夏から始まる

神崎

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可愛くない女

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 車はそんなに活用しない。車に乗れば酒が飲めないからだ。だが今日は車があって良かった。辰雄と菊子を会わせることが出来たし、良い鶏肉も卵も手に入れられたのだ。それに菊子とデートのようなことも出来たし、また菊子を抱くことが出来た。
 菊子を抱くと胸が熱くなる。打ち込む度に甘い声が漏れて、棗の体をぎゅっと抱きしめる。その温かさがたまらない。もっと欲しくなる。自分のモノにしたくなる。
「……蓮に本気で言ってみるか。」
 菊子が欲しい。しかし菊子も蓮もお互いを求めているのだ。邪魔なのは自分。わかっているが止められない。
 車を駐車場に停める。アパートに駐車場は付いていない。この辺は駐車場付きのアパートはほとんどない。家に近いところにある立体駐車場の月極の駐車場を借りているのだ。
 そこに車を停めると、携帯電話をみる。時間的にはおそらくもう少しずつスタッフが集まっているだろう。気持ちを切り替えて、今日も仕事をしよう。二日も休んでしまったのだ。忙しいだろう。
 そのときだった。携帯電話が鳴る。
「もしもし。」
 その相手はスタッフである明日香だった。
「オーナー。もうこっちに帰ってきてますか?」
「あぁ。五分でそっちに行く。どうした。」
「恵美さんが来ないんです。」
 やはりそうなったか。棗は少しため息を付くと、駐車場から外に出る。
「あたしじゃ予約とかわかんないし、他のスタッフも恵美さんにまかせっきりだったから……。」
「治ならわかるだろう。させろ。食材のチェックは史也にさせて。間に合えばあとで俺もチェックするから。仕込みの量と、足りない分はまた連絡してくれ。こっちで何とかするから。」
「わかりました。そう伝えておきます。」
「心配しなくても恵美は連れて行くから。」
 そう言って棗は電話を切ると、恵美の携帯電話に電話をする。しかし繋がらなかった。おそらく家にいるはずだ。

