまるまる一羽なんて焼いてみたら、さぞやオバサンは驚くだろう。仲の良い兄妹を演じていた私達は、クスクスと笑い合いながら帰路についた。
そうして家が見えてきたとき。
「しっ」
と、お兄ちゃんが足を止めた。
「様子がおかしい」
「え?」
お兄ちゃんは素早く私を物影に誘導し、自分も建物の影に身を潜めて、家の方を凝視した。黙って耳をすませば、微かに届くのは、聞いたことのある声ふたつ。
『あいつをどこに隠した?』
『知らないよぉ! うちにいるのは息子とペロだけなんだからぁ!』
『しらばっくれるな! お前が連れ歩いてるのを見たってヤツがいる! あいつはうちの稼ぎ頭になる予定だったんだ。返さないとひどい目を見るぞ!』
『乱暴はよしてよ! 子ども達が帰ってきたらびっくりしちゃうじゃないのぉ!』
ひとつはオバサンの声。もうひとつは、花園の大家さんの声だと、私には分かった。
「大変……! なんだか揉めてるみたい。あの人、私が前に居たところの人よ。ちょっと行って様子を見てくる」
「待て。俺が行く。ペロはここに隠れてろ」
お兄ちゃんは私をさらに物影の奥へと押し込んで、すぐに身をひるがえし駆け出した。
お兄ちゃんの背中が家のなかへと消えてから。最初は怒鳴り声や大きな音が頻繁にしていたけど、だんだんそれが少なくなり、しばらくして、大家さんが家から出ていくのが見えた。大家さんは、汚れた紙切れを手元で数えながら遠ざかっていく。
大家さんの姿が完全に見えなくなったのを確認して、私は物影から抜け出した。走って家へ飛び込むと、なかはひどい有様。
もともと少ない家具は全部ひっくり返り、壁にそなえつけた棚はバラバラに壊れて床に散ってて。部屋のすみではオバサンが泣き、その背中をお兄ちゃんが寄り添ってさすっていた。
「オバサン、お兄ちゃん」
呼びかけて、あげられたお兄ちゃんの顔。その左目が、赤く血で濡れている。
「お兄ちゃん、その目……! どうしたの!」
「顔を蹴られて、少し切った」
「少しじゃないよ。すごく血が出てる」
「たいしたことない。それよりちょっと面倒なことになるかもしれない。念の為、どこか別の場所に隠れたほうが良い。なるべくはやく、今夜にでも」
こうして、私達は急遽夜逃げをすることに。
夜逃げといっても、お金も無いし、そう遠くへは行けない。どうあがいたって、スラムからは出られない。多少の役割を変えることはできても、スラムの住人以上の存在にはなれないことを、私達は知っている。
同じ街のなかでの夜逃げは、ほんの少しの距離で。まわりから見れば子どものお遊戯みたいなものだろう。
それでも、私達にとっては、一世一代の逃走劇だった。
何もかもがごちゃごちゃとうるさく入り組んで、わずかな手入れもされていない街。抜けられない迷路であるスラム。贅沢を言わなければ、雨風をしのげそうな空き家はいくつかあった。
そのうちのひとつを見繕って、私達は夜明け前にやっと腰を落ち着けた。
「良いところが見つかったね」
床に薄く積もった砂埃を払い、三人で座り込む。前の住人が置いていったいくつかの食器や衣類に囲まれて。
私達が住んでいたあの家も、いつかこんなふうに、誰かが勝手に住み着くんだろうか。
「ごめんねぇ。頑張って貯めたお金全部持ってかれちゃったぁ」
オバサンは謝りながら、まとめて持ってきた変なプリントのシャツで鼻を拭く。
「仕方ない。ああするしか無かった」
「どういうこと?」
お兄ちゃんが言うには、大家さんはあのとき、私を探しにきていたらしい。そして、私を出すまで帰らないと暴れたそうだ。
私が知る限り、花園に、「勝手にいなくなっちゃいけない」なんてルールは無い。稼げる子が減っても、残された子達の生活が少し貧相になるだけ。わざわざ探し出して連れ戻された人なんて見たことない。探すほうが面倒だから。
でも。オバサンは私を、「娘だ」といろんな人に紹介してまわっていた。探さなくても、こちらから居場所を知らせてまわっていた。
私はどうやら、役をもちすぎていたらしい。”ペロ”で”娘”で”妹”で、それと同時に、まだ”花園の女”だったのだ。
