夏から始まる

神崎

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祭りのあと

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 たぶん今一番会いたくない人だった。蔵本棗は、蓮の妻だった美咲と同じバンドメンバーでたぶん薬に溺れさせた蓮を恨んでいる。それでなくても手を出そうとしているのに、このままだとどこかで襲われそうだ。そのときは大声でも上げようかと思いながら、菊子は繁華街の方へ歩いていた。
「……なぁ。」
「何ですか?」
「話してんのにさ、聞けよ。」
「……何ですか?」
「バンドは悪くなかったって。」
 意外な言葉だった。驚いて棗をみる。
「……俺に言わせてみれば、まだ荒削りだしおまえの声のピッチもまだまだ甘いところがあるけど、あれだけの聴衆を集めれれるんだ。プロになってもおかしくねぇよ。」
 ほめられるとは思ってなかった。さらに菊子は驚く。
「ありがとうございます。でも……音楽嫌いなんじゃなかったんですか?」
「……嫌いじゃねぇよ。嫌いなのは蓮だ。」
「蓮さん?」
「聞いただろ?俺が入っていたバンド内で恋愛事情を持ち込んで、結婚までしたんだ。でも美咲はあの人の子供が欲しいって無理矢理結婚したんだ。まだ蓮は十代だったのにさ。」
「でも……それって当たり前じゃないではないんですか?若ければ若いほど生活力もないし、子供が出来れば尚更……。」
「わかったような口を利くな。蓮だって、もっと美咲に気を配ってれば……それに……美咲がまた薬に手を染めたのは、あいつの家の策略だったんだろうし。」
「家?」
「……その続き、聞きてぇ?」
 すると棗は足を止めて、菊子の手を引こうとした。その先にはラブホテルがある。それに気がついて菊子はその手を振り払う。
「結構です。聞きたければ本人から聞きますから。」
「つめてぇな。師匠と弟子がデキるのなんて、どこの世界でもあり得るだろ?」
「……まだ決めかねてますから。」
「歌を歌うのか?」
 その言葉に菊子は首を横に振る。
「趣味の範囲で。あくまでしたいのは料理です。」
「だったら俺をとるんだな。」
「……何であなたになるんですか?」
「俺が一番教えられると思うから。」
「すごい自信ですね。」
「当たり前だろ?自信がないと言えないし。だから、しようぜ。あいつまだ来ないんだろ?」
「イヤです。」
「だったらキスだけでもさせろよ。」
 そういってまた菊子の手を引こうとした。それを感じ手先に振り払う。
「イヤです。」
 信号が青になる。ここを越えれば繁華街だ。今日は祭りで人も多い。そこまでくれば、もう襲おうとしたりしないだろう。
「菊子。ホテル来いよ。」
「イヤです。」
「お前、拒否してばっかだな。」
「そうさせてるのは、あなたですけど。」
 その言葉に、棗は笑いながら彼女の手を無理矢理引いた。そして繁華街沿いの道を歩く。
「ちょっと……。やです。」
 手をふりほどこうとしたのに、力が強くてふりほどけない。そして棗は、側にある駐車場に入っていく。そして一番奥の、あまり光が届かない壁側まで連れてくると、菊子をその壁に押しつけた。
 あまり身長の差はない。少し見上げれば棗が顔を覗き込んでる。
「菊子。」
 逃げたい。どうしたらいいだろう。必死でその答えを見つけるが、見つからなかった。これが男の力だ。どうにもならないのかもしれない。だが菊子は近づいてくる棗の口を押さえる。
「やめてください。私にその気がなければ、ただの強姦です。」
「あいつよりいい思いさせるって。」
「テクニックの問題じゃない。あなたがしたいのは……蓮のモノだから奪ってやりたいってそう思ってるだけに見えるから。」
 その言葉に棗の動きが止まる。
「だったらそうさせてやろうか?」
「……。」
「奪ってやる。俺から美咲を奪ったあいつからお前を奪ってやる。」
「私はモノじゃない!いいから離して!」
 必死に抵抗しているのに、棗はそのまま菊子を壁に押し当てて顔を近づける。
「嘘。」
「え?」
「そんな気持ちは一つもねぇよ。美咲は自業自得だ。蓮が美咲を放っておいたのは仕方ないかもしれないけど、あいつもバンドなり働くなりすれば良かったんだ。」
「だったら……何で?」
「決まってるじゃん。お前が好きだから。だからキスしたい。抱きたい。それだけ。」
「……私が望んでません。」
「俺がしたいんだ。」
「大声を出します。」
「出させねぇから。」
 ぞっとした。そのときだった。
「警察に電話しようか?」
 聞き覚えのある声がした。棗の背中越しに見えたその人は、玲二だった。
「玲二さん。」
 玲二の名前に、棗の手がゆるむ。そして玲二の方を見た。
「玲二……。」
「棗。そんなことをしても無駄だって。美咲の懲役はまだ残ってるし、あまり模範囚でもないみたいだから、恩赦もないようだ。」
「……。」
「いいから大人しく帰れよ。」
「……玲二。あんたにも俺は言いたいことがあるんだ。」
 玲二は少し笑い、棗の肩をぽんと叩く。
「逆恨みだろ?俺は検事だからね。裁判所で、事実を言ったまでだ。」
「……。」
「まさか、知り合いだから刑を軽くしてくれなんて言えないよ。しかも再犯。どうひっくり返しても軽くなんてならないだろう?」
「でも……。」
「いいから大人しく帰れって。まだ終電あるだろ?」
「……。」
 にらむように棗は玲二を見て、その場を去っていった。その様子を見ていた菊子は腰が抜けたように座り込んでしまう。
「大丈夫?菊子ちゃん。」
「ちょっと怖くて……すいません。」
「いいや。俺、車ここに停めてたから良かったよ。立てる?」
「はい……。」
 菊子はそういって立ち上がった。
「送ろうか?俺、送り狼にはならないから。」
 そういって玲二は、菊子の気を紛らわすように冗談を言った。
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