 恵美はそのころ自分のアパートにいた。一人で住むのだったら十分な広さだと思う。ワンルームだが備え付けのクローゼットもあるし、バスルームとトイレも別々だ。
 ここに人が来ることは多い。棗は酒が好きと言うよりは人とのふれあいが好きなようで、なんだかんだであの店は飲み会が多い。この間も休みの日を利用してビアガーデンへ行った。そこから二次会、三次会となだれ込み、一番最後は決まってこの部屋にやってくる。当然棗も何度もやってきた。
 男と女が雑魚寝をしていても何もないのは、みんながあの店の仲間であり、従業員だったから。
 それでもその中で恋人同士になったり結婚したりした人たちもいる。恵美も少しは期待をしていた。棗とそんな関係になれると期待していたところがあったのだ。
 だが現実は上手くいかない。
 いつまでたっても棗は、恵美を従業員としてしかみない。その上、あのぱっと出てきたあの女子高生にずいぶん入れ込んでいる。菊子には恋人がいるのに、無理矢理迫っているのだ。
 自分には振り返ってもらえないのに、菊子には手を出すのだ。その事実を一番認めたくないところだった。
 顔を合わせたくない。その一心で黙って仕事に行かなかった。ベッドの上で体育座りをして、テーブルの上にあるずっと鳴っている携帯電話をじっと見ていた。
 そのときだった。部屋のチャイムが鳴る。思わず立ち上がり玄関へ向かった。のぞき穴からそっと外を見ると、そこには棗の姿がある。思わずのけぞり、ドアを開けるのをためらった。だがドアをどんどんと叩かれる。
「恵美。居るんだろ?出てこい。」
 借金の取り立てのようにドアを叩く棗に、さすがにちょっと近所迷惑だと思った。だから恵美はチェーンを外し、鍵を開ける。すると開ける前から、棗はそのドアを開けた。見下ろすその視線が怖い。
 いつも店で厳しいことを言って、追いつめるように責めて、やめる新人を冷めた目で見ていたのに今度は自分の番になった。だがこんな時も恵美は強気だった。
「お前なぁ……。」
「あたし、辞めますから。」
 その言葉に棗は呆れたように言った。
「辞められないだろう?お前、いつも言ってたじゃん。何にも使えねぇ研修中の新人ならともかく、ある程度使えるようになってるんだったら自分の代わりを作って出て行くのが当たり前だって。」
「けど、こんな状態で普通に仕事なんか出来ませんよ。」
 棗は頭をかいて、部屋の中に上がっていく。そしてキッチンに立つと、ポットに水を入れた。そして火にかける。
「とりあえず、お前茶でも飲め。目が腫れてるぞ。水分とってから、目を温めろ。」
 こんな状態でも優しい人だ。だが口から出る言葉は可愛くない言葉。
「ロリコン。」
 その言葉に棗は少し笑う。そして火を見ながらぽつりと言った。
「性趣向なんて、人それぞれだけどな。菊子は別に高校生じゃなくても、大学生でも、普通に働いてる社会人でも、俺は好きになったんだと思う。」
 最初は料理のセンスと、永澤貴人の孫だからというだけで近づいた。話には聞いていたから。だが実際会って、ますます惹かれた。
 食材に対するどん欲な好奇心。そして歌う姿。蓮の隣にいて笑う顔。手に入れたいと思っていた。
「……あたしも側にいたのに。」
「一緒に居すぎたかな。お前はあの店を開店する前からのつきあいだし、お前に任せていれば安心できるところもあった。これからは違うだろうけど。」
 お湯が沸いて、ティーポットに茶葉を入れる。そしてそのお湯を入れた。
「あたしもその新規の店に行きたいんです。今のままじゃ……ぬるま湯だから。」
「ぬるま湯か?何かあったら「オーナーどうしたらいいですか」って聞いてきてんのに。これからは治と一緒にやっていけばいい。」
「治じゃ……頼りないです。」
「んなこと無い。あいつもやれば出来るだろ?」
「……。」
「そんな顔をするな。バカ。治だって来年は三十だろう?俺とかわんねぇよ。」
 お茶をコップに注ぎ、そのコップを恵美に手渡す。
「それに……。」
「何だよ。」
「あたし、オーナーを忘れられないから。」
 ベッドに腰掛けて、そのお茶に口を付ける。その言葉に棗はため息を付いた。
「お前を見ることはねぇよ。」
「そんなにあの女の子がいいんですか?何がいいのかわからない。並んでてもカップルに見えないです。」
「親子か?兄弟か?」
「そんなところです。」
「でもあいつ、ちゃんと女だけどな。」
 その言葉に思わず手に持っているコップを投げつけそうになった。ここまで無神経だと思わなかったから。
「でもさっきも言っただろう?あいつが誰でも俺はあいつを好きになった。たとえ……兄弟だって言われても、止められない。何を置いても奪いに行く。」
 その言葉に恵美の表情がこわばった。
「……え……。」
 だからあの町に店を構えようとしていたのか。そこまで手に入れたいのだろうか。
「だからお前は治のサポートをしてやれよ。じゃねぇとあの店潰れるぞ。」
「……。」
「それ飲んだら目を温めて、それから店に来い。いいな?これで来なかったら、今度は治をよこすからな。」
「嫌です。」
「だったらグダグダ言わずに来い。」
 棗はそう言って、玄関へ向かう。
 その背中を見ていた。ずっとその背中を追っていた。だけどその距離は追いつくことはなく、そして勝手に前に進んでいく。
 そして気が付いたときには、別の女の手を握っている。それが悔しかった。
 枯れていた涙がまたでそうだった。だが泣くわけにはいかない。これ以上、泣いてはいけないのだ。泣くのは仕事が終わってから。
 笑顔で来てくれるお客様を迎えるために。
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