だからお兄ちゃんは、切り札を使った。
大家さんが家から出てきたときに数えていた汚い紙切れ。あれは、このスラムで、人の命よりも価値のあるもの。それを使い、お兄ちゃんは私から、”花園の女”の役を切り離した。
「一生懸命貯めたお金だったんでしょう? 全部渡しちゃうなんて」
「だってぇ、そうしないとペロが連れてかれちゃうじゃなぃ。せっかく娘ができたのに。手放したく無かったんだもの」
私はなんと答えて良いか分からず、お兄ちゃんを仰ぎ見た。
お兄ちゃんは、「やれやれ」とでも言うように、口元に薄く笑みを浮かべながら、首を横に振っただけだった。
どこでどんな夜を迎えても、毎日同じように朝はくる。
翌朝、たっぷり午前中を使って、私達は新しい生活について話し合った。
あの大家さんに見つかれば、また何か持っていかれるかもしれない。今回渡したお金だけで、満足してくれる保証は無い。
だから、ほとぼりが冷めるまで私とオバサンはあまり遠くへは出歩かず、近くや家のなかでできることがあれば働くこと、お兄ちゃんは大家さんに見つからないように変装して新しい仕事を探すことになった。
お兄ちゃんの左目は、あまり良くない状態に見えた。本人は昨日、「たいしたことない」と言っていたけど、あらためて傷の手当をしてみると、まぶたがきちんと閉じられないほどに眼球が腫れ上がったうえ、ギュッと血を詰め込んだみたいに真っ赤に変色している。
「お兄ちゃん、目は」
「この見た目じゃ接客はできないかもしれないな。サングラスでもかけるか。ちょうど変装にもなる」
お兄ちゃんは、前の住人の忘れものからサングラスを手にとって、珍しくあからさまにおどけて見せた。その態度が、かえって悪い事実を悟らせる。きっともう見えていないか、見えていても役に立たないくらいなんだろう。すぐにお医者にかかれば治る可能性はあるかもしれないけど、私達にそんな余裕は無い。
私のために、この人は、片目まで失ってしまった。
私の気持ちを知ってか知らずか、お兄ちゃんは口角を上げてサングラスを装着した。横から見てもレンズの奥が見えないようにカーブして目元を覆う、ややゴーグルに近いサングラス。
「ついでに丸坊主にでもすれば別人の完成だ」
なんて言って、お兄ちゃんは転がっていたカミソリを手に、自分の髪をも剃りはじめた。最初は私と一緒にあっけにとられていたオバサンも、途中でカミソリを奪い取り、変装ならこうしたほうが良いと言い張って、強引にお兄ちゃんの眉毛を剃り落としてしまった。
仕上がったお兄ちゃんは、スキンヘッドにサングラス、眉毛も落として、これまた前の住人の忘れものから探し出したおとなサイズの黒い上着を身につけている。
小柄なお兄ちゃんが無理して大きな服に着られているさまを見たら、さすがに私も面白くなって、声をあげて笑ってしまった。
この気持ちがたとえ強がりでも、空回りでも、なんでも良い。私は、この人達とともに、三人で笑って居られるのなら、ペロでありつづけよう、と心に決めた。
それから、お兄ちゃんの服やサングラスがぴったりと合うようになるくらいの年月が過ぎて。
お母さんが、死んだ。
トラブルがあったわけじゃない。もともとからだが丈夫じゃないと言っていた通りときどき寝込んだり治ったりしながら生きて、ある日、眠っているあいだに息を引き取ったのだ。
冷たくなったお母さんの体は、お兄ちゃんとふたりで夜中にこっそり、貴族が住むあたりの、人気がなくて静かで景色が良いところへ埋めに行った。この綺麗な塊を、スラムで眠らせたくは無かったから。埋めた場所は少し森みたいになっていて、そのままにすると場所が分からなくなりそうだったから、目印のかわりに小さな木を植えた。それがお墓のかわり。
ふたりで並んで手を合わせてから、私は木の幹をそっと撫でる。白い幹の木はお母さんの心の色。スラムにおいて、人の命や尊厳よりも優先される汚れた紙切れなんかより、もっと大切なものを夢見て、信じていた人の色。
「ねぇ。お兄ちゃんから見て、お母さんってどんな人だった?」
