夏から始まる

神崎

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 辰雄が絞めた鶏肉や片手間に作っている野菜を乗せて、庭先でバーベキューをする。三人で前はしたが今度は人数が多いので、ドラム缶を切ったバーベキュー用のものを取り出してきたのだ。
「美味しい。」
「塩だけでも美味いな。でもこのタレも良い。これ幾子さんが作ったの?」
 棗は幾子に聞くと、幾子は笑いながら言った。
「簡単な焼き肉のタレ。醤油とか砂糖とか、ニンニク、生姜、ネギなんかを入れてつけ込んでおくだけ。」
「でも美味しいよ。砂糖は白砂糖じゃないんだろう?」
「そう。三温糖かザラメ。さすがにこの辺じゃとれないから買うんだけど。」
 一番下の和の様子を見ながら、幾子もそれを口に運ぶ。若くは見えるが、母親の顔だった。
「子供たちも元気だな。」
「あぁ。一時は、どうなるかと思ったけどな。」
 数年前まで、済は都会の町でバーテンダーをしていた。そこで出会ったのがソープで働いていた幾子。程なく雅が出来て、結婚した。
 それでも済はずっとバーテンダーをしていた。酒は飲めないが、人とのふれあいは面白いと思っていたから。
 数年して成子が産まれ、そして和が産まれたとき、雅の様子がおかしいことに気が付いた。
 新しい小学校へ行かなくなったというのだ。どうやら原因は、済がバーテンダーをしていること、そして幾子が元ソープ嬢であることが学校でばれたらしい。
 保護者からのクレームが来て、幾子は気丈に振る舞ってはいたが雅はそうは思わなかった。
 結局逃げるように、この育った町に戻ってきた。だがそれが良かったのかもしれない。雅も徐々に学校へ行くようになったし、成子も今年から学校へ行くようになった。もちろん、その学校でも幾子が元ソープ嬢であることは、口にしないがみんな知っている。だがそれを責めることはない。
「あたしね。歌が上手いって言われたの。」
 成子は無邪気に菊子に言う。
「そう。音楽の時間に?」
「うん。この間の合唱祭でね、一人で歌うところを任されたの。」
「すごいじゃない。」
 その言葉に辰雄は少し怪訝そうに二人を見ていた。だが幾子は何も知らないように、笑いながら言った。
「声が大きいのよね。この子。本当に歌を勉強させようかと思ったわ。そしたら、西川の家で二人目の歌手が出るのに。」
 その言葉に辰雄が焦ったように言った。
「幾子。」
「何?」
「……。」
 それ以上言わせたくなかった。だが幾子も済も何も知らないのだ。普通の会話なのだから。
「歌手がいらっしゃるんですか?」
 あまり興味はなかったが、とりあえず聞いてみたという所だろう。菊子は幾子にそれを聞いてみた。
「西川天音って知らない?」
「えっと……。」
 歌は歌っているが、ほとんど歌手名やバンド名を知らない菊子だ。夏の初めまでに知っていたのは、母の歌と、父が関わったオーケストラの演奏だけだったのだから。
「知らないわよね。オペラ歌手だもの。」
「オペラ?」
 母と同じジャンルなのか。菊子はそう思いながら、その名前を思い出そうとしていた。だがわからない。
「でももう亡くなってるんだけどね。何年前だっけ。辰雄さん。」
 辰雄は内心焦っていた。その名前を菊子の前で言って欲しくなかったからだ。
「十八年前。姉が三十の時。」
「お姉さんだったんですか。」
 驚いたように菊子は辰雄に聞くと、辰雄はちらりと棗をみる。しかし棗は何も気が付いていないように、その肉を口にしていた。
「あー。辰雄。今日卵わけて。それから済も塩をくれよ。」
「予約入ってんだけどな。」
「わかってるって。そこは親戚のつてで。」
「わかったよ。仕方ねぇな。」
 美味くごまかした。だが菊子は箸を押いて、少し考えを巡らせているようだった。

 サーファーもいない海岸で、済は海水を巻いていた。これで海水を濃縮させて、この上澄みの砂を釜で炊くのだ。
 海水を組んできては浜に撒く。その行程を武生はじっと見ていた。その様子に菊子が声をかける。
「どうしたの?」
「世界が見たいって思ってたよ。知加子がそうしたように。でも俺、この国のこともまだ何もわかってなかったんだな。」
「……。」
「俺、食が細くてさ。食べれるものなんかも結構限られるし。」
「そうだね。アレルギーがあったんだっけ。」
「うん。でも……。こうして食材の一つ一つ、血の滲むような努力と汗で作られてるんだね。」
 菊子はその様子に、少し笑った。
「そうだね。大将が言ってたわ。そうして作られているものだから、粗末にしてはいけないって。」
「……すごいな。もっと……見てみたいと思う。」
 その様子に、棗は少しほっとしていた。武生を連れてきて良かったのかもしれない。まさか事情を知らないとはいえ、幾子が西川天音のことをいうと思ってなかった。
 だが今日は菊子を抱けないだろう。それだけが悔やまれる。夕べ蓮と一緒に眠ったのだ。何もないわけがない。あの体を好きにしたのだ。自分はキスすらまともに出来てないのに。
 そのとき棗の携帯電話に着信があった。その相手に棗は少し笑う。
「おー。今起きたのか?んーもう少ししたら帰る……。わかってるよ。武生も一緒だって。手なんか出せるわけねぇだろ?」
 その棗の様子に済は少し苦笑いをした。
「菊子ちゃんは、彼氏がいるんだね。」
「はい。」
「束縛激しい?」
「いいえ。私も家のことがありますし、彼も仕事があるので。」
「尊重し合ってるんだね。良いことだ。料理人になりたいっていってたけど、彼氏も料理人?」
「いいえ。ライブハウスの方です。」
「へぇ。じゃあ、音楽をしているんだね。」
「バンドに誘っていただきました。」
 海水を撒いていたが、その言葉が気になって手を止めてしまった。
「バンドで?楽器は?」
「歌ってます。あと……あまり慣れてはいないんですけど、キーボードも。」
「……歌?菊子ちゃん。名字、なんていうの?」
「永澤です。」
「永澤……?」
 その名字に心当たりがある。そして済は、菊子に近づいてきた。
「両親も音楽をしてる?」
「はい。永澤剛といいます。ピアニストで指揮を降ることもあります。母はオペラ歌手です。永澤英子と言います。」
「……永澤英子……。」
 その名前に電話をしている棗を見た。電話を切ったのを確認すると、済は彼に近づく。
「棗。ちょっと……お前……。わかってて辰雄に会わせたのか?」
 携帯電話をポケットにしまうと、棗は少し笑っていった。
「いずれわかることだろう?」
「けどな……。」
 その様子を武生は不思議そうに見ていた。だが真実はまだわからない。
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