カノコの日常〜妖怪があつまる『幻灯の夜市』で《後悔石》を探すバイト生活が始まった。あなたのその後悔、晴らします〜

灰緑

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わたしの答えは(最終章)

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「あっ……」 

 六年後に戻ったわたしは思わず両手で口元を覆った。

 この世界で泣くのだけは必死に塞き止めていたけど、どうしようもないくらいに目元は揺らいでいる。

 カノコは賭けに勝った。最後まで……あの日の出来事を忘れなかった。

 わたしの中に新しい記憶が次々と流れ込んでいく。
 家族で外出したこと、お母さんと料理を作ったこと、中学の友達を会えたこと、授業には参加出来なかったけど高校の制服を着れたこと、治療もして副作用に苦しんだけど頑張ったこと。

 そして————わたしは一ヶ月も長く生きた。

 こんなことって、と音を出さずに小さく唇を震わせる。
 
 でも変わらないこともあって、最後に着ていた服はやはり黒のワンピースだった。

 お母さんに視線を向けると、目を瞑ったままソファーに背中を預けている。
 
————お・か・あ・さ・ん————現実の世界で呼ぶのは許されないから唇だけは自由にさせて。

「う……んっ————」

 お母さんは小さく声を出した。長い睫毛はゆっくりと上を目指したが、半分開いた瞳はまだ焦点が定まらないようだ。

「リエコさん。大丈夫ですか」

「声が聴こえる……その声は、カノさん?……ここは、あ、ぁぁ……」

 お母さんの口は激しく震えて、大きく見開いた双眸からは止まることなんて想像できないぐらいの涙が溢れ出ていく。

 隣のリノが突然にお母さんに抱きついた。

「お、ぉ、お母さん、記憶が……」

「リノも? 記憶が、新しい記憶が……」

 お母さんはもう何も言うことができず、リノも抱きついたまま泣き散らかした。

 わたしは下を向いて歓喜を喉の奥に押し込めた。もし書斎の床が鏡なら、わたしの心は泣きそうだけどきっと微笑んでる顔が写ると思う。

 顔を上げて妙音鳥に視線を向けると、「リエコさん。歴史が改変されたようですね。どうですか? 新しい記憶には後悔は残っていますか?」と喉の揺らぎを抑えた優しい声でお母さんに尋ねてくれた。

「いえ。もう……もう何もないんです。こんなことが起こるなんて。最後までカノコと向き合って一緒に苦しんで、でも楽しい記憶も沢山作って……私、後悔なんて何も残っていません」
お母さんは少しだけ落ち着きを取り戻したようだけど、リノはまだお母さんにしがみついて泣いている。

「……そうですか。それは本当に……よかったです」

 妙音鳥の声は、なだらかな草原の情景をわたしに想像させた。
 
 吹き抜ける風は全てを払いのけていく。

「リエコさん。本当に、良かったですね」

 総身で喜びたいけど、ぎゅっと言葉だけに濃縮させた。

「……カノ……、いえ、カノさん……ありがとうございます」

「お母さんが……ちゃんとカノコさんと向き合ったからです。そう思います。わたしは……ただ少しお手伝いしただけです」

「本当に不思議。記憶が変わるなんて。まだ二つの記憶があるけど、確かに新しい記憶が本当だと信じられるわ」

「リエコさん。今は混乱もあるでしょう。ですが新しい記憶に上書きされたことで、今日の出来事や僕たちと出会ったことは自然に記憶から消えて行きます。もちろん改変前の記憶も。それがお伝えした代償です。ただ安心してください。後悔がない記憶だけに満たされるのは、むしろ幸福と言えます」

 妙音鳥は淡々と話していたが、少し寂しそうな色味を帯びていた。
 
 リノはむくっと顔を上げて、わたしを見つめた。

 わたしは笑顔だけを盛大に送り届ける。

「リノちゃん。今日はクリスマスイブ! きっとこれがプレゼント」

「……うん」

 リノははにかみながら小さく頷いた。
 
お母さんは背筋を伸ばし、夕立のあとの空から降り注ぐ太陽のような笑顔を妙音鳥とわたしに送ってくれた。

「ありがとうございました。本当に……ありがとうございました」

 わたしは二人を玄関まで送り届けた。

 妙音鳥は書斎に残って、それはきっとわたしへの気遣いだ。

「……あの」

 靴を履いたリノが振り返り、伏し目がちに呟いた。

「ん?」

 わたしはつい生きていた時の感覚のまま答えしてしまう。リノは笑いながら、

「……お姉ちゃんも、元気でね。ありがとう」

「え……」
 
 もう聞けないと思っていた言葉に、わたしの中心はぎゅっと締め付けられる。

「こら。リノ、失礼でしょう、そんな……言い方……」

 声音がそっと沈んでいく。それは世界に背かない祈りのように聞こえた。

「だって、私から見れば年上だし、お姉ちゃんで間違いないでしょう」

 リノは口を尖らしてお母さんに抗議をした。
 わたしは、「……リノちゃんのお母さん。別にいいですよ。確かに年上ですしね」とにっこり微笑んだ。

 ありがとう。リノ。そう呼んでくれて。
 
 さようなら。お母さん。リノ。

 乗り越えた二人には、きっといい未来が待っている。



 

