夜の声

神崎

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二年目

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 煙草の煙と薄暗いライト。そして酒のにおい。柊さんはそれを縫うように私の手を握ったまま進んでいく。
「Syuだ。」
「かっこいー。」
「あれ彼女?」
「いいや。Syuの彼女って、クラブのママだろ?誰だ。あれ。」
 うー。逃げたい。ひそひそ陰でいわれているのは、陰に隠れてないよ。
 彼はその声が聞こえないのか、涼しい顔をしてその人混みをかき分けた。そしてたどり着いたのは、急な階段だった。それを上っていくのを私もついて行った。
「菊音さん。」
 上がった先は狭いスペースだった。いろんな機材や、ライトがある。やや埃っぽいような気がした。
 そしてその奥でミキサーの前にいる男に、柊さんは声をかけたようだった。
「やっときたか。Syu。ん?そのお嬢さんがお前の?」
「はい。」
「そっか。じゃないかと思ってたよ。あんなクラブのママがお前の彼女だと、周りのヤツは皆信じてない。お嬢さん。名前は?」
「……桜です。」
「べっぴんさんだね。」
 白髪交じりの初老の男性。年頃だと、きっと柊さんのお父さんと言ってもおかしくないだろう。小柄で、黒いシャツと破れたジーパンをはいている。
「悪いんですけど、彼女がフロアにいるわけにはいかないんで、ここにいさせてもらえませんか。」
「良いよ。どうせ未成年なんだろ?この下にいて、手入れが入ったら営業禁止になっちまう。」
「すいませんけど、お願いします。」
「おう。それより、お前、出番次だからな。早く出て行けよ。」
「はい。」
「レコード、脇に置いてあるから。」
「助かります。」
 そういって彼は私の肩を軽く抱くと、階段を下りていった。私は何をしていいかわからず、とりあえず周りをキョロキョロとみていた。何に使うかわからない機材。色とりどりのライト。目の高さにミラーボールが回っている。
「桜さん。ここに座りなよ。もうすぐあいつが終わるから、それが終わったら何か飲み物を持ってきてあげるから。」
 ん?そういえば、菊音さんっていったっけ。なんか聞いたことのある名前だ。菊音?ん?
「あぁ。あのときの。」
 葵さんが柊さんの部屋にやってきたとき、「菊音さんが連絡が取れないっていってた。」って言ってた。
「どっかで会った?」
「いいえ。会ってませんけど、話だけ。」
「そっか。悪口でも言われたかな。」
「そんなんじゃありませんよ。」
「……名字が菊音だからね。女性と勘違いされかけたよ。いつもね。」
 ウィンクをするその目はチャーミングで、たぶん若い頃はモテたんだろうな。
「特等席だよ。ここから見ると。」
 確かに下を見ると、人がまるで渦のように沢山いる。
「いつもこんなイベントを?」
「いいや。普段は普通のバーだよ。まぁ、クラブなんてそんなものだ。しょっちゅうイベントをしているわけじゃない。特にSyuなんて、なかなかライブもでてくれないからな。」
「……。」
「昼に普通の仕事してりゃそうなるかな。」
「そうだったんですか。」
「まぁ、あいつは努力家だよ。DJはおろか、音楽なんかぜんぜん聞いていなかったのに、人をこんなに集めることができたんだからな。」
 ふと音がとぎれた。どうやら前のDJのパフォーマンスが終わったらしい。菊音さんは伸びをして、私をみる。
「何か飲むかい?」
「あ、はい。」
「適当でいい?ノンアルコールは少なくてね。」
「大丈夫です。何でも。」
 狭いブースから、菊音さんは出て行き階段を下りる。そこから下を見ると、どうやら端にバーカウンターがあるらしく、そこで飲み物をもらっていた。音楽をしている最中はあまりそういうことをしないみたいで、結構列ができている。
 その間にも中央にあるDJブースには柊さんの姿があった。レコードを一枚一枚確認し、ヘッドフォンを付けて音を確かめているようだった。その一つ一つに馴染みはない。だけど彼には変わりがない。
 しばらくして菊音さんがカップを二つもってきた。
「はい。」
 そこには氷の入ったコーラが入っている。シュワシュワと細かい泡が立って涼しそうだ。確かにここの空気は悪いし、外よりもとても暑い気がする。その中でこの炭酸飲料はとてもありがたい。普段滅多に飲まないけれど。
「ありがとうございます。」
「炭酸飲める?」
「普段あまり飲まないんですけど。」
「君は葵のところにいるって言ってたね。」
「あぁ。バイトをしてます。」
「葵から迫られたりはしない?」
 うっ。その言葉がとても刺さる。今日危うくセックスしそうになったから。
 その様子を見て彼は薄く笑った。
「葵なら悪い気はしないだろう。あの容姿だ。言い寄られる人も多いし、断りもしないからね。」
「……気持ちはありませんよ。」
「フフ。高校生とは思えない言葉だ。だからSyuの彼女でいられるんだろうね。」
 やがて周りが暗くなり、音がスピーカーから鳴る。どっと観客が沸いた。
 踊る人。声を上げる人。たくさんの人が柊さんに声を上げる。だけど柊さんはあくまで冷静だった。次のレコードをセットして、うまく繋げる。まるで一曲のように。
「あいつを初めて見たとき、誰も寄せ付けない。誰も信用しない。そんな感じに見えたよ。少なくとも一年前まではね。」
 一年前。それは私が柊さんに出会ったときだ。
 菊音さんは音を確かめながら目の前のスイッチをいじり、私に話しかけている。この空気に飲まれないようにとしているのだろう。
「君がSyuに愛されて良かったようだ。Syuも君に愛してもらって、良かったと思っている。ありがとう。」
 その音の一つ一つ、すべてが聞いたことのある音だった。椿さんが流す音ばかりだったから。でもたぶん別人だ。
 もうやめよう。彼を疑うのは。私が愛しているのはこの人だけだから。そしてありがとうといってくれて、祝福してくれる人がいる。
 それだけで胸が熱くなり、涙が自然と出てくる。
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