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後悔を背負う人(四)

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 島崎光輝の母、島崎小百合は静岡県の三島出身だった。
 バブル経済が崩壊し、総身を震わす叫び声が新聞を埋め尽くした一方で、その落胆を影で歓喜する人の醜さが露呈した一九九〇年代中盤。  
 
 極端におとなしい性格の小百合は、高校の入学式当日、三橋香夜と出会う。
 担任の経のような学校説明が終わると、香夜は遠く離れた席の小百合になぜか猛然と話しかけてきた。いきなり小百合の手を取り、瞳をらんらんとさせて、その勢いは餌をもらう三嶋大社の鹿のようだった。
香夜には、つまらない話でも潤んだ瞳がはじけてしまう愛想の良さがあった。天性の才はさらにもう一つ。その声音は三島の湧き水のように滑らかに万人の耳を潤すものだから、封切り二日間で同学年の圧倒的な関心を獲得し、初週の成績で学校最美の称号を容易く手に入れた。

 自分と対照的な立ち位置の香夜がなぜわたしに興味を? と疑問に思っていた小百合は、一ヶ月が過ぎた頃、どうして声を掛けてきたのか尋ねてみた。
 香夜は、「窓際に座る小百合の顔が、太陽に照らされて魅力的だったから」と、しれっと答えて、小百合は、え、百合? と勘ぐって半歩引いてみると、きゃきゃっと香夜は涙目になりながら笑い転げた。
友達になりたいと思ったの、と反転して冷静に答えた香夜に、小百合はおもわず微笑んだ。

 香夜は小百合から離れることなく、小百合も引っ込み思案な自分を青春の舞台に引き上げてくれた香夜と過ごすことが楽しくて仕方がなかった。
 三年の春になると、同級生は皆、進学かあるいは就職かと腹を探り合いながら、それぞれの未来を陰湿に妬みだす。田舎にはよくあることで、都心の大学に行ったりしたものなら、故郷を捨てたという烈火のごとき非難を受ける。
 親のコネか既に就職が決まっている地元組から、「進学なら東京?」あるいは、「小百合ちゃんは就職だよね?」と、陰惨な検問の日々は梅雨明けも果てしなく続いた。

 ここでも連れだしてくれたのは香夜だった。「東京の大学に一緒に行こうよ」という具体的な香夜。東京生活に憧れる彼女の願望が下地にあるわけだが、『一緒に行く東京の大学』という言葉は、魔法を発現する詠唱で、小百合の心は軽々と夏空へ飛び立った。
 ここで小百合の唯一の特技が発揮された。目標を決めるとめっぽう強い。香夜より偏差値が低かった小百合は、二人で決めた志望大学群へ向けて突進した。
 大学志望の高三にとって夏休みは熱量のピークであり分岐点だ。秋口になると夏の間に脳内に溜め込まれた知識は点数となり、ついには合格ラインという壁を崩壊させ、先生にカンニングを疑われるほどに小百合の成績はぐんと伸びた。
 
 小百合が香夜に答案用紙を見せると、「小百合はさ、なんだってできるんだよ。自分で気づいてないだけ。私は最初から分かっていたよ」と言って急に立ち上がり、小百合の手を取って、「これで東京だ!」と叫ぶと、地元組からの呪いのようなジト目が幾重にも絡みついてきた。
 以前なら周囲の目が怖いと感じる小百合だが、その時はまるで気にならなかった。香夜は小百合の心の殻さえも、容易に突いて壊してくれた。
 


 カフェの店員は間がいいのか、悪いのか分からない。
「いきなり秋を先取り甘栗ソースのホットケーキです」とフルネームを叫びならテーブルに置いた。
 三人が座るテー ブルにホットケーキが一皿。結構な拷問に、そこは先にドリンクでしょう、コーヒーなんて入れるだけじゃないのぉっ!……と悪態を顔で表したが、店員はわたしの訴求を業務用の笑顔で軽く受け流した。
 
 これじゃあ、わたしだけが食べるみたいじゃない、と恥ずかしめを感じたが、妙音鳥は、「先にどうぞ、カノコ」と、からかいをたっぷり混ぜた声音でさらにせき立てた。追い討ちのダメージは深く、落胆で丸くなった背中を励ましながら食べるしかなかった。
 
 フォークとナイフを手に取り、ふっかふっかのホットケーキにナイフを入れる。すーと切れて、おぉ、とわたしの唇から漏れた感嘆。砕いた甘栗のソースを全体に染み込ませて、ぱく。背中が反応してピンと伸びた。
 
 ああ、なんて甘美で残酷な瞬間だ、と天に昇る思いで顔を上げて、ひとり旅を憂いた。
 早くこいこい、コーヒーよ。孤高の独り舞台からわたしを救っておくれ。
 だが待ち人は現れず、妙音鳥は島崎をうながして小百合の話は続いた。



 冬の風物詩、クリスマスを家族と済ませ、ようやく迎えた一月の大学入試センター試験。
 小百合と香夜は難なく突破し、二人揃っての東京への進学を果たした。小百合の母親は泣いて喜び、小百合もまた、二人で過ごす四年間に大きな期待を膨らませた。

 大学も高校の延長線上で、二人の関係性に変化は起こらなかった。二人で引いたレール。その上を直進する汽車の勢いに惹かれて新しい友達も増えていった。小百合は二人なら広がる未来の微光を確かに感じて、充実した大学生活を送っていた。
 大学三年の時、大きな変化が香夜に訪れた。小百合は、香夜がバイト先で知り合ったという一つ年上の男性を紹介された。

「この人と付き合っているんだ」と、香夜は小百合に告げた。

 小百合はとにかく嬉しかった。十代の可愛らしさの膜を破り、裏のない艶美さを備えた香夜に、なぜ男性が魅了されないのか、小百合は不思議で仕方なかったからだ。

 あるいは自分と一緒にいるから男性が近づけないのでは、と真剣に悩んだりもした。だが悩みはようやく晴れて太陽が現れた訳だから、小百合は自分のことのように喜んだ。
 
 就職活動に忙しい四年の春、香夜の体に微かな変化が現れた。頻繁に会う小百合だからこそ気付けた微細な変化。
もともと女性らしい体つきをしている香夜だったが、すこしふっくらした体型に、小百合は冗談めかして、「香夜、最近食べ過ぎてない?」と聞くと、香夜は下を向いて顔を紅潮させながら、「子供……できちゃった」と呟いた。
 
 小百合は一切の躊躇いもなく、「おめでとう」と告げた。
 香夜は小百合の前で初めてなきじゃくり、抱きついてきた。

「ありがとう。やっぱりあの時、小百合に声をかけてよかった」と小百合の耳元で囁いてくれた。少し高めの体温が小百合の身体に移って、目頭も熱くなった。
 
 一年後。大学を休学した香夜の元に、母親似の小さな命が届けられた。父となった彼も新卒ながら懸命に働いて新しい家族を作ろうとしていた。どこにでもある早熟だが豊かな家族の風景。
 小百合は、香夜から生命が生まれたこと自体が不思議でそれでも可愛くて、ことあるたびに三人の元に遊びに行った。
 
 半年経った頃、小百合と三人家族は、原宿のカフェテラスで一週間ぶりにお昼を共にしていた。光輝と名付けられた男の子はようやく首も座り、あーあーと、と小百合にとにかくなついていた。香夜はすっかり母の目でその姿を愛でて、「わたしの同じ。小百合のことが大好きなんだよ」と言うものだから小百合もその気になって、「よし、わたしは第二のお母さんだぞ」と光輝を抱きしめた。小百合の向かいの席で、両親はクスクスと笑ってみせた。

それが、小百合が目にした二人の最後の姿だった。

 突然に大きな衝撃の波が小百合に襲いかかり、光輝を抱いたまま背中から地面に叩きつけられて鋭い痛みが全身に走った。
 小百合は歯を食いしばって光輝の身体を確認した。どうやら無傷のようだった。
 しかし、舞い上がった粉塵の中、小百合が目を凝らしてようやく見えたものは、香夜たちではなく薄気味悪い灰色のトラックだった。
 カフェテラスを惨劇に変えたトラックは、周囲に混乱を汚く撒き散らしていった。小百合と光輝は店員によってずるずると安全な場所は移された。小百合の手はガタガタと震え、それでも光輝を落とすまいと力の限り抱きしめていた。

灰色の壁が二人を永遠に奪った。

それだけは理解していた。何もかもが止まって、永遠に動かないように思えた。
小百合は香夜によって見つけてもらい照らされることでこの世界に存在を許されていると感じていたからだ。

 その時、小百合の手の中で光輝は苦しそうに、あーあー、と悶えた。震えながら抱きしめる手が強かったようで和らげると、小百合の顔を見て光輝は小さく笑ってみせた。同時に光輝の体温が小百合の身体にじわりと移り、それは心の奥底まで届いて過去の記憶を呼び戻した。
 高校の入学式当日に感じた香夜の手ぬくもり。子供ができたと報告してくれた時、抱きついてきた香夜の暖かさ。

 小さく縮こまり、世界の隙間に落ちそうな自分を晴れ舞台に連れ出して、雑音うるさい周りからもそっと守り、いつも次の場所へと導いてくれた香夜。
 
 そうだ。小百合は、今度は自分の番だと思った。
 
 小さく、弱々しく大地に降りたったこの子を、自分がこの世界に連れ出す。香夜がしてくれたように、私が光輝に照らせばいい。泣くのはいつか香夜と再会した時だ。
店員に「お子さんは大丈夫ですか」と声をかけられて、「はい」と小百合は力強く答えた。
 
 話し終えた島崎は、少しだけ目元を赤く染めていた。
 わたしはもう何を食べているか分からなかった。ホットケーキはスポンジのように口の中の水分を奪い、頬を垂れ落ちる涙は唇から吸い込まれて、甘いはずのホットケーキはいつのまにか塩味が効いていた。

 オーダーが通っていなかったようで、申し訳なさそうに店員がドリンクを運んできた。

 なんとか残骸を飲み込もうとストローを突っ込み、アイスコーヒーを一気に飲んで、苦っ! と小さく叫んだわたしは、シロップを忘れていた。

「そうですか……その子が島崎さんという訳ですね」

 妙音鳥の綺麗な声は、どこか島崎を落ち着かせるような響きを帯びていた。その声はわたしにも効いて、涙は少し落ち着きをみせた。

「それにしても、詳細な内容をご存知なんですね。小百合さんが話してくれたのですか?」

 普通なら隠すようなことなのでは、とわたしも思う。

「はい。母は、僕がそれこそ五歳ぐらいかな、物心ついた頃から一切を隠すことなく、実の母や父のことを全て話してくれました。島崎小百合にとって実の母はどれだけ大切な存在なのか。なぜ僕を引き取ろうと決意したのか。その時の思いまで全てです。僕がいていい理由をちゃんと知ってほしいと。それが自分の役割だと」

「なんて立派な、うぅぐ、お母さんです……ぐっすっ」

 わたしは再び水膜で瞳を覆い、崩落しそうだった。母となる人の力はここまで偉大なのか、自分のお母さんもきっとそうなのだろう……あれ、わたし、お母さんの顔が思い出せない。

「僕には二人母がいる、そう感じています。考えようによっては、それは幸せだと思います。この世界に呼んでくれた母と、育ててくれた母。二人に心から感謝しています」

「姓は、島崎を名乗っているのですね」

 妙音鳥は島崎から差し出された名刺を見ながら尋ねた。名刺にはわたしでも知っている有名なIT企業の社名が書かれていた。

「はい。小さな子供の世界は残酷で、実の子でないと分かると簡単にいじめられます。日本は未だ異質なものを排する思想が根強いですから。それを防ぐためにと言っていました。実の子以上に大事にしてくれたと確信を持って言えます。だから僕は、喜んで島崎の姓を名乗りたいんです」

 親が親なら子も子だと、わたしは嬉しく思う。
 だがそれほどの関係性に何故ひびが入ってしまったのか。わたしはいぶかしく感じた。

「なぜ、その……喧嘩になって後悔ができてしまったのでしょうか。話を聞く限りですが、とてもいい関係のような……」

 ぼそっと言い終えて、わたしは残りのコーヒーを一気に吸った。
 持ったグラスの中で、氷が鐘のような音を立てる。

「高校を卒業して就職するか進学するかで迷っていた時にお互いの意見が合わず、大喧嘩をしてしまったのです。僕は……とにかくこれ以上、苦労を掛けたくなくて。母は誰にも頼らずに子育てと仕事を全てこなし、卒業式や運動会も必ず来てくれて……生きて来て寂しい思い出など一度もありません。ただ幼い頃から、僕の生まれについて話を聞いていたので、苦労をかけているという気持ちが段々と強くなっていきました。だから、大学に進学してこれ以上の負担をかけることに、どうしても抵抗があったのです」

 島崎の言うことは理解できた。本人が否定しても子育てに費やした膨大な時間を事実だから、それに気後れする彼はもっともだ。

「島崎さん、全体の流れについて、もう少し詳しくお聞かせ願いますか」

 わたしの隣で静かにコーヒーを啜っていた妙音鳥は、解けない糸の結び目を探しているようだった。

「はい。僕は数学が好きで、もし大学に行くなら理系だと決めていました。ただ、高校三年の秋、就職も考えていた僕は、大学入試センター試験の申請を出さずに、母に内緒で小さな開発会社の面接を受けたりしていました。今はネットで何でも調べられる便利な時代です。自分で探して連絡を取ると姿勢を評価してくれて、何社かは会社訪問をさせてくれました。その中で大手IT企業傘下の開発部が、僕の数学の知識に興味をしめしてくれて。その時、評価してくれたことが本当に嬉しくて……ここなら頑張れると思ったのです。僕の努力が認められた気がして」

 島崎の顔は旧懐に染められて、その時の嬉しさを言葉以上に表現していた。わたしが妙音鳥に視線を向けると、少しだけ怪訝な表情を浮かべていた。

「その会社から、幸いにも内定を貰うことができました。ですが、学校から自宅に連絡があり、試験の申請をしていないことがばれてしまって。それで問い詰められて、内定のことを話してしまったのです」

「お母さんは、会社の試験を受けたことについては何か言いましたか?」

 妙音鳥は物事を裏側から見るような意外な質問をした。わたしにはその意図が分からなかった。

「いえ、それは……特に」

「そうですか。話を続けてください。お願いします」

 妙音鳥の顔色がわずかに変化した気がした。

「あ、はい。母は『大学でもっと専門的に勉強したいと言っていたじゃない。どうして自分の道を閉ざすようなことをするの。お金なんて私が何とかするから』と怒り、ぼくもつい受けてしまい『これ以上、家に負担をかけられない。母さんも楽になるからいいじゃないか。お金が一番の理由だ』と言ってしまったんです。母は、それは違う、自分が支えるのが当然だ、と一向に引かず、その日は言い争いが永遠と続きました。結局、大学には進まずに、内定を貰った会社に就職して。もう……五年が過ぎました」

「だいたいの概要はわかりました、島崎さん。今はどのような関係ですか」
「会話は普通ですが……以前のような感じはなくなりました。そっけなくなってしまい……あれ以来、母は変わったという印象です」

「具体的にはどのように変わりましたか? もう少し具体例があれば」

「あ、そうですね……あまり僕に関心がないというか……あと以前よりも母は友達や祖父母らと旅行に行くようになりました。別に今が悪いと言う訳ではないですが、ただ、あの言い争い以前と以降では、何か抜け落ちたというか、僕の気のせいかもしれませんが、母の存在感が変わったように思います」

「そうですか。島崎さんは、揉めた出来事に後悔しているわけですよね。それを消化したいということでいいですか?」

「はい。自分としても後悔が心に刺さって痛いんです。自業自得と言えばそれまでですが、できれば前のような親子の関係に戻りたいです。……」

 少し沈黙してから、妙音鳥は残りのコーヒーに口を付けた。ゆっくりと飲む横顔は考えをまとめているように見えた。

「話はわかりました。お手伝いできることもあると思います。僕がどのように後悔を消化するかご存知ですか」

「いえ、それは知りません。……都市伝説だと、何かを飲まされて後悔が消えたとか。はは……そんな訳ないですよね」

 島崎の声は伺うような語調だった。

「ええ、そうです。飲んでいただきます。僕の方法は、いわば裏技に近い特殊なもの。この世界の外の理論体系を使っています。そして成功すると、歴史と記憶が改変されます」

 島崎は、期待を込めたような瞳で妙音鳥を見つめた。

「やっぱりそうなんですね! 僕は数学が好きだからこそ、その手の話を信じています。人間が捉える事象は限られています。目を瞑った認知の外側で別の理論体系が存在していても、全く不思議ではないのです」