「母さんは……わがままな人だった。それと、人よりちょっと寂しがりで、欲しがりで、子どもみたいな人だった」
「ふふ。まるで悪口。でも、そんなお母さんだから支えていたんでしょ。お母さん、きっと幸せだったよね」
「当たり前だ」
確信を持ったお兄ちゃんの声色は、疑う余地もないほどに強く。
大家さんから逃げ出したあの日、お金と私を天秤にかけて、私を選んだお母さんとお兄ちゃん。
お母さんは、心の底から私を娘だと思っていた。家族”ごっこ”なんかじゃなく、本当の家族なんだと信じていた。
この汚れたスラムでは珍しく、綺麗なままで生きていた。
お母さんの夢が壊れなかったのは、お母さんを支える人がいたからだ。守っている人がいたからだ。
でも、もう守る必要は無い。私は今こそ打ち明けることにした。以前から感じていた窮屈さについて。多分、もう答えは出ている。さすがにお母さんのお墓の前で言うのははばかられたから、帰宅してから最初に言うと決めていたこと。
「もう兄妹ごっこはおしまいだね。私、なんとなく気づいてたんだよ。お兄ちゃん、はじめてあったあの日から、私を妹だと思ったこと一度も無いでしょう?」
お兄ちゃんは無言でこちらを向いた。サングラスで表情は読めない。でも、無言は肯定。
「お兄ちゃん、今日までどうもありがとう。それと、さようなら」
「待て。なぜそうなる」
「だって、私達に”兄妹”を求めていた人は居なくなっちゃった。下手な役割を演じる必要は無くなったんだよ。お母さんの前ではうまくペロで居られたと思うんだけど、お兄ちゃんにとっては、私は下手くそだったかもしれないね。うまく妹になれなくて、ごめんね。もう気を使わないで」
「それは違う。それは……」
お兄ちゃんは一瞬黙り込んでから、少しだけ悲しそうに手のひらを見つめ、
「役割だと言うなら、俺は今まで、母さんの手から溢れたものを拾う役だった。母さんは目についたものにすぐ優しく手を伸ばして、どれも捨てたくないって綺麗事のなかで生きていた。俺はその考えが嫌いじゃないし、母さんの生き方は尊敬している」
そして顔をあげ、はっきりと、
「けど俺は、母さんとまったく同じようには生きられない。目についたもの全部に手を伸ばすのは無理だ。自分の両手で抱えられると思ったものだけを手に入れて守りたい。ペロさえ良ければ……そこに、ペロを含みたいと思っている。妹として、ではなく」
今度は私が言葉を失う番だった。私はどうやら、勘違いをしていたらしい。
お兄ちゃんが私とのあいだに線を引き続けたのは、私がうまくペロという名の妹になりきれていなかったからじゃない。兄と妹で居続けるためだったのだ。
私は黙ったまま、お兄ちゃんへと近づいた。向かい合ってサングラスを奪い取る。そこにあるのは、まぶたに古い傷跡を残した弱視の瞳。
いつのまに、こんなに大きくなったんだっけ。もう、華奢だった少年の面影は微塵も無く。
私を見つめる片目に手をかざして視界を奪い、少し背伸びをして顔を近づける。
ふたりの吐息がまざりあい、境界線は薄れていく。
引かれた線が無くなった瞬間、お兄ちゃんと私は兄妹という役割を捨て、ただの男と女になった。
*
少しして、彼は新しい仕事についた。このスラムで、人の命よりも価値のある、汚い紙切れを扱う仕事。
手にしたものを守るために、より確実な方法をえらんだのだ。お母さんが生きてたら、きっと「危ないわよぉ」なんて言って、あまり賛成しなかっただろうけど。
かつて、”花園の女”であった私。それから、”娘”であった私と、”妹”であった私。
それら全ての役割を捨てた私は、今、最後の役割を捨てる。
「私、名前をかえようかな。ペロのrとoを入れ替えて、女性っぽい響きにするなら……ピオニーなんてどうかしら」
「ああ。良いな」
こうして私達は、これからもここで生きていく。汚れた世界と歪に同化してしまわないように、綺麗に線を引きながら。
外伝六 END
いくつかのお店をまわって、いつも貰えるスラムの売れ残り野菜じゃなく、綺麗な形の果物や野菜を買った。メインには思いっきり贅沢をしようと、お肉屋さんにも行った。チキンをまるまる一羽なんて焼いてみたら、さぞやオバサンは驚くだろう。仲の良い兄妹を演じていた私達は、クスクスと笑い合いながら帰路についた。
そうして家が見えてきたとき。
「しっ」
と、お兄ちゃんが足を止めた。
「様子がおかしい」
「え?」
お兄ちゃんは素早く私を物影に誘導し、自分も建物の影に身を潜めて、家の方を凝視した。黙って耳をすませば、微かに届くのは、聞いたことのある声ふたつ。
『あいつをどこに隠した?』
『知らないよぉ! うちにいるのは息子とペロだけなんだからぁ!』
『しらばっくれるな! お前が連れ歩いてるのを見たってヤツがいる! あいつはうちの稼ぎ頭になる予定だったんだ。返さないとひどい目を見るぞ!』
『乱暴はよしてよ! 子ども達が帰ってきたらびっくりしちゃうじゃないのぉ!』
ひとつはオバサンの声。もうひとつは、花園の大家さんの声だと、私には分かった。
「大変……! なんだか揉めてるみたい。あの人、私が前に居たところの人よ。ちょっと行って様子を見てくる」
「待て。俺が行く。ペロはここに隠れてろ」
お兄ちゃんは私をさらに物影の奥へと押し込んで、すぐに身をひるがえし駆け出した。
お兄ちゃんの背中が家のなかへと消えてから。最初は怒鳴り声や大きな音が頻繁にしていたけど、だんだんそれが少なくなり、しばらくして、大家さんが家から出ていくのが見えた。大家さんは、汚れた紙切れを手元で数えながら遠ざかっていく。
大家さんの姿が完全に見えなくなったのを確認して、私は物影から抜け出した。走って家へ飛び込むと、なかはひどい有様。
もともと少ない家具は全部ひっくり返り、壁にそなえつけた棚はバラバラに壊れて床に散ってて。部屋のすみではオバサンが泣き、その背中をお兄ちゃんが寄り添ってさすっていた。
「オバサン、お兄ちゃん」
呼びかけて、あげられたお兄ちゃんの顔。その左目が、赤く血で濡れている。
「お兄ちゃん、その目……! どうしたの!」
「顔を蹴られて、少し切った」
「少しじゃないよ。すごく血が出てる」
「たいしたことない。それよりちょっと面倒なことになるかもしれない。念の為、どこか別の場所に隠れたほうが良い。なるべくはやく、今夜にでも」
こうして、私達は急遽夜逃げをすることに。
夜逃げといっても、お金も無いし、そう遠くへは行けない。どうあがいたって、スラムからは出られない。多少の役割を変えることはできても、スラムの住人以上の存在にはなれないことを、私達は知っている。
同じ街のなかでの夜逃げは、ほんの少しの距離で。まわりから見れば子どものお遊戯みたいなものだろう。
それでも、私達にとっては、一世一代の逃走劇だった。
何もかもがごちゃごちゃとうるさく入り組んで、わずかな手入れもされていない街。抜けられない迷路であるスラム。贅沢を言わなければ、雨風をしのげそうな空き家はいくつかあった。
そのうちのひとつを見繕って、私達は夜明け前にやっと腰を落ち着けた。
「良いところが見つかったね」
床に薄く積もった砂埃を払い、三人で座り込む。前の住人が置いていったいくつかの食器や衣類に囲まれて。
私達が住んでいたあの家も、いつかこんなふうに、誰かが勝手に住み着くんだろうか。
「ごめんねぇ。頑張って貯めたお金全部持ってかれちゃったぁ」
オバサンは謝りながら、まとめて持ってきた変なプリントのシャツで鼻を拭く。
「仕方ない。ああするしか無かった」
「どういうこと?」
お兄ちゃんが言うには、大家さんはあのとき、私を探しにきていたらしい。そして、私を出すまで帰らないと暴れたそうだ。
私が知る限り、花園に、「勝手にいなくなっちゃいけない」なんてルールは無い。稼げる子が減っても、残された子達の生活が少し貧相になるだけ。わざわざ探し出して連れ戻された人なんて見たことない。探すほうが面倒だから。
でも。オバサンは私を、「娘だ」といろんな人に紹介してまわっていた。探さなくても、こちらから居場所を知らせてまわっていた。
私はどうやら、役をもちすぎていたらしい。”ペロ”で”娘”で”妹”で、それと同時に、まだ”花園の女”だったのだ。
