9 / 24
後悔を背負う人(三)
しおりを挟む
うーん。ここもいいけど、あちらも捨てがたい。
あそこのお店は雰囲気がいいけど、デザートの種類が。だが依頼人と会うときに、デザートを食べていいものか、いや、だが行っておいて、食べないなんてお店に失礼だし。
翌日の昼下がり。
自分だけの都合を依頼人との約束にどうやったら軋轢なく押し込めるか、わたしは懸命な努力をしていた。
こういう時の集中力は我ながら見事だ。
妙音鳥の一軒家が立つ場所は東京都江東区の清澄白河だ。
美術館があるからか、近年はカフェがぽこぽこと生まれ、週末はカップルでたいそう賑わっている、と妙音鳥から聞いた。
だがたくさんのカフェがあるにも関わらず、わたしの浮ついた欲望を満たすカフェは意外と少なかった。
買い物ついでに青い名前のカフェを覗いてみたがやはり混んでいて、人と会うには不向きだ。
依頼人とは来週の平日。
どこかの曜日で会うことになったのだが未だ場所は決まらず、時間だけが過ぎていった。
わたしは気を取り直して、改めて携帯の画面に向き合った。地図の上をあっちこっちと移動しながらカフェを探す。だがどれも何ともピンとこない。やはり自分の私利私欲がいけないのか、と放棄を考え始めた。
「あー、どうしよう」
誰もいない書斎のソファーにだらしなく深く座り、両手両足を伸ばす。ローテーブルは横に退けたから、こんな姿勢も可能だ。上を向いて天井の板の継ぎ目を見ていたわたしは、それがまるで道のように思えてきた。所々に小さな節目が散見していて、なんだかそれは目印に見えてくる。
あの地味な節目がこの家だとすると、板の継ぎ目を沿って進んだ先にあるあの節目は……。
わたしは腹筋の力だけで、ムクッ、と起き上がり、手に持つ携帯でさっと検索した。
「うん。そうだよ! ここにしよう」
私欲を捨て去れないわたしは、誰もいない部屋で満足げに予約の電話をかけた。
「えっと……あ、これこれ、美味しそう! でも依頼人の方との面談だし、『いきなり秋を先取り甘栗ソースのホットケーキ』を食べるのはちょっと……でも季節感は大事よね。日本人だもの。え、どうしよう。やっぱりアイスコーヒーだけがいいのかな」
水曜日の午後三時。カフェで依頼人と向かい合って座るわたしに妙音鳥の肘が飛んできた。
え、とわたしは横を向いたが、妙音鳥の顔はクーラの効いたカフェのように涼しく、その求めは分からない。依頼人の顔を見ると、そこにはなぜか苦笑が浮かんでいる。
何が起こったの?……近いはずの距離は遠く感じて、軽いはずのメニューはずっしりと手にのしかかった。
「カノコ、言いにくいんだが……頭の中が全て漏れているぞ。それに食べたいなら、ホットケーキ、注文したらいいよ。数時間前にパスタを食べたはずだけどね……うん、確かに、っく、ふふ、いや、ごめん。そりゃ、季節は大事だよな」
薄皮の気遣いで爆笑を隠し、ぎりぎり堪えている妙音鳥。
先頭打者ホームランを見事に飛ばしたわたしは物理的な身体から抜け出して天に登る勢いだった。本日の依頼人、島崎光輝の着ている白いシャツが神官の装いに見えてくる。妙音鳥の動く唇は鎮魂の言葉を唱えているようで、ついにその時が来たようだ。
「……カノコ。カノコ————。どうしますか? 注文」
名前は重たい。呼ばれて魂の尻尾は引っ張られて、わたしはようやく元に戻る。
「あ、ふえ、」
だが唇と喉はまだ無理だと訴えている。その様子に妙音鳥はわたしを放り出して、依頼人に注文を尋ねた。
「島崎さんは、何にしますか?」
「あ、はい。それじゃ、僕はホットコーヒーでお願いします」
「分かりました」
妙音鳥は店員に声をかけ、島崎と同じホットコーヒーを注文した。
え、わたしは置いてけぼり? ちょっとまってよ!
急いでもう一度メニューを見たが……やはり、栗の誘惑からは逃れられなかった。秋の味覚の王様は偉大だ。先取って御免なさい。
なんとか呂律が回り、注文を執り行う。ちらっと横目で妙音鳥を見ると、クリームソーダじゃなくていいのか、と言われて一瞬迷う。でも乗っているアイスとホットケーキなんて、どう考えてもアレにまっしぐらだし、それだけは避けねばと歯を食いしばってアイスコーヒーにした。
妙音鳥が島崎に話しかけた。
「今日はこちらまで来ていただいて、ありがとうございます」
からっとした梅雨明けの空のような好青年がわたしの瞳に映る。
先ほどから漏れ出る微笑みもタイミング良く向けられていて、島崎は程よく場の空気を読める人だと思った。
「いえいえ。この辺はあまり来たことがなくて、むしろこの機会に来れて良かったです。会社の同僚はいいカフェがあると、よく来ているみたいですし」
「店が増え続けていますからね。この近くに、コーヒーのフルコースを出すカフェもあるんですよ。少々お高いですが、十分に価値を感じられます。味だけでなく空間も楽しめるという……」
え、聞いてないわよ、わたしもそこ行きたい、と思っていると、突然に妙音鳥が顔を向けた。無意識にいわ猿のポーズを取ったわたしに、妙音鳥はメモを取るようにと告げた。そうだ、今こそ助手の仕事をしなければ。
妙音鳥から貰ったスミレが表紙のジャポニカ学習帳を開き、ピンク色の可愛いシャーペンを握りしめて果敢に書記に挑む。
「先日はメールの返信が遅くなってしまい、失礼しました。僕は妙音鳥隼人と言いまして、人の後悔を消化する仕事をしています。こちらはカノコといいまして僕の助手です。ところで……あのサイトはどうやって見つけたのですか? 僕が言うのも変ですが、検索にほとんど引っかからないと思うのですが……」
「そうですね。ちょっと怖い……いえ、不思議なサイトでした。実は友達から聞いたんです。後悔をあとになって消すことができる人がいると。友達も誰なのかは分からなくて、この時点では完全に都市伝説レベルです。ですが、その……僕も消えない後悔があって、嘘でも構わないからとりあえず探してみたくて。必死で探す中で偶然に見つけて、多分、このサイトじゃないかと思って。それでメールをしたのです」
後悔という言葉の辺りから島崎は前かがみになり、口調はすがるような響きを持ってわたし耳に届く。シャーペンを持つ右手が重く感じた。
「サイト、不思議ですか……シンプルでいいと思うのですが。え、なに? サイトが怪しすぎる? カノコもそう思うの?……。そうですか、分かりました。変更を検討しましょうか……失礼しました。何にしても、見つけて頂いてありがとうございます。さて……これは僕の考え方なのですが、後悔は自分の納得具合に依存するものです。後悔の薄め方としてはカウンセリングもあるでしょうし、それも効果的だと思います。ですが後悔自体を消さないと、前に進めない人もいると思います」
「はい。僕を、本当に一人で育ててくれた母と大喧嘩をしてしまって。何度か元に戻そうと話し合いを持ったのですが、うまくいかず…もちろん、僕に責任があると思います」
「そうですか、では、そのお話、詳しく聞かせて頂けますでしょうか」
わたしは少しだけ身構えて、長い黒髪を両耳にかける。
島崎の話は、意外は一言から始まった。
「僕は、実の息子ではないのです」
わたしは思わず固唾を飲んだ。
あそこのお店は雰囲気がいいけど、デザートの種類が。だが依頼人と会うときに、デザートを食べていいものか、いや、だが行っておいて、食べないなんてお店に失礼だし。
翌日の昼下がり。
自分だけの都合を依頼人との約束にどうやったら軋轢なく押し込めるか、わたしは懸命な努力をしていた。
こういう時の集中力は我ながら見事だ。
妙音鳥の一軒家が立つ場所は東京都江東区の清澄白河だ。
美術館があるからか、近年はカフェがぽこぽこと生まれ、週末はカップルでたいそう賑わっている、と妙音鳥から聞いた。
だがたくさんのカフェがあるにも関わらず、わたしの浮ついた欲望を満たすカフェは意外と少なかった。
買い物ついでに青い名前のカフェを覗いてみたがやはり混んでいて、人と会うには不向きだ。
依頼人とは来週の平日。
どこかの曜日で会うことになったのだが未だ場所は決まらず、時間だけが過ぎていった。
わたしは気を取り直して、改めて携帯の画面に向き合った。地図の上をあっちこっちと移動しながらカフェを探す。だがどれも何ともピンとこない。やはり自分の私利私欲がいけないのか、と放棄を考え始めた。
「あー、どうしよう」
誰もいない書斎のソファーにだらしなく深く座り、両手両足を伸ばす。ローテーブルは横に退けたから、こんな姿勢も可能だ。上を向いて天井の板の継ぎ目を見ていたわたしは、それがまるで道のように思えてきた。所々に小さな節目が散見していて、なんだかそれは目印に見えてくる。
あの地味な節目がこの家だとすると、板の継ぎ目を沿って進んだ先にあるあの節目は……。
わたしは腹筋の力だけで、ムクッ、と起き上がり、手に持つ携帯でさっと検索した。
「うん。そうだよ! ここにしよう」
私欲を捨て去れないわたしは、誰もいない部屋で満足げに予約の電話をかけた。
「えっと……あ、これこれ、美味しそう! でも依頼人の方との面談だし、『いきなり秋を先取り甘栗ソースのホットケーキ』を食べるのはちょっと……でも季節感は大事よね。日本人だもの。え、どうしよう。やっぱりアイスコーヒーだけがいいのかな」
水曜日の午後三時。カフェで依頼人と向かい合って座るわたしに妙音鳥の肘が飛んできた。
え、とわたしは横を向いたが、妙音鳥の顔はクーラの効いたカフェのように涼しく、その求めは分からない。依頼人の顔を見ると、そこにはなぜか苦笑が浮かんでいる。
何が起こったの?……近いはずの距離は遠く感じて、軽いはずのメニューはずっしりと手にのしかかった。
「カノコ、言いにくいんだが……頭の中が全て漏れているぞ。それに食べたいなら、ホットケーキ、注文したらいいよ。数時間前にパスタを食べたはずだけどね……うん、確かに、っく、ふふ、いや、ごめん。そりゃ、季節は大事だよな」
薄皮の気遣いで爆笑を隠し、ぎりぎり堪えている妙音鳥。
先頭打者ホームランを見事に飛ばしたわたしは物理的な身体から抜け出して天に登る勢いだった。本日の依頼人、島崎光輝の着ている白いシャツが神官の装いに見えてくる。妙音鳥の動く唇は鎮魂の言葉を唱えているようで、ついにその時が来たようだ。
「……カノコ。カノコ————。どうしますか? 注文」
名前は重たい。呼ばれて魂の尻尾は引っ張られて、わたしはようやく元に戻る。
「あ、ふえ、」
だが唇と喉はまだ無理だと訴えている。その様子に妙音鳥はわたしを放り出して、依頼人に注文を尋ねた。
「島崎さんは、何にしますか?」
「あ、はい。それじゃ、僕はホットコーヒーでお願いします」
「分かりました」
妙音鳥は店員に声をかけ、島崎と同じホットコーヒーを注文した。
え、わたしは置いてけぼり? ちょっとまってよ!
急いでもう一度メニューを見たが……やはり、栗の誘惑からは逃れられなかった。秋の味覚の王様は偉大だ。先取って御免なさい。
なんとか呂律が回り、注文を執り行う。ちらっと横目で妙音鳥を見ると、クリームソーダじゃなくていいのか、と言われて一瞬迷う。でも乗っているアイスとホットケーキなんて、どう考えてもアレにまっしぐらだし、それだけは避けねばと歯を食いしばってアイスコーヒーにした。
妙音鳥が島崎に話しかけた。
「今日はこちらまで来ていただいて、ありがとうございます」
からっとした梅雨明けの空のような好青年がわたしの瞳に映る。
先ほどから漏れ出る微笑みもタイミング良く向けられていて、島崎は程よく場の空気を読める人だと思った。
「いえいえ。この辺はあまり来たことがなくて、むしろこの機会に来れて良かったです。会社の同僚はいいカフェがあると、よく来ているみたいですし」
「店が増え続けていますからね。この近くに、コーヒーのフルコースを出すカフェもあるんですよ。少々お高いですが、十分に価値を感じられます。味だけでなく空間も楽しめるという……」
え、聞いてないわよ、わたしもそこ行きたい、と思っていると、突然に妙音鳥が顔を向けた。無意識にいわ猿のポーズを取ったわたしに、妙音鳥はメモを取るようにと告げた。そうだ、今こそ助手の仕事をしなければ。
妙音鳥から貰ったスミレが表紙のジャポニカ学習帳を開き、ピンク色の可愛いシャーペンを握りしめて果敢に書記に挑む。
「先日はメールの返信が遅くなってしまい、失礼しました。僕は妙音鳥隼人と言いまして、人の後悔を消化する仕事をしています。こちらはカノコといいまして僕の助手です。ところで……あのサイトはどうやって見つけたのですか? 僕が言うのも変ですが、検索にほとんど引っかからないと思うのですが……」
「そうですね。ちょっと怖い……いえ、不思議なサイトでした。実は友達から聞いたんです。後悔をあとになって消すことができる人がいると。友達も誰なのかは分からなくて、この時点では完全に都市伝説レベルです。ですが、その……僕も消えない後悔があって、嘘でも構わないからとりあえず探してみたくて。必死で探す中で偶然に見つけて、多分、このサイトじゃないかと思って。それでメールをしたのです」
後悔という言葉の辺りから島崎は前かがみになり、口調はすがるような響きを持ってわたし耳に届く。シャーペンを持つ右手が重く感じた。
「サイト、不思議ですか……シンプルでいいと思うのですが。え、なに? サイトが怪しすぎる? カノコもそう思うの?……。そうですか、分かりました。変更を検討しましょうか……失礼しました。何にしても、見つけて頂いてありがとうございます。さて……これは僕の考え方なのですが、後悔は自分の納得具合に依存するものです。後悔の薄め方としてはカウンセリングもあるでしょうし、それも効果的だと思います。ですが後悔自体を消さないと、前に進めない人もいると思います」
「はい。僕を、本当に一人で育ててくれた母と大喧嘩をしてしまって。何度か元に戻そうと話し合いを持ったのですが、うまくいかず…もちろん、僕に責任があると思います」
「そうですか、では、そのお話、詳しく聞かせて頂けますでしょうか」
わたしは少しだけ身構えて、長い黒髪を両耳にかける。
島崎の話は、意外は一言から始まった。
「僕は、実の息子ではないのです」
わたしは思わず固唾を飲んだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる