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幻灯の夜市(一)

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 今日は九月二十六日、今は午後三時。
 わたしはキッチンで最近お気に入りのしっとり濃厚紅芋クッキーを四個取り出して、お茶の準備をしていた。

「妙音鳥さん! コーヒー淹れました! 持っていきますか?」

 わたしは振りかぶってキッチンから書斎まで声を投げた。
 最近、妙音鳥に指摘されて気がついたが、わたしの声は通るようだ。この生活にも馴染んできて、いい意味か悪い意味のどちらかで、妙音鳥への対応もこなれてきている。

「もう少ししたら行きます。先にどうぞ」

 打ち返された返答に、「分かりました————」と伸びた語尾で答えて、お先に、とクッキーの小分け袋を開ける。
 おお、何度見ても綺麗な紫。芋の力はこの世界の根源だ。なんなら、祀りたいぐらいだ。 
 テーブルに座るわたしの後ろで、ピピッと炊飯器が合図を出した。

 今日はいよいよ、『幻灯の夜市』を訪れる日だ。
 最初は少し怖いかと思っていたけど、今はむしろ好奇心が勝って、朝から落ちつかない。いつも落ち着きがないと言われれば返す言葉は無いけれど、そこは触れないでもらいたい。

 とりあえず、早めの晩御飯を済ませて準備を決めこむつもりだ。常に身に着けているけれど必需品は赤いブレスレットだけ。あとは妙鳥が用意してくれる予定だ。恥ずくない仕事をしなければとわたしは鼻息荒い。
 あ、忘れていた、食べないとクッキー。うまっ! ほんと最高。
 リスのように頬を膨らませながら、わたしの両目はきっと弓なりになっている。

「しかし、相変わらず好きですね、そのクッキー」

 巧妙に気配を消して現れた妙音鳥。
 慌ててしまいクッキーが喉に詰まりそうになる。淹れたてのコーヒーは熱くて生死を彷徨うから、台所の流しに急ぐ。蛇口をひねってコップに水を注ぎ、胃へと流し込んだ。

 危なっ。夜を待たずに、わたしが幻になるところだった。

「脅かさないでくださいよっ。喉に詰まって死んだらどうするんですか!」

 口をすぼめて両手を腰に、異を訴えた。

「……え。そうです……ね。それは失礼しました」

 何、その、苦しむ乙女への気遣いの無さはっ! わたしは強めに眉をひそめた。

「このクッキー、そんなに美味しんですか? 紅芋ね、沖縄ですか」 

 妙音鳥はテーブルから袋を拾い上げて開いた。しっとり紫が現れて、薄い唇へ運ばれる。妙音鳥は、うん、と頷いて、コーヒーに手を伸ばす。

 わたしは美味しいの一言が聴きたくて、テーブルに身を乗り出して言葉を待った。

「今日のご飯は早めに取って、夜の八時までに灯籠が現れる場所に行かなければなりません。準備はどうです?」
ずりっ、と漫画のような音がして、わたしの右肩は落ちた。

「あ、はい……早めと言われたので、もうご飯は炊けています。あとはおかずの準備だけです」

 今日は豚の生姜焼きとポテトサラダ、それにワカメの味噌汁の予定だ。

「今は三時過ぎだから、晩御飯は、五時半ぐらいでどうでしょうか。食事を済ませて七時にはここを出ましょう。歩いて……そうですね、二十分ぐらいでしょう」

 既に九月。夜はずいぶんと涼しくなり、散歩には丁度いい季節だ。

「……あーい、分かりました。わたしは、このブレスレットだけでいいんですか?」

 わたしは右手を上げて、ひらひらと手を振った。

「ええ。大丈夫ですよ。カノコは今日が初めてですし、僕の行動をしっかりと見て、『幻灯の夜市』の仕組みや雰囲気に慣れてください」

「じゃぁ、五時半までに晩御飯を用意しておきますね」

「よろしくお願いします。僕は……もう少し調べ物があるので」

 残りのコーヒーを一気に飲み干すと、妙音鳥は書斎に戻っていった。
 妙音鳥は常に書斎にこもり、古い本を解読している。あるいは一人で外出すると、両手に本を抱えて戻ってくる。古書の相場は分からないけど、きっと安いものではないはずだ。わたしは妙音鳥の貯金具合が気になって仕方がない。

 不思議な雇い主とそれ以上に摩訶不思議な仕事。それでも、この生活にだいぶ慣れてきて、日々は楽しいと感じられる。わたしは拾ってくれた妙音鳥に、ありがとうと感謝の気持ちを込めて、書斎の方角に頭を下げた。

「出来た! カノコ特製豚の生姜焼。少し時間が早いけど……」

 今はまだ五時。だが出揃った食事たちが冷めてしまうのはもったいない。
 書斎に出向いて妙音鳥を引っ張りだそうとした。
 ところが妙音鳥は五時半を譲らない。しかしこの一ヶ月で、妙音鳥が涙目に弱いことを密かに発見しているわたしは、旦那さんの帰りを深夜まで待つ貞淑な妻を演じきって、「わたしが作ったものは食べたくないのですね……うぅ」と大きな瞳で泣いて見せた。

 見事にひっかかって妙音鳥は、はいはい、と言いながらしぶしぶとキッチンへと向かう。その後を追うわたしの表
情は、どこかの悪妻だろう。

 お皿の上、綺麗に盛られた生姜焼きとカットした人参が小さめのポテトサラダ。炊きたてのご飯と味噌汁のトライアングルは、見事な陣形で妙音鳥を迎えた。おお、と感動しながら妙音鳥は、ぺろっ、と生姜焼きを食べてしまって、心の中でわたしは満悦な笑みを浮かべた。

「ご馳走様でした。生姜焼き、美味しかったです。またお願いします」

「はい、もちろんです」

 正面切って言われると、恥ずかしいけど心がふわふわする。テーブルの下でじゃれあう両手の指先を、わたしはじりじりと見つめていた。

あ、そういえばわたし、青りんご色のスウェットを着たままだ。

「わたし、着替えてきますね。まだ部屋着でした……はは」

「ええ。僕も着替える必要があります」

 そう言うが妙音鳥は、白色が眩しい半袖のミリタリーシャツに、細身の黒色のパンツ。銀座が似合いそうな雰囲気で、特段に着替える必要はなさそうに見える。

「……カノコ、僕が着替える必要はないと思ったでしょう」

 図星でしょう? とあからさまに口角上げる妙音鳥。
 あ、やばい、また思考が読まれた。この人ほんと鋭い。
 さっきの妻劇場の仕返しかと思いながら諦めて頷いた。

「だって……別にその服装なら、外出できると思いますよ。それに……洗濯物増えるし……」

「はは、洗濯ものは確かに増えますね。実は『幻灯の夜市』に行くための専用の服があるのですよ。ではお楽しみに」

 妙音鳥はキッチンを後にした。

 専用の服って神主さん的なやつ? それしか、妖怪という言葉と結びつかない。

「……さて、片付けて、わたしも着替えましょうか」
 ところが。

 あれ。ない。あの黒いワンピースがない。

 わたしは黒のワンピースを探して、衣装ケースを引っ掻き回していた。そういえば……あのワンピース、最近全然見ていない。この家に来てからバイト代が出るたびに少しずつ服を購入していたわたしは、いつのまにか随分と衣装持ちになっていた。服好きには到底叶わないが、それでも女性誌の一週間コーデは十分に揃う。
 
 だが妙音鳥の家に来た日に着ていた服がどうしても見つからない。捨てる訳がないから、どこかに混ざっていると思うけど……そうなると妙音鳥のクローゼットしか思いつかないから、今日は諦めることにした。
 
 あぁ、時間がない。
 襟元がレースで飾られた黒いワンピースを手に取る。これもお気に入りの一枚だ。

 鏡の前で髪に櫛を入れて、飛び毛を手のひらでぺたぺたと抑えていると、壁を隔てた妙音鳥の自室から音が聞こえてきた。どうやら彼は部屋を出たようだ。斜めがけの赤いポシェットにお財布を入れて、年季の入った通路の床を滑るように玄関に向かった。
 
 おお! アニメみたいだ。
 
 玄関でわたしを待ち構えていたのは、妖怪退治に赴く神主の衣服ではなく明治初期の警官のような出で立ちの妙音鳥。明治ロマン的な漫画に出てくる、ヒロインが憧れる男性の服装だ。
 
 少しだけ青が混じった黒生地は艶やかで、詰襟風のジャケットには銀ボタンが、一、二、三……沢山あるから以下省略。とにかく多い。しかしよく見ると、長いくちばしを大きく開いた鳥の絵がボタンの中に型押しされている。パンツは細身で背が高い妙音鳥に異様なほど似合っていた。両胸と両脇のポケットもさりげないアクセントだ。  

