夏から始まる

神崎

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雨の日

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 膝より少し下のワンピースは半袖で、コットンの素材が肌に優しく触れていた。だが下着を付けていないので何となく違和感がある。その状態で蓮の前にたつのは恥ずかしいと思ったが、いつまでもこの部屋にいるわけにはいかない。いるだけで迷惑なのだから。
 菊子は思いきってドアを開ける。薄暗かった店内は少し明かりがともり、カウンターの向こうには菊子にワンピースとサンダルを用意してくれた女性がいる。そしてステージの片隅には蓮が椅子に座り、ベースを弾いていた。どうやらチューニングをしているらしく、彼の前には小さな機械がある。
「良かったわ。サイズ合ってるわね。あたしには少し小さかったから、それは差し上げるわ。」
「いいえ。洗って今度持ってきますから。」
 その言葉に彼女は少し笑ってカウンターの向こうから出て来た。手には大判のビニール袋が握られている。
「これに鞄を入れて持って帰って。制服と下着はハンガーに掛けて、シャワールームにかけておけばいいわ。」
「あ、すいません。何から何まで。」
「制服は厳しいかもしれないけど、下着はあっという間に乾くからそれは着て帰って。違和感があるでしょ?」
 その言葉に蓮の手が僅かに止まった。おそらく想像していたのだろう。可愛い。彼女は少しからかいたくなり、菊子の肩に手を置いた。
「ハンガー、ここにあるからかけて。何か飲み物でも入れようか?メニューにあるモノだったら作れるし。」
「いいんですか?」
「いいわよぉ。カフェだもの。繁華街にあるから昼間は結構閑散としているんだけど、営業はしているのよ。」
 肩に置かれた手が、とても大きい気がする。だがスラリとした指を持っているがどうにも違和感があった。
「あの……。」
 ハンガーに制服などを掛けて、下着は吊した。そのときほほえんでいる彼女に声をかける。
「どうしたの?」
「女性……ではないですよね?」
 その言葉に彼女は少し笑う。
「すぐ見破られるとは思わなかったわ。女装しているだけ。あ、あたし百合って言うの。ここの雇われオーナー。」
「百合さんですか。」
「あなたは?」
「永澤菊子です。その北通りにある、「ながさわ」のものです。」
「ながさわの……。ふーん。あ、表行きましょ?何飲む?」
「何があるんですかね。」
「カフェだもの。色々あるわ。」
 百合はそう言って菊子を促して、店内に出て来た。今度は背中に手を置かれる。男性だとわかったとたんに、その手に違和感を感じた。大人だとこれくらいのスキンシップは当たり前なのだろうか。
 だったらこの間、蓮が菊子の頭を撫でたのも普通の行為だったのだろう。やきもきした自分が恥ずかしい。
 カウンター席に座ると、メニューを見る。
「何にしようか。」
「レモネードを。」
「温かいの?冷たいの?」
「温かいモノをお願いします。」
 こんなお店でお茶をすることなど今までなかった。高校生になれば、学校帰りにカフェに行ったりファミレスでパフェを食べたりするのかもしれないが、菊子にはそんな暇はない。すぐに帰って仕事を手伝わないといけないのだから。
 それを思い出し、菊子は慌ててビニールに入れたバッグから携帯電話を取り出した。だがメッセージも着信もない。先ほど連絡したから、あまり心配していないのかもしれないと彼女は携帯電話をテーブルに置いた。
「どうしたの?彼氏から連絡でもあった?」
「あ、違います。いつも帰ってお店を手伝っていたので、今日は遅くなると連絡しましたけど少し心配になって。」
「お店って、あなたがいないと回らないような店なの?」
「そう言うわけじゃないと思うんですけど……平日だし、予約だけで満席には今はなりませんけど……こう何かやきもきして。」
「なるほどね。わからないでもないわ。でもあなたみたいな従業員がいて、女将さんは楽でしょうね。」
「そうでしょうか。いつも怒られている気がします。」
「それはね、怒られているんじゃないの。怒るというのは感情にまかせることだけど、たぶんあの女将さんなら感情にまかせて怒ることはないと思うから、それは指導なのよ。」
 あまり祖母や祖父以外の大人とこうしてがっつり話すことはなかった。菊子にとってそれは刺激的な時間だったと思う。
 だがチューニングをしながら、蓮はやきもきしていた。時折笑いもある二人はうまく百合が話を引き出していて、聞いたこともないような話をしてくれている。それがまた妙にいらいらしてしまうのだ。
「くそっ。」
 思わず声に出してしまい、百合と菊子がこちらを見た。
「どうしたの?いらいらして。」
「弦が切れた。ベースの弦は高いのに……。」
「それはご愁傷様ね。」
 全く可愛そうだと思っていない。蓮はおそらく菊子に気があるのだろう。だが自覚していない。そのわけのわからない胸の痛みに、どうやらもやもやしているといった感じだろう。
「菊子ちゃん。良かったら携帯の番号を教えてもらえないかしら。」
「携帯ですか?いいですよ。でも夜はほとんど出れなくて……。」
「お店があるものね。「ながさわ」は何時に閉店かしら。」
「十時です。でもそれから片づけとかして、終わるのは十一時くらいですか。」
「あら。大変ね。だったら連絡取りたいときは十二時以降の方がいいかしら。」
「そうですね。でも何の連絡を?」
「今度デートしましょ?」
「え?」
 その言葉にはさすがに携帯を落としかけた。そして蓮の手も止まる。
「あたし、女の子の洋服とか選んであげるの好きなのよ。菊子ちゃん何でも似合いそうだし、モデルみたいだもの。」
「そうですかね……。」
 たまらずに蓮はベースを置いて、カウンターに近づいた。
「菊子。そろそろ乾いているかもしれない。店もあるんだろう。行くか?」
「あ、そうですね。下着とってきます。」
 そう言って彼女はステージの奥の部屋に消えていった。それを見て、蓮は百合に詰め寄る。
「百合。何の真似だ。」
「少しからかっただけよ。本気じゃないわ。」
 彼は煙草に火をつけて、カウンター越しに百合を見下ろす。カウンター席の方が少し高いが、それでも蓮の方が少し背が高い。
「菊子に手を出すな。」
「何で?別にいいじゃない。まだ誰のモノでもないんだし、高校生って初々しくていいわねぇ。しょっちゅう来てくれないかしら。」
「百合。」
「何?蓮。彼女が気になるの?」
 その言葉に、不機嫌そうに蓮は煙を吐き出した。
「別に……。」
「だったらそんなにムキにならないで。」
 ドアが開くと、菊子は彼らの前に歩みを進める。
「制服までは乾いてなくて。」
「いいのよ。明日にでも取りに来て。乾かしてクリーニング屋さんに出すんでしょ?」
「はい。さすがに濡れてる状態で出したくないですし。」
「じゃあ、店まで送ってあげましょうか。」
 そう言って百合がカウンターから出てこようとしたときだった。蓮がそれを止める。
「俺が送るから。」
「すぐそこなので、別にいいですけど。」
「いいから、」
 そう言って彼は煙草の火を消す。そして彼女の鞄が入ったビニール袋を手にする。
「百合。傘を貸せ。」
「いいわよ。どうせお客さんの忘れ物。今度持ってきてもらえばいいわ。」
「じゃあ、制服と一緒に持ってきます。」
「えぇ。じゃあまたね、菊子ちゃん。」
 携帯電話だけを手にして、彼女は彼に促されるように表に出て行った。相変わらず雨はやみそうにない。
「雨がすごいですね。」
 蓮にそう話しかけるが、蓮は何もいわず肩と首で傘を挟んでポケットを探っていた。
「どうしました?」
「菊子。俺にも携帯の番号を教えてくれないか。」
「え?」
「百合に教えて俺には教えられないのか?」
 その言葉に彼女は少し違和感を感じた。しかし断る理由もないので、そのまま彼に番号を教える。
「……ライブがあったら連絡するから。」
「ボーカルが不在なんですよね。」
「バンドはな。ヘルプで出ることもある。そのときは連絡するから。」
 見て欲しい。なぜそう思ったのかはわからない。こんな子供のような女にどうして惹かれるのだろう。
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