 島崎は納得したように滑舌良く答えた。

「それは良かった。話が早いです。この世界の外側には、いわゆる異形畏敬の世界があります。そこでは、月に一度だけ開かれる『幻灯の夜市』というお祭りがあり、妖怪たちが集めた人間の後悔を凝固した『心の断片』が売られています。僕たちはそれを『後悔石』と呼んでいます。石を溶かした液体を飲むことで後悔が生まれた時間に戻り、もう一度、体験ができる。つまり島崎さんの場合だと、出来事の当日もしくは一日前に戻れるのです。ただし歴史の改変のチャンスは一度だけ。上手く事が運べば、再体験の出来事が事実となります。関わる全ての人の記憶も同様に変わります」

「本当ですか!」

 島崎が少し身を乗り出してきた。

 わたしは簡単に信じてしまう島崎が少し心配になった。助手ではあるが、まだ『幻灯の夜市』に行ったことがないから信じる気持ちは半分だ。妖怪だよ、島崎さん、と言いたい。

「ただし代償があります。歴史が改変されると、元の歴史の延長線上で出会った僕たちについてはいずれ忘れてしまいます。ただそれは、後悔がない世界です。決して悪いものではないと、僕は思います」

「そうですか……ですが、いきなり記憶が消えてしまうと、後悔を起点にしたこの五年間の思いも連なって消えてしまうということですよね? 僕も母も混乱は生じないのでしょうか」

 島崎は少し不安そうに尋ねた。

「良いところに気づきましたね。記憶の流れは実に不思議なものです。例えですが、川の水を掬って取り除いても、人の目で捉えることができない速さで穴は埋まってしまい、何事もなかったように元に戻る。記憶の流れもそれと同じです。穴が開いたところを周囲の記憶が複雑に絡み合いながらあっという間に埋めてしまう。そこには新しい整合性が生まれます。最初は違和感があるかもしれませんが、それもすぐに忘れます。人は忘れるのが上手なんですよ」
「わかりました……それで構いません。僕は妙音鳥さんにお願いしたいと思います。もう一度、チャンスがあるだけでも本当にラッキーなことです」


 その言葉に応えて、妙音鳥は自分の鞄から赤紙と鉛筆を取り出した。

「わかりました。それではここに名前と読み仮名を書いてください。それを手掛かりにこちらで探します」

「え、名前だけでいいのですか」

「はい。『後悔石』には当然、島崎さんの痕跡が残っています。そして島崎さんが名前を書くという行為で、痕跡が
この特殊な赤紙に残ります。二つは反応し合うので探し出すことができるというわけです」

「へえ、面白いものですね……」
 島崎は興味深そうに赤紙を透かして見たり、指でつまんでみたりした。やがて名前をさらさらと書いて妙音鳥に手渡した。

「はい、こちらで大丈夫です」

 妙音鳥は頷いた。

「よろしくお願いいたします。あと依頼料はいくらになりますか?」

 そうだ、依頼料。自分のバイト代に関わる展開に、つい座り直して待ち構えた。膝を揃え、シャーペンを持つ手にも力が入る。

「いえ、いりませんよ」

「「え」」

 島崎とわたしは綺麗に声を揃えた。

 ちょっ、ちょっと! 待ってっぇ————妙音鳥、聞き捨てならねぇ、その言葉。わたしのバイド代はどうなるのよ。まさか……最初からか弱いわたしを騙すつもりで……ひどい。訴えてやる! 家を担保にお金を借りて持ち逃げしてやるっ! その前に、今ここで一番高いホットケーキを追加注文してやる、とわたしはメニューをまさぐる。

「そう、なんですか……」

 島崎は妖怪の話を聞いたときよりも、疑い深い瞳で妙音鳥を見つめた。

「はい。島崎さんからはいらないです」

じゃあ、誰から貰うのよ、と全力のジト目で妙音鳥を睨んだが、わたしに一瞥しただけで、島崎に視線を戻した。
完全無視だ。うぁ、ひどっ、と唇だけを動かした。

「僕は、島崎さんの『後悔石』の断片を最後にもらえれば十分です」

 断片ってなによ、と言いそうなる。

「……そうですか、よく分かりませんが妙音鳥さんがよければ……わたしはそれで構いません。よろしくお願いいたします。」

 島崎は、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「九月二七日以降にもう一度、お会いしましょう。それまでに島崎さんの『後悔石』を探しておきます。再体験の仕方はその時に説明します」