「妙音鳥さん‥‥すご」

「すごってなんですか……この服装、びっくりしたでしょう。僕の祖父も使っていた特注の服です。当時は現在よりもいい生地を使っているので、物持ちがいいんですよ。ジャケットの内側には『幻灯の夜市 出没記録』も入る内ポケットもありますし、この仕事には最適です」

 うんうん、と、わたしは同意の頷き。

「服装は着たいものを着るのが一番です!」

「……いや、そういうことではないんだけど……まぁ、いいでしょう。さて準備はいいですね」

「はい。ブレスレットは常に身に付けていますし、大丈夫です」
 妙音鳥は、では行きましょう、と関を開ける。
 玄関に置かれた時計は丁度、夜の七時を指し示していた。
 
 九月の終わりは曖昧だ。
昼間は太陽が強固に主張し容赦なく陽光を浴びせてくるが、夕方には秋がそこ退けと後ろから肩を叩く。
二つの季節が鍔迫り合い、双方に引き合う中間の九月末は、少しだけ感傷をもたらす。記憶のスイッチを揺さぶる季節は、忘れてしまった何かを思い出させたいようだ。

 だがそれでも、わたしは秋に思い出を見つけられない。
夜の南風が強く吹きつけてくる。わたしの長い黒髪は巻き上げられて何度も顔を叩いていく。
薄暗い夜に同化しそうな妙音鳥の背中を見つめていると、夜市への不安と子供のような好奇心が混ざった感情が、ふつふつと湧き出してくる。わたしは少しだけ足早になって彼の背中を追った。
 
 妙音鳥の家は、清澄白河と門前仲町の中間あたり、カフェが乱立している一帯の外縁にある。『幻灯の夜市』が出現する富岡八幡宮は、家を出て一直線に南下すれば迷うことなく到着だ。
わたしは歩数を増やして妙音鳥の隣に並んだ。

「……あの、妙音鳥さん。どうしてこの仕事をしているのですか」
 いつか聞こうと思っていたことを切り出した。

「え、今、聞きます? それ」

「え、まぁ、気になって……」

 風になびく髪を抑えながら、えへへっ、と言った。
「そうですね。祖父がこの仕事をしていたからでしょう。口外する仕事ではないでしょうが、祖父は仕事にまつわる、楽しい、悲しい、怖い、危ない体験を、まるで昔話のように聞かせてくれました。それがとても印象的でいつか自分も、と子供ながらに思ったことが最初でしょうか。あとは……五歳の時にいろいろとあってね」
「いろいろ?」

「人は予想だにしない運命を背負ったりするものですよ。実は、僕は仏様の使いで、人の後悔を無くす役割を任されていると言ったら、どうします?」

 妙音鳥は横を向き、わたしの内心を覗くような瞳を近づけてきた。突風が妙音鳥の髪を不自然に乱す。

「え」

 わたしは細い指でさっと触られたように、ぴくんと彼の声音に反応してしまった。
 妙音鳥の声は男性に似つかわしくない。実に優美で、それでいて包み込むような慈悲に近い何かを感じる。
 今日はさらに神秘的なしらべを帯びていた。妙音鳥はわたしの反応を十分に楽しんだようで顔を崩す。

「はは、冗談です。でもそれが自分の役割だと思います。人はすべからず土に戻ります。そして、その時までに何かを望む。望むことは前に進む力となります。例えば大きな成功、経済的豊かさ、大切な人との時間の共有……あるいは、何かの結果より行為の過程でどれだけ前に進めたか、傾注したかを大切にする人も多いでしょう。ですが、たとえどんなに成功しても、過去の一瞬が心に刺さり、後悔に苦しんで死んでいく人もいるのです。心残りとは、いつのまにか心に絡みついて同化してしまうことです」
 
 いつになく真剣な表情の妙音鳥に、わたしは丁寧な頷きを返した。
 
 富岡八幡宮の西の鳥居に到着した。
 時々、車が往来するぐらいで静かな場所だ。
 
 南側には門前仲町の中心、永代通りが見える。明かりによって切り取られた長方形の舞台に、左右から人が現れては消えていった。遠く離れた舞台を見ていると、わたしだけが、ぽつんと、取り残されているような気がした。

「灯籠が現れる場所は、富岡八幡宮雨の裏、御神木の近くです。境内には入りませんが、そのあたりで待ちましょう」

「なら、わたしたち、通り過ぎてませんか?」

「そうですよ。ちょっと門前仲町で買うものがありますので。行きましょうか」
 は頷いてみたが、いまさら何を購入するのだろうか。と、その隙に妙音鳥は歩き出して、わたしは早歩きで後を追った。

 わたしが門前仲町に来るのはこれが初めて。新旧が入り混じり、下町とはこういうものかときょろきょろするが、次第にわたしの視線はある分野だけに囚われて、ケーキ屋とかアイスクリーム屋とかその類しか目に入らない。美味しそうなお店を見つける度に、「おおっ」と小さく感嘆を漏らした。

 わたしの気持ちを知ってのことか、妙音鳥は洋菓子店の中へ消えた。
え、買ってくれるの! といつもの調子で、ガラスケースを覗いて、どれにしようかと迷いだす。だが妙音鳥は先手を取って注文した。

「このイチゴのタルトを二つと、チョコレートショートを二つ……」

 わたしが食べたいのはこっちだよ、と妙音鳥の袖口を、くいっ、とひっぱって視線をフルーツタルトに送って見たが、眼鏡越しの冷たい細目は容赦なくわたしの行為に釘を刺した。
嫌味を込めて、うやうやしく両手にケーキ箱を持ちながら、わたしは来た道を引き返している。
ふんだ、といじけ気味で妙音鳥を見返した。

「自分のだと思いましたか、カノコ、ははっ」

 なんとも楽しそうで、いらっとして、ふんだ、ふんだっ、と二度、心で繰り返す。

「また今度、買いましょう。このケーキなんだと思います?」

 こんな状況でクイズなんて楽しくないけど、一応、答えた。

「え、その……灯籠が出るあたりの家に、慌ただしくてご迷惑をかけます、と挨拶をするためですか? 引越しの時みたいな……」

 妙音鳥には予想外の答えだったようで、その目は見開いた。

「なるほど……それは新しい視点ですね。考えたこと、ありませんでした」

 微笑む妙音鳥は褒めているのか分からない。
 だがクイズは外れに違いないと、わたしは湿った視線で顎を突き出した。

「でも、違うんですよね……」

「これは、妖怪に渡すんですよ」

 あ、なるほど、と思ったが理由は思いつかない。でも妖怪は甘味が好きだと聞いたことがある。小豆を洗う妖怪は確かにいるはず……本によると。

「妖怪は甘いもの、好きなんですか?」

「甘露っていう名前を聞いたことありますか? 妖怪は天から染み出した溶液、甘露が大好きなんです。ただ、本来は神々が飲むもの。簡単に手に入る訳ではありません。その代用品が、この世で売られているお菓子です。ところが特別な妖力を持つ妖怪以外は、僕たちの世界に来ることはできません。つまり、彼らにとって価値があるケーキと『後悔石』を物々交換しようというわけです」

「そういうことですか……でも、二つもいるのですか?」

「一つはなじみへのお土産、いや情報料といったところですよ、さ、そろそろ着きます。そこを右にまがりましょう」

 神社の裏手側についた。石造りの壁の手前側は駐車場になっていて、その向こう側には、まばらな樹木が建物を覆っているようだが、暗くてよく分からない。

 妙音鳥は車が止まっていない駐車場に入り、何かを探るようにうろうろし始めた。やがて一点で立ち止まり、しゃがむ。地面に手のひらを置いて、何やらぶつぶつと唱え始めた。
 
 漫画っぽい! とわたしのテンションは上ずり、妙音鳥の一挙種をじっと見つめていた。だが、特に何も起こらず、はい、終了とばかりに妙音鳥は立ち上がった。

「今、灯籠をくぐる意思を示しました。これをしないと現れません。あとこの紙を……」

 妙音鳥は切符のような赤紙をわたしに差し出した。先日、島崎に名前を書かせた紙と同じ素材に見える。

「この紙が通行書のようなものです。二つの灯籠が現れた時にこれを持ってしめ縄を飛び越えます。そして、この紙
が燃え消えたら許可が降りて、向こう側に行けます」
 
 え、燃えちゃうとやけどしちゃうよ、と思っていると、「大丈夫ですよ、偽火です。向こうの世界の引力で発火するわけですから、この世界の物理的法則とは無関係です。つまり熱は発生しないと言うことです」と妙音鳥から補正が入った。

「不思議な火なんですね」

「ええ。さて、そろそろでしょう……少し下がってください」

 ちょっと怖くてわたしは、二、三歩どころか五歩下がった。
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