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鏡合わせの逢瀬(二)
しおりを挟む気が付くと、わたしというよりお母さんは壁に貼られた人間ドックのポスターをじっと眺めている。
ありきたりなポスターの隣に見える乳白色の壁に、わたしも確かな見覚えがあった。
白い服を着た人が視線を横切っていく。アナウンスが鳴って整理券の番号が呼ばれて、隣で人が動く気配がする。人の不安が空気に混ざり、空間を灰色で満たしていた。
お母さんとわたしは病院にいた。過去に戻れたのだ。
(リエコさん……聞こえますか。わたしです……カノです)
「……」
(リエコさん)
「あ、ごめんなさい」
お母さんは声を出してしまって視線を集めてしまう。周囲に小さく会釈を振りまいて下を向く。
(リエコさん、頭の中で思うだけで声になります。やってみてください)
(……こうですか)
(そうです! ちゃんと聞こえます)
(ごめんなさい。あまりにも現実離れしているので、愕然としてしまって。こんなこと。あるんですね……)
(わたしも最初はそう感じましたが、確かにここはリエコさんの過去だと思います。今日はいつだか分かりますか?)
「ええと……」
お母さんは鞄から携帯を取り出した。それは見覚えがある懐かしい赤色。
(六年前の四月二十五日……亡くなる半年前です……あ、そうか。今日です。この