だからお兄ちゃんは、切り札を使った。
大家さんが家から出てきたときに数えていた汚い紙切れ。あれは、このスラムで、人の命よりも価値のあるもの。それを使い、お兄ちゃんは私から、”花園の女”の役を切り離した。
「一生懸命貯めたお金だったんでしょう? 全部渡しちゃうなんて」
「だってぇ、そうしないとペロが連れてかれちゃうじゃなぃ。せっかく娘ができたのに。手放したく無かったんだもの」
私はなんと答えて良いか分からず、お兄ちゃんを仰ぎ見た。
お兄ちゃんは、「やれやれ」とでも言うように、口元に薄く笑みを浮かべながら、首を横に振っただけだった。
どこでどんな夜を迎えても、毎日同じように朝はくる。
翌朝、たっぷり午前中を使って、私達は新しい生活について話し合った。
あの大家さんに見つかれば、また何か持っていかれるかもしれない。今回渡したお金だけで、満足してくれる保証は無い。
だから、ほとぼりが冷めるまで私とオバサンはあまり遠くへは出歩かず、近くや家のなかでできることがあれば働くこと、お兄ちゃんは大家さんに見つからないように変装して新しい仕事を探すことになった。
お兄ちゃんの左目は、あまり良くない状態に見えた。本人は昨日、「たいしたことない」と言っていたけど、あらためて傷の手当をしてみると、まぶたがきちんと閉じられないほどに眼球が腫れ上がったうえ、ギュッと血を詰め込んだみたいに真っ赤に変色している。
「お兄ちゃん、目は」
「この見た目じゃ接客はできないかもしれないな。サングラスでもかけるか。ちょうど変装にもなる」
お兄ちゃんは、前の住人の忘れものからサングラスを手にとって、珍しくあからさまにおどけて見せた。その態度が、かえって悪い事実を悟らせる。きっともう見えていないか、見えていても役に立たないくらいなんだろう。すぐにお医者にかかれば治る可能性はあるかもしれないけど、私達にそんな余裕は無い。
私のために、この人は、片目まで失ってしまった。
私の気持ちを知ってか知らずか、お兄ちゃんは口角を上げてサングラスを装着した。横から見てもレンズの奥が見えないようにカーブして目元を覆う、ややゴーグルに近いサングラス。
「ついでに丸坊主にでもすれば別人の完成だ」
なんて言って、お兄ちゃんは転がっていたカミソリを手に、自分の髪をも剃りはじめた。最初は私と一緒にあっけにとられていたオバサンも、途中でカミソリを奪い取り、変装ならこうしたほうが良いと言い張って、強引にお兄ちゃんの眉毛を剃り落としてしまった。
仕上がったお兄ちゃんは、スキンヘッドにサングラス、眉毛も落として、これまた前の住人の忘れものから探し出したおとなサイズの黒い上着を身につけている。
小柄なお兄ちゃんが無理して大きな服に着られているさまを見たら、さすがに私も面白くなって、声をあげて笑ってしまった。
この気持ちがたとえ強がりでも、空回りでも、なんでも良い。私は、この人達とともに、三人で笑って居られるのなら、ペロでありつづけよう、と心に決めた。
それから、お兄ちゃんの服やサングラスがぴったりと合うようになるくらいの年月が過ぎて。
お母さんが、死んだ。
トラブルがあったわけじゃない。もともとからだが丈夫じゃないと言っていた通りときどき寝込んだり治ったりしながら生きて、ある日、眠っているあいだに息を引き取ったのだ。
冷たくなったお母さんの体は、お兄ちゃんとふたりで夜中にこっそり、貴族が住むあたりの、人気がなくて静かで景色が良いところへ埋めに行った。この綺麗な塊を、スラムで眠らせたくは無かったから。埋めた場所は少し森みたいになっていて、そのままにすると場所が分からなくなりそうだったから、目印のかわりに小さな木を植えた。それがお墓のかわり。
ふたりで並んで手を合わせてから、私は木の幹をそっと撫でる。白い幹の木はお母さんの心の色。スラムにおいて、人の命や尊厳よりも優先される汚れた紙切れなんかより、もっと大切なものを夢見て、信じていた人の色。
「ねぇ。お兄ちゃんから見て、お母さんってどんな人だった?」
「母さんは……わがままな人だった。それと、人よりちょっと寂しがりで、欲しがりで、子どもみたいな人だった」
「ふふ。まるで悪口。でも、そんなお母さんだから支えていたんでしょ。お母さん、きっと幸せだったよね」
「当たり前だ」
確信を持ったお兄ちゃんの声色は、疑う余地もないほどに強く。
大家さんから逃げ出したあの日、お金と私を天秤にかけて、私を選んだお母さんとお兄ちゃん。
お母さんは、心の底から私を娘だと思っていた。家族”ごっこ”なんかじゃなく、本当の家族なんだと信じていた。
この汚れたスラムでは珍しく、綺麗なままで生きていた。
お母さんの夢が壊れなかったのは、お母さんを支える人がいたからだ。守っている人がいたからだ。
でも、もう守る必要は無い。私は今こそ打ち明けることにした。以前から感じていた窮屈さについて。多分、もう答えは出ている。さすがにお母さんのお墓の前で言うのははばかられたから、帰宅してから最初に言うと決めていたこと。
「もう兄妹ごっこはおしまいだね。私、なんとなく気づいてたんだよ。お兄ちゃん、はじめてあったあの日から、私を妹だと思ったこと一度も無いでしょう?」
お兄ちゃんは無言でこちらを向いた。サングラスで表情は読めない。でも、無言は肯定。
「お兄ちゃん、今日までどうもありがとう。それと、さようなら」
「待て。なぜそうなる」
「だって、私達に”兄妹”を求めていた人は居なくなっちゃった。下手な役割を演じる必要は無くなったんだよ。お母さんの前ではうまくペロで居られたと思うんだけど、お兄ちゃんにとっては、私は下手くそだったかもしれないね。うまく妹になれなくて、ごめんね。もう気を使わないで」
「それは違う。それは……」
お兄ちゃんは一瞬黙り込んでから、少しだけ悲しそうに手のひらを見つめ、
「役割だと言うなら、俺は今まで、母さんの手から溢れたものを拾う役だった。母さんは目についたものにすぐ優しく手を伸ばして、どれも捨てたくないって綺麗事のなかで生きていた。俺はその考えが嫌いじゃないし、母さんの生き方は尊敬している」
そして顔をあげ、はっきりと、
「けど俺は、母さんとまったく同じようには生きられない。目についたもの全部に手を伸ばすのは無理だ。自分の両手で抱えられると思ったものだけを手に入れて守りたい。ペロさえ良ければ……そこに、ペロを含みたいと思っている。妹として、ではなく」
今度は私が言葉を失う番だった。私はどうやら、勘違いをしていたらしい。
お兄ちゃんが私とのあいだに線を引き続けたのは、私がうまくペロという名の妹になりきれていなかったからじゃない。兄と妹で居続けるためだったのだ。
私は黙ったまま、お兄ちゃんへと近づいた。向かい合ってサングラスを奪い取る。そこにあるのは、まぶたに古い傷跡を残した弱視の瞳。
いつのまに、こんなに大きくなったんだっけ。もう、華奢だった少年の面影は微塵も無く。
私を見つめる片目に手をかざして視界を奪い、少し背伸びをして顔を近づける。
ふたりの吐息がまざりあい、境界線は薄れていく。
引かれた線が無くなった瞬間、お兄ちゃんと私は兄妹という役割を捨て、ただの男と女になった。
*
少しして、彼は新しい仕事についた。このスラムで、人の命よりも価値のある、汚い紙切れを扱う仕事。
手にしたものを守るために、より確実な方法をえらんだのだ。お母さんが生きてたら、きっと「危ないわよぉ」なんて言って、あまり賛成しなかっただろうけど。
かつて、”花園の女”であった私。それから、”娘”であった私と、”妹”であった私。
それら全ての役割を捨てた私は、今、最後の役割を捨てる。
「私、名前をかえようかな。ペロのrとoを入れ替えて、女性っぽい響きにするなら……ピオニーなんてどうかしら」
「ああ。良いな」
こうして私達は、これからもここで生きていく。汚れた世界と歪に同化してしまわないように、綺麗に線を引きながら。
外伝六 END
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