夜の声

神崎

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二年目

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 入れ墨を正規に入れられる年齢は十八から。誕生日を先日迎えられた竹彦は、すぐにそれを入れたのだという。入れ墨は入れるのは簡単に入れる人が多いが、消すとなると費用も時間もかかるし完全に消えないことも多い。
 だから柊さんも葵さんも消したいのに消せないのかもしれない。茅さんは……消すつもりもないのかもしれないけど。
 だから竹彦が椿の入れ墨を入れたのは、ある程度の覚悟が必要だった。もう堅気の仕事には就けない。その覚悟。
「組にでも入るつもりなの?」
「組には入らない。組に入っても誰も幸せになれないのは、ここ数ヶ月でわかったよ。」
「……それって……妹さんのこと?」
 行方不明になっている妹。確か桃香という名前だった。
「桃香は、この間保護した。組にいる。」
「何があったの?」
「……僕が椿になったことで、桃香は僕を引き留めようと組に近づいたんだ。それが徒になってね。ちょっと敵対する組と揉めたこともあって、あいつらに拉致されてた。」
「それって……。」
「……もう少しで売られるところだった。もう少ししたら、家に帰すよ。」
「そう。」
 たぶん、私が受けたこと以上のことをされたはずだ。ぞっとする。心に何もなければいいけれど。
「でも……僕は母親に言われたよ。椿でいるつもりなら、家を出ていけって。」
「他の兄弟のこともあるでしょうしね。」
「僕がいることで迷惑をかけているらしい。確かに僕がいないと家は大変だけど、いても大変なんだ。」
 椿に簡単に入ると言った竹彦だったけど、ここまでリスクがあるとは思ってなかったのかもしれない。どうして止めなかったのだろう。母親も蓬さんの愛人の一人であったなら、きっとそんなリスクも承知していたはずだろうに。
「柊さんは、自分が椿であったことを後悔してた。ううん。柊さんだけじゃないわ。葵さんもそれから……茅さんも。」
「茅さん?その人も椿だった人?」
「えぇ。柊さんの直属の後輩って言ってた。」
 苦しそうに仕事をしていたという茅さん。
 椿であったために、一人の女性を不幸にしてしまった柊さん。
 女性を道具のように扱っていたために、本当の恋ができなかった葵さん。
 それぞれが椿であったことを後悔していた。
「でも僕は戻れないよ。」
「後悔してないの?」
「やっと同じステージに立てたと思ってる。」
「……不幸になるわ。」
「それでも構わない。振り返ってもらえるなら。」
「振り返らないわ。」
 全てのことにおいて、私はもう戻れないのだ。仕事も、学校も、そして柊さんのことも。
 手に持つテンガロンハット。それはSyuの女だという証拠。そして指に光る銀色の指輪。それは柊さんの女という証拠。
「どうして泣いてるの?」
「泣いてる?」
 ぽたりと手に滴がこぼれてきた。それは自分の涙だ。
「柊さんのこと?」
「違うわ。」
「去年は柊さんのことで泣いてた。今年もそうかと思ったのだけど。」
「違う。自分のことよ。」
 裏切り者の自分のことだ。
「私も後悔していることがあるの。」
「柊さんのことじゃなくて?」
「彼のことで後悔したことはない。後悔しているのは……自分のことだから。」
 すると彼は私の手を引く。思わずテンガロンハットを離しそうになった。だけどこれを離すわけにいかない。
 引きずられるように連れてこられた手は、去年は細かったのに今はこんなに力強く、私の手を引く。
 連れてこられたのは、ライブの始まる前に柊さんに連れてこられた橋の下。数時間前、私はここで彼とキスをした。その場所だった。
「人が来そうだったから。」
「柊さんかもしれないわ。」
「だったらきっと連絡があるよ。泣き顔を見られたくなかったし。」
「……ありがとう。」
 手を離して、驚いた拍子で引っ込んでしまった涙を拭う。
「僕、たぶん君の涙のわけわかる。」
「……知ってるでしょうね。きっと。蓬さんから聞かされたことだもの。あなたが知らないわけ無いと思ってる。私は裏切り者なのよ。」
 すると彼は私に手を伸ばす。そして素早く私の体を抱きしめた。細い体はきっと去年よりも逞しくなった。
「……僕も卑怯だね。弱っている君にしかこんなことはできないのは。」
 耳元で囁かれる。その声も、腕も、馴染みはない。だけど突き放すことはできなかった。
 気持ちは抵抗したかった。柊さんではない人に体を抱きしめられるなんて、悪夢だから。だけど腕がその体を引き離せない。足がその場から離れることを許さない。
「竹彦君……。」
 体を少し離されると、彼は私をのぞき込んだ。そして私の頬に指をはわせる。
「止めて。」
「……。」
「これ以上触れないで。」
 手をつかみ、それを止めさせようとした。でも彼は私に近づいてくる。
「代わりと思って。今来れない人の代わりと思ってもらってもいい。」
 そう言って彼は私の頬に手のひらを当て、ぐっと近づいてきた。吐息が唇にかかり、そして彼は唇を重ねてきた。軽く、ふわっとした口づけだった。
「だめ。」
 私は確かにそう言った。だけど、彼はそれを止めなかった。
「……桜さん。」
 思わず帽子を落としてしまった。それくらい彼は、激しい口づけをしてきたのだ。
 舌が私の口の中に入ってきて、まるで食べられそうな勢いがある。
「ちょ……。止めて……。」
 私はやっと彼を引き離した。そして帽子を拾い上げた。
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