触れられない距離

神崎

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一人飯

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 米や調味料は買ってきているので、食材だけだった。それでも買いすぎたような気がする。いつも多人数で作っているのだ。その調子で買っていると食材が無駄になる。そう思いながら沙夜は食材を冷蔵庫に入れていた。その時携帯電話が鳴る。
 手を止めて携帯電話の主を見ると、それは奏太だった。
「もしもし。え……あ、そう。ありがとう。」
 奏太はやっとレコーディングが終わったようで、今会社に帰ってきたらしい。オフィスには海外のお菓子があるのを見て、奏太は沙夜が帰ってきたのがわかったのだ。まずはそのお土産の礼を言われ、沙夜はそれに応えた。会社に復帰してからでも良いのでは無いのかとは思ったが、別に要件があるのだろう。
「それは明後日。会社に行ってからね。翔はスタジオに居るはずだから、連絡をしても良いし。……嫌よ。休みの時なんかに仕事の話しはしたくないから。」
 担当しているバンドの音源は、翔が作った。歌詞は芹が書いている。それをレコーディングしたので沙夜に聞いて欲しいと言ってきたのだ。だが沙夜は休みに入っている。休みの時には仕事の話をしたくないというのは奏太も知っているのだろうに、どうしてそんなことを言って来たのだろうか。
「……益々嫌よ。来られたくない。」
 住んでいる所へ行きたいと言い出した。それも想定内だ。奏太はきっとそう言って来ると思っていた。だが沙夜は翔にも言っていない。それを奏太に言うのは嫌だと思う。
「外も嫌。もう食材を買っているし、ここで食事をするつもりだから。えぇ……明日も休みよ。別に関わらないで。」
 詰めた言い方をわざとした。そうでは無いと奏太は引き下がらないと思ったから。そして奏太は相変わらず、紫乃と繋がりがあるのだろう。そう思うと益々口を割りたくない。
 電話を切りため息を付いた。
 これだけ周りが嫌がっているのにどうして紫乃と繋がりを持とうとするのだろうか。体の関係が無いと言っていたのが嘘に感じる。
 その時また携帯電話が鳴った。今度はメッセージだ。その相手に思わず顔が緩む。相手は一馬だった。歩いて行ける所にスタジオがある。帰ったらこちらへ来ないかということだった。一馬は一度家に帰ってスタジオへ行くらしい。やはり思っていたが、家が居づらいのかもしれない。だがそれも一馬の蒔いた種なのだ。
 沙夜が芹と顔を合わせづらいのも自分が蒔いた種だ。まだ結婚を視野に入れているのかも知れないが、まだこの状態では結婚など出来ない。

 沙夜の住もうとしているウィークリーを出た一馬は、そのままスタジオへ行って楽器を手にすると録音スタジオへ行く。ビジネス街にあるそのスタジオは、一見音楽スタジオには見えないような建物だが、防音もしっかり効いていてしっかりとしたスタジオだった。
 外国へ行く前に録音したスタジオで、「二藍」の録音の仕方とは違い別々に音を入れていく方法をとっている。役者をしているが歌手デビューをするという男の曲で、思ったよりもアップテンポのノリの良い曲だった。だが一度録音をしたとき、どうしてもプロデューサーも一馬自身も納得せずに帰ってきてやり直しをするという話になっていたのだ。
 今日はすんなりと録音を終えられた。その音を聴いてプロデューサーは納得したようにOKを出す。
「ありがとうございました。」
 ヘッドホンを外して、椅子から立ち上がる。そして演奏ブースから録音ブースにやってきた。
「すいません。二度手間をかけてしまって。」
 一馬はそう言うと、その男の若いプロデューサーは少し笑顔になる。
「時間に余裕はあってので大丈夫ですよ。でも珍しかったですね。花岡さんが録音をやり直すなんて。」
 手元で録音した音楽を重ねているようだ。悪い曲では無さそうだし、歌う人のネームバリューもありそうなのでこの曲は売れるかも知れない。感覚的にはデビュー仕立ての「二藍」のイメージで、遥人がそういう感じだったのだ。今は「二藍」ありきで遥人は活動をしている。この男もバンドを組むといったら遥人と同じような立場になるのだろうか。
「外国へ行く前はバタバタしていたこともあって。すいません。言い訳ですけどね。」
「別にそれを責めているわけじゃ無いですよ。時間に余裕があったし、それは別に良いんですよ。それに、花岡さんだったら期待に応えてくれるって評判が良いですから。」
「そんなに期待をされてもですね。」
 他のスタッフがスタジオを出て行く。そして録音ブースには二人きりになった。そこでそのプロデューサーが口を開く。
「こういっては何ですけど、スタジオミュージシャンというのは割と飽和状態にありますよ。テレビやインターネットから格好よく演奏したり歌っているのを見て、自分もあぁなりたいと思う人は多い。専門学校でも音楽の専門学校というのはあるし。」
「はぁ……。」
 昔は音楽を学ぼうと思ったら大学へ行かないと無かったが、今はそんなモノがあるのだ。その分、そういう所へ行ってもプロになれるかといったら微妙なのだろう。普通はそういう所を出ても、良くて楽器関係の仕事に就けたり全く違う職に就く人だって居る。だからスタジオミュージシャンというのが多くなるのかもしれない。
「バイトと掛け持ちをしてスタジオミュージシャンとして演奏し、歌詞カートの端にでも名前が載れば良いと思っているんでしょうね。あぁ、この曲の歌詞カードにも花岡さんの名前と「二藍」の名前は載りますけどね。」
「それはありがたいです。」
 自分の名前はともかく「二藍」の名前が載るのはありがたい。こうやって少しずつでも「二藍」の名前がクレジットされて知られるようになってくれて「二藍」の音源を手にしてくれればいい。つまり宣伝みたいなモノなのだ。
「録音し直したいとか、そういうのも結構ありますよ。別の日にしてもらいたいとか良く言われます。だから時間に余裕を持っていつも行動していますから。」
「だったら今回のも……。」
「この歌う男は今ドラマの撮影をしていますからね。それからレッスンをしてからなので、もう少ししないと歌は録音出来ませんし。」
「なるほど。」
 こういう事は現場でよく見ていたはずだったが、そういう気を遣っているプロデューサーは珍しいのかも知れない。元々はこの男は映像なんかの編集をテレビだったか映画だったかの編集をしていたのだ。だから気が長いのだろう。
「でも花岡さんは安定している方ですよ。だから他の人も使いたがるんです。録音してても安定してるし、曲に合わせていつも弾いてくれるし。」
「あ……それを期待してくれていたなら、すいません。今回のことは。」
 すると男は手を振って言う。
「いいえ。いいえ。だから珍しいと思ったんですよ。何かありました?」
「何かとは?」
 すると男が一馬を見上げて少し笑う。
「いつでも安定して弾いてくれているのに、今回はあまり安定していなかったように思えます。音楽はパソコンなんかで作ることももちろん出来ますけど、自分の手で奏でる楽器というのは自分の精神状態が出ることが多い。体調とかにもよるし。調子が悪かったですか。」
 そう言われて一馬は少し戸惑った。あの時、沙夜と言い合いをしてそのままここへ来たのだ。そういった意味では安定していなかっただろう。
 まずい。奥さんと言い合いをするくらいならそれはそれと割り切れていたのに、沙夜は割と怒りの沸点が低いこともあって一馬自身もその怒りにまかせてしまったのかも知れない。それが音楽に出るというのは、どう考えても良くなかった。
「あ……。そうですね。少しプレッシャーには思っていたかも知れませんね。外国へ行く前でしたし。」
「リー・ブラウンでしたっけ。どうでした?」
「相当厳しいことを言われましたよ。俺の音には個性が無いと言われてね。」
「ははっ。噂通りでしたね。」
 この若いプロデューサーもリーに憧れているのかも知れない。
 それもそのはずで、リー・ブラウンは見た目通りだが東洋系の血が混ざっている。その血が濃いのか、見た目はこちらの人にしか見えない。息子であるケビンも同じようだ。そして向こうでは未だに白人至上主義が根強い所もある。その中でリーのように第一線で音楽に携われる人というのは珍しいのだ。男もそれを目指しているのだろう。今は小さい仕事でも手を抜きたくないと思っているようだった。
「それでは失礼します。」
「仕事がまだ?」
「今日はもう終わりです。息子を迎えに行きたいので。」
「そうでしたね。ではまたお願いします。」
「こちらこそ。」
 そう言って一馬はスタジオを出て行った。その後ろ姿を見て、男はため息を付く。尻尾を出さない男だ。そしてイメージ通りの男だと思った。
 家族思いで、仕事にストイック。それ以上のことは無い。そう伝えないといけないだろう。「そんなはずは無い」と言われかねないが、これ以上突っ込んだことは一馬に聞けない。あまり聞いて、一馬から嫌われてしまったら一馬と同レベルのベーシストを見つけるのは困難なのだ。ミュージシャンが飽和状態のこの世界ではあるが、一馬ほど弾ける人で、尚且つ安定している人は少ないのだから。
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