古い家の一年間

神崎

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 その日の夜は熱帯夜だった。基本、個々の部屋には冷暖房はない為、蒸し暑くて寝れそうになかった。気休めの扇風機はぬるい風ばかりを送ってくる。
「あー暑い。」
 お茶でも飲もう。
 ベッドから降りて、私は部屋を出た。暗い廊下を渡り、階段を下りる。そしてキッチンにたどり着いて、冷蔵庫をあけるとお茶を取り出した。
「誰だ。」
 ドキッ。
「きゃ…。」
 口をふさがれる。その手を覚えている。
「…律?」
「周か。冷蔵庫で何をしていたんだ。」
「眠れないから、ちょっとお茶でも飲もうと思って…。」
「暑いからな。」
 暗い夜目になれると、彼がどこにいるくらいはわかる。
「律も?」
「いいや。俺は花火がどの辺で一番綺麗に移るか、ちょっと調べに行ってた。」
「あぁ。そう言うこと…。」
「今日は満月だった。」
「本当に?あぁ、なんか涼しそうなイメージがあるわ。」
「…どうせ寝れないんだろう?外の風に当たれば寝れるかもしれないな。」
「それもそうね。」
 彼の前を通り、外へ行くドアに手をかけた。
「ばか。一人で行くな。」
「え?」
「変なヤツがいるかもしれないんだぞ。だからお前は危機管理がないって…。」
 私は少しうつむいた。
「そうね。そうかもしれないわね。でもすぐそこだから…。」
「周。」
「いいのよ。律。ついてこなくても。また楓に私を特別扱いしているって言われるわ。」
 それに光に悪い。光があの合コンのあと、暗い顔をして帰ってきたのを私は見ていた。光はまだ律のことを想っているのだと実感してしまったから。
 ドアを開けると、私は外へ出て行った。すると私を追いかけるように、律もやってきた。
「律。」
「俺がついて行きたい。それも悪いだろうか。」
 そんなことない。そうなってくると個人の自由になってくるのだから。
 私は何も言わずに、海岸へやってきた。そこは涼しい風と波の音だけが響いていた。もう少し早い時間ならカップルもその辺にいたのだろうけれど、もう十二時を過ぎている。カップルはもうその辺のホテルに行く時間だ。
 私が歩いている後ろに、律が歩いている。その間には何もない。そう、何もないのだ。
 私たちが恋人だった時期はない。だったら何なのか。私たちの関係。それは「被害者の娘」と「被告人の息子」だった。
 母を殺された私は同情され、哀れみの目で見られることになった。
 対して律は「被告人の息子」だったため、形見は一時狭かった。石を投げられ、陰険ないたずらを受けることもあった。しかし警察の必死の捜査の結果、彼の父親は「無罪」になった。「誤認逮捕」だったのだ。
 しかし未だに私の母を殺した人はまだわからずじまいだった。
 ふと足を止める。空を見上げると満月が足下を照らしていた。
「律。」
 私は初めて彼に声をかけた。
「どうした。」
「…あの日も満月だったって言ってた。いつもの夜よりも明るくて、人が通ればわかるはずだって警察官も言ってた。」
「あぁ。あの事件のことか。」
「だめね。最近は、思い出さなかったのに。急に思い出してしまって。」
 少し距離を置いて、彼は私に話しかける。
「俺がいたら、思い出すか。」
「…関係ないわ。」
「そうか。それならいいが。」
 そう何も関係ないのかもしれない。私は律の方を振り向いた。
「…どうしたんだ。」
「光のこともあって…親のこともあって…私は、あなただけは好きになってはいけないと思っていたのよ。でも…。」
「…。」
「だめね。意志が弱くて。」
「意志が弱いってことなのか。正直にならなかっただけじゃないのか。」
「…そうかもしれないわね。だからこんなに苦しい。」
 駆け寄りたい。でもそれは出来ない。
 抱きしめられ、キスをされたとき、どれだけ嬉しかっただろう。それすら正直になれなかった自分がいた。律は正直になってくれたのに。
「今更…何を言っているのかしら。ごめんなさい。忘れて。」
 そう言って私はまた歩こうとしていた。すると彼の方から駆け寄る。そして私の二の腕をつかんだ。
「…周。また逃げるのか。」
「逃げないと、ここにいることは出来ないから。」
 捕まれた腕があたたかい。言葉とは裏腹だった。私を呼ぶ声がこんなに愛おしいのに。
「律。あのとき、再会しなければ良かった。あのまま違う人生を歩んでいたら良かった。」
「本心か?」
「…。」
「違うんだろう。お前は…。」
 そのとき後ろから人影が見えた。それは背の高い人だった。律からは見えないらしい。
「鍵をかけてくれって言ったよね。」
 それは楓だった。声をかけられて律も振り返る。
「…すぐ戻るつもりだった。」
「眠れないのは君らだけじゃないんだよ。僕だってそうだ。」
「楓…。」
「律。僕も正直に言わせてもらおう。僕はね、君らの関係を最初から知ってた。」
「え?」
「十五年前、起こった殺人事件。その被害者の娘と被疑者の息子。でもそんなことは僕には関係ない。」
「…。」
 すると楓は私の手を掴んでいる律の手を引き離した。そして自分の方に引き寄せる。
「僕は周が好きだ。」
 まさか律の前で言うと思っていなかった。私は驚いて楓を見上げた。
「律。君よりも僕の方が可能性があると思わないか。」
 それは楓の確固たる自信だったのかもしれない。私の肩を掴むその手に力が入っていたから。
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