 少し前から異変を感じていた。

 わたしの中心から外に向けて暖かさが溢れ出て、身体全体が包まれていくような感覚。どうやらその時だとわたしの直感はささやく。

 玄関から書斎に戻ったわたしは妙音鳥の前に座った。妙音鳥はわたしの変化に感づいているようで、荒々しい筆のタッチが残る灰色の顔をしている。

「妙音鳥さん。本当に、ありがとうございました」

「……それはお母さんのことですか? それとも……」

「あ、はい。両方です。わたしを拾ってくれて、今まで……」

「……」
 
 妙音鳥は押し黙った。

「死んじゃったわけだから、いい人生というのは違いますが、でも、おまけが付いていたなんて、そこはラッキーですよ」

 わたしの体温はさらに上昇していく。手を見ると白肌は金色に変わり、光る粉を噴き出し始めていた。

「カノコ」

「はい」

「そそろそです」

「……はい」

「最後の時間を後悔なく過ごしたので、強い思いを残すことがなかったのでしょう。それは……良いことだとは、思います」

「はい。そう思います。新しい記憶は辛いこともあるし、何より死んでしまったけど、それでも最後までもがいて、できることをやり切りました」

 わたしを見つめる妙音鳥の顔は金色に照らされて、不思議な陰影を作っていた。

「お別れです。妙音鳥さん」

 わたしは顔を崩し、それは砂城のように崩れ落ちる。
 
 両眼から吹き出る金の塵は重力から解放されて、光りながら霧散していく。

「カノコ。答えなさい」

 その声はぐっと手元に引き寄せるような力強さを帯びていた。わたしの総身は無意識に震え、一層に身体は崩壊していく。

「え……」

「僕の問いかけに答えなさい。まだこの世界にいたいですか?」

「はい。でも、もう……」
 
 許されないことだけど、本当はこの世界に……残りたい。

「強い思いが無くなったから、この世界に執着できず消えてしまう。ならば……もう一度思い、強く望めばいいのです」

「もう一度って……」

 思いも寄らない妙音鳥の言葉に、わたしはつい聞き返してしまう。

「カノコには……そう、夢があったのではないですか?」

 崩れゆくわたしの身体からの発光は一段と強くなった。意識に霞がかかり始めている。

 妙音鳥は口を大きく開いて咆哮した。

「カノコ! この世界に残りたい理由はなんですか!」

「え、あの、この……世界に……いたい……です」

 たどたどしいわたしの言葉に、妙音鳥の瞳は大きく見開いた。

「駄目です! それでは。もう一度聞きます。どうしてこの世界に残りたいのですか? カノコはあの夢を叶えたいのですか? 本当に強く望むもの、それを答えなさい! いえ、僕の声に応えなさい!」

 わたしの夢……。それは料理に関する仕事をすること。

 確かに小学生の頃から思い描いた未来だ。だけど……。

 なぜか、それを強く望むのは違う気がした。

 わたしが今、本当に強く望むもの。

 暖かい感情を抱えた何かが、消えゆく意識の中で足音をふみ鳴らす。

 ここだよと叫んでいる。
 
 足音の間隔は短くなり、どんどんわたしに近づいて————止まった。

 次の瞬間。

 
 忘れたくない情景が日めくりカレンダーのように次々と意識の中に現れていく。

 生姜焼きが美味しいと言われて本当にうれしかったこと。

 ピザを一人で二枚食べて、夜ご飯を食べられなかったあの日。
 
『幻灯の夜市』の帰りにケーキを買ってもらって一緒に食べたこと。

 妙音鳥に揶揄われて口を尖らす瞬間、せがんだら連れてってくれたコーヒーのフルコース。
 
 ちーちゃんに、また? と言われても注文するグレープフルーツ&レモン。
 
 そして、わたしが幽霊だと知りながら拾ってくれたあの日。
 
 記憶を忘れて空っぽだった心の箱を埋めてくれたこの四ヶ月のありふれた日常の思い出は、紛れもなくわたしを形作っている。

 
 わたしは残る意識を身体中からかき集め、喉に貼り付けていく。

 お願い動いて。この思いだけは最後に伝えたいの。
 わたしは妙音鳥の声に応えるように、喉を勢いよく鳴らす。

「わたしが望むものは! この普通の日常! これだけは絶対に失いたくないの!」
 
 
 発光で部屋全体が金色で満たされていく中、かろうじて残っているわたしの耳は、妙音鳥の最後の鳴き声を心地よく拾う。

 それは誰かに純然な懇願を捧げるような声音。

 そのとき、どここから、妙音鳥よりも至極で高貴な声が聞こえてきた。

 
その声でわたしを呼ぶなんて……

 妙音鳥、いえ、私の使い鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)が、そう望むならしょうがないわ。いいでしょう。特別に、もう少しだけ時間をあげましょう。



 あれ。
 
 わたしは今、確かに自分の意識を掴んでいる。

 足の裏はひんやりとした床を感じるし、流れた涙の軌跡は頬の裏からちゃんと捉えることができる。

 右手に意識を送ると人差し指は僅かに動いて、中指に触れると肌はつるんとしていた。

 瞑っていた瞳をゆっくりと開く。

 視線の先に、少しだけ泣きそうな、だけど初めて見る極楽のような笑顔。

 彼の唇は柔らかく動き出した。

 きっとあの声音がわたしに届く。

「カノコ。そろそろ三時のお茶にしましょう。今日のお菓子はなんですか?」


 
 それは、わたしが望んだ、いつもの日常だった。
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