守るべきモノ

神崎

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一室

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 着慣れないスーツを着てネクタイを締めた伊織は、レコード会社で打ち合わせをしていた。普段はこんな格好をしないが、CDジャケットを手がけて欲しいと伊織を指名したアーティストはすでにキャリアが三十年近いバンドだった。そのためビジネスとして来て欲しいという依頼に応えてのこの格好だったのだ。
 伊織を指名してきたのはそのバンドのメンバーであるキーボードの女性が、倫子のファンだったかららしい。サンプルのCDを手にしてレコード会社を出る。芸能人とは付き合いはなかった伊織がきっと初めてあった人たちかもしれない。雰囲気も姿も立ち振る舞いも別次元の人だと思った。ナチュラルなのに隙がない。それに音楽に対する姿勢が違う。
「ジャケットはCDの顔です。手にとってもらえるかどうかは、あなたの腕にかかってますから。」
 プレッシャーがハンパないな。出せば名前だけで売れそうなものだが、彼らだって必死なのだという。いす取りゲームのこの世界では、みんなが口を揃えて言うように「あなたの代わりはいるのだから」という世界だ。
「代わりかぁ。」
 そうつぶやいて、伊織は駅へ向かった。そういえば大学の同期で、デザイン会社に就職をしていたがすぐに見切りをつけてほかの職に就いた人が言っていた。
「別に私じゃなくても良いって思ったし、代わりがいるんならそれで良いじゃない。」
 自分は代わりになんかなりたくなかった。だから倫子を抱いた。なのに今日、倫子が春樹とデートをすると聞いて嫉妬すると思っていたのに、すんなり行ってらっしゃいと手を振れた自分が驚くほど冷めているのに気がついた。
 心変わりをしている。そんな自分に性根がないと言われても仕方がないのだ。実際そうなのだから。
「富岡さん。」
 駅のホームで声をかけられた。驚いて振り向くと、そこには真矢の姿があった。
「芦刈さん。今日は仕事じゃないんですか?」
「仕事で打ち合わせに来たんです。この間のイベントの評判が良くて、別の図書館から声がかかって。」
 真矢が手がけた図書館のイベントは大盛況だった。普段は勉強をするだけしか用事のない中高生がイベントに足を運び、本を手にしているのをほほえましく思っていた。
「赤松日向子先生の本がとても人気だったそうですね。」
「赤松先生からもお礼の手紙が来て……やって良かったと思います。本をもっと身近になって欲しい。今度はミステリーをしてみようかと思って。」
「ということは倫子の本も?」
「中心になるかもしれませんね。今一番ミステリーの中では売れているから。」
 行き先は一緒だった。ホームまで二人で歩いていく。普段の格好とは違う伊織に、真矢は少し動揺していたのかもしれない。
「スーツ。珍しいですね。」
「さすがに大手のレコード会社なので社長からスーツの方が良いって言われましたけど、ちょっと浮いてたかなぁ。」
 周りの人はカジュアルだった。アーティストもTシャツやジーンズだったのだから。だが本来営業先に行くのだったらこういう格好が一般的だろう。だがあのレコード会社に呼ばれるときは、普段の格好で良いと言われた。かしこまるところではないのだ。
「レコード会社?」
「CDのジャケットを手がけて欲しいって言われました。あまりしたことがないんですけどね。あのバンドのキーボードの女性が倫子のファンでその表装を見て手がけて欲しいって依頼があったんです。」
「小泉先生の……。」
 春樹は倫子とつきあっている。それが嫉妬する理由だったのに、なぜか今はそれがない。春樹に対する気持ちが薄くなったのだろうか。それよりもこうして隣に伊織がいる。それだけで心が浮つきそうだ。
「小泉先生の本は誰でも読めるってわけではなさそうなのに。」
「え?」
「ミステリーって殺人事件だけではないんです。なのに小泉先生のモノは、殺人とセックスが多い。それは、読み手を選ぶと言うことも考えられます。殺人も残虐なモノが多いし。」
「そうですね。嫌悪感を示す人も多いでしょう。でも受け入れられている。世の中の流れに上手く乗っているんでしょう。俺もそうですよ。俺も依頼が今は多いけれど、上手く乗っているからかもしれない。明日からいらないって言われるかもしれないって思いながら、今出来ることをやっているんです。」
 きっと伊織は会社に席があるからまだましなのだ。倫子にはそれがない。もっと不安定なのだ。
「そうですね。そうかもしれませんね。」
 本を読むのは好きだが、紡ぎ出そうとは思わなかった。図書館と言うところに守られている真矢にはそんなギャンブルみたいな生活は出来ない。
 こうして保守的に守りながら生きていくのだろうか。決して手を出されることもなく、セックスが恐怖の対象になっている男を見守ることしかできないのだろうか。
「……富岡さん。あの……。」
 ホームに電車がやってきた。真矢の声がかき消される。そして電車が到着して、ドアが開くと真矢はそのままその電車に乗り込んでいく。もう恥ずかしくて、顔も見れなかった。そして空いているいすに座る。すると伊織もその隣に座った。
「富岡さん。」
「いつが良いですか?」
 聞こえていたのだ。真矢の頬が赤くなる。
「体調とかもあるんでしょう?」
「……今日……。」
 ちょうど良かった。春樹も倫子も夕食が必要なのかわからない。用意が出来ないといえば泉は礼二の所で食事をするだろう。
「食事をしていきましょう。酒無しで。」
「だったらいつもの居酒屋じゃない方が良いですね。どこが良いかな。」
「居酒屋だったら飲みたくなるから?」
 すると真矢は少し笑う。
「酒豪みたいにいわないでくださいよ。」
 倫子も同じ事を言っていた。なのに倫子とかぶらなかった。その顔が綺麗で愛しくて、思わず伊織はその手に触れた。
「駄目ですよ。こんなところで。」
「今更?」
「公共の場ですよ。」
 少し笑って、伊織は手を引いた。そして流れる景色を見ていた。
「一緒にいても良いですか。」
 電車の雑音に紛れて、真矢はそういっていた。それはどういう意味なのかわかる。だから断らなかった。
 なのに二人は愛の言葉すら口にしていない。倫子とセックスをしたとき、伊織は一方的に口にした。伝わらないとわかってても伝えた。その気持ちが無くなったと思いたくない。だがこの隣にいる女性と、体を重ねたいと思ったのは事実だった。
 もしかしたらかぶるかもしれない。あの暑い国で強姦されたように童貞を捨てたあの母親の姿とかぶるかもしれない。
 それでも抱きたかった。
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