「よろしくお願いいたします。えっとコーヒーの金額は……」

「いえ、入りません。大丈夫ですよ」

 え、奢っちゃうの? 無収入な仕事なのにこれ以上、お金に羽をつけないでくれ、とわたしは心の中でぶつくさと膨れていた。眉間にしわを寄せるのはまさに今なのだ。

「いえ、そういう訳にはいきません。母からも自分の分はちゃんと払いなさいと言われているので」

 島崎はさっと自分の代金をテーブルの上に置いてそのまま立ち上がり、もう一度、一礼してからカフェを後にした。妙音鳥は男性にしては細く白い手をふらふらと振っていて、わたしの気持ちなど御構い無しのよう。散々な数々の対応に、わたしの倫理の薄壁は耐えきれずに崩壊し、もはや行儀など気にしないで犬のように残りのホットーケーキに噛み付いた。

 どうするのよ! これ。仕事なのに無償なんて、人がいいったらありゃしない。わたしのバイド代はどうなるよ! もうご飯なんか作らないもん! 

 口の中と心は、混沌の極みへと身を落としていった。

「カノコ、アイスコーヒー頼もうか、喉につまるぞ、それ」

 わたしの正面の席に移動した妙音鳥は、がっつく餌に人差し指を伸ばした。

「げもねーどぉ、ごごもるでぇ」

 わたしはもはや人を捨てたのだ。

「レモネード大盛りは、ないよ。普通でいいね。店員さん、注文いいですか————」

 人外の言語をどうやって理解したのか不明だが、妙音鳥はわたしを軽くあしらって、大人の対応。溶いた小麦粉に戻りつつあるホットケーキを口から飛ばしながら、どうにか日本語を話す。

「無償なんて! 人助けかもしれませんが、どうかしてます! わたしの……その、バイト代だってあるし……」

 最後は小声で、チラ見のような態度。

「言ったでしょう。島崎さんからは貰わないだけで、この仕事がお金にならない訳ではありませんよ。まぁ、お楽しみということで」

 妙音鳥はわたしの抗議に蓋をして、にやりと口元を緩めた。
 うーん。信じていいのか、と自問自答。でもバイト代を遅れることなく払ってくれるし、ここを飛び出しても行く先がない。

 あ、レモネードが来た。グラスがレトロなレモン柄! 可愛い! センスあるわ。この店。どれどれ……うわ、うまっ! これちゃんと果汁入っているわ……。
 わたし、なんかちょろすぎる……。

「さて、そろそろ行きましょうか、カノコ」

「聞いてもいいですか……」

 ええ、どうぞと、妙音鳥は軽く言葉を戻す。

「島崎さんの話を聞いて、どうしたらいいか、妙音鳥さんは分かるのですか? その、再体験でどうしたらいいか」
 妙音鳥はテーブルに眼鏡を置いて、瞳を柔らかく閉じる。それはしばらくの沈黙を生み出した。
わたしが控えめにレモネードを楽しんでいると、巡っていた思考が一つの答えに収斂したようで、妙音鳥の唇は滑り出した。

「普通なら、いくら親友の子でも未婚の二十代で引き取りますか? その覚悟の深さは相当なものです。そこへの島崎さんの理解が浅い。そこが最初のポイントだと思います。鍵は島崎さん自身にあるように思いますが……それにしても、僕は美しい家族だと心底思いましたよ。だからこそ解決して差し上げましょう」
 妙音鳥が発した言葉の意味は、あまり理解できていない気がするが、話す彼の目元の柔らかさは、わたしを揺さぶる。

飲みきった空のグラスをテーブルに優しく置いて、

「……じゃぁ、頑張ってお手伝いしないとですね」

「もちろん。カノコにもちゃんと手伝ってもらいますよ、これが初仕事ですから……適性も生かしてください」

 わたしは、了解と、敬礼をした。妙音鳥は口元も柔らかく崩した。
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