古い家の一年間

神崎

文字の大きさ
16 / 49

3

しおりを挟む
 どうして抱きしめたりしたんだろう。わからない。
 あのあと楓は脱兎のように部屋を出ていったけれど、次の日からはまた普通だった態度も、混乱させるようだった。
 忘れよう。そう思っているのに、パソコンをおいている机の上に置いてあるビーズのピアスがあのときのことを思い出す。
「…さん。」
 楓はずっと恋人がいないと言っていた。だからあぁいう行動は彼が求めるのであればそれで言いと思う。だけど私はそこまで彼を好きなのだろうか。
 違う…と思う。どうしても目に浮かぶのは、あの春の海のこと。強引にキスをされ、煙草とコーヒーの匂いのするあの体。
「南沢さん。」
 はっと気がついて、横を見る。心配そうに田宮さんが声をかけてくれたのだ。
「まだ校了には時間があるわ。そこまで根を詰めなくてもいいのよ。」
「はぁ。」
 田宮さんは時計を見る。私もそれにつられて時計をみた。
「あぁ。もうこんな時間。もうすぐパン屋さんが来るわね。」
「今日は水曜日でしたか。でも外のこの騒ぎに来ますかね。」
「くるわよ。佐原君は。ここに来る楽しみがあるんじゃないの?」
「はぁ。」
 ちらりと阿川さんを見る。相変わらず真面目にパソコンの画面を見ているようだった。
 やがて表に車のエンジン音がした。そして会社の入り口を開ける男。
「どうも、「向日葵」です。」
「お疲れさまです。」
 田宮さんが一番に財布を持って外へ向かう。
「阿川さんは?」
「そうですね。もう少ししたら。」
 社長も外にでるので、私も財布を持って外にでた。
 会社の横にある駐車場に、止められている小さなバン。そのスライドドアを開けると、ビニールに包まれたパンが所狭しと置いてあった。あんパンやジャムパンのようなオーソドックスなパン、焼きそばパンやウィンナーの入ったホットドック、バナナパンやチョココルネなんかもある
「食パンを一斤と、バナナパン、チーズパンをもらおうかしら。」
 田宮さんはこういうとき決断が早い。おそらく食パンは家族の分だろう。
 確かにスーパーや商店でもパンは買えないことはないが、ここのバンは焼きたてということもあってとても美味しい。
「…これと、ガーリックトーストと…。」
 パンを次々に選ぶと、楓は驚いたように私をみた。
「そんなに食べる訳じゃないよね。」
「北川さんと東野さんの分も含まれてます。」
「あぁ。」
 社長とそう言う話をしていると、その売り子である佐原君が声を上げた。
「光ちゃん。いないんだ。」
「えぇ。」
 驚いて私は佐原君を見る。まさか光を呼び捨てにしているとは思わなかったから。
「うちの社員とは仲がいいのかな。」
 楓も選んでお金を払うと、佐原君はしまったと口を押さえた。
「夜たまーにね。会いますよ。町で。」
 たまーにという言葉を強調する。こういうときはたまにではないことはみんな知っていた。
「まぁ、東野さんはよく外にでているみたいだからね。だけど遅刻はしないから何も言わないけどね。」
「いい大人なんですから、そこまで縛らなくてもいいと思いますよ。この会社、社員寮には言ってたらそんなところまで縛るんですか。未成年じゃあるまいし。」
 佐原君は、そう言ってパンを社長に渡す。
 その言葉に社長はかちんと来たようだが、顔では笑顔を作っていた。
「束縛しているわけじゃないよ。ただ眠そうな顔で取材はしないで欲しいと思っているだけだ。」
 はらはらする。そう思いながら、私はその一触即発の場面を眺めるしかなかった。
 そのとき一台のバンが駐車場に入ってきた。白いバン。それは社用車だった。
「ただいまー。」
 その空気を何にも考えずに、光は降りてきた。そして遅れて律も降りてくる。
「パン屋さんが来てるときに帰ってこれるなんてラッキーね。ねぇ北川さん。」
 すると律はその空気をいち早く悟ったのか、何も言わなかった。
「…あ、東野さん。パン買ってますよ。言われてたヤツ。」
「コルネ?マジ?やった。パン見せて。律の分もある?」
「えぇ。言われてたとおり北川さんのもありますから。」
 そう言って私はその場から逃げようと、光を連れて家の中に入った。
「あ…。」
 パン屋の佐原君が何か声をかけそうになっていたが、それを律が止めて追加のパンを何か買っていた。
 楓だけはにこにこと笑っているが、その裏側の顔はわからない。

 その夜。私はお風呂に入って、部屋に戻ろうとしたときだった。光の部屋から、光が出てきた。仕事の時とは違う服装で、パンツが見えそうなミニスカートを穿いている。
「どっか行くの?」
「うん。合コンに誘われてさ。」
「平日の夜に?」
「まぁね。相手は美容師さんだから、平日休みなんだって。」
「そう。」
「周も行く?別にかまわないわよ。人数増えるのは。」
「別にいいわ。興味もないし。」
 そう言って自分の部屋に戻ろうとしたときだった。光が声をかける。
「興味本当にないの?それとも他にいるから?」
「他に?どういうことかしら。」
「好きな人でもいるのか。それか彼氏でもいるのかってこと。」
「いないわ。好きな人も…。」
 心がずきんと痛む。だけど光にだけはばれてはいけない。
「いないから。」
「そう。あたしさ、春に律に振られたんだけど。」
「そうだったの?」
「だけど律だけが男じゃないからって、友達から言われてさ。今日初めて合コンに行くの。」
「そうだったの…。」
 律を忘れるために行くのだろうか。そんなの失礼なんじゃないのだろうか。
 何てことを言えるわけがない。
「だからさ、周ももし失恋でもしたって言うんだったら、他の男を見るために合コン行くのも手だよ?」
「そうね。」
「ってことで行きましょ?」
 手を握って私を連れ出そうとする。しかし私は、首を振った。
「もう寝ようと思ってたから。ごめんね。」
「まだ九時だよ?」
「なんだか最近ずっと眠くって。」
「そう。わかった。じゃあね。」
「気をつけて。」
 手を離して光は階段を下りて出て行く。私は自分の部屋に入ろうとしてドアノブに手をかけた。そのとき、後ろのドアが開いた。そこには律がいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【R18】幼馴染がイケメン過ぎる

ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。 幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。 幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。 関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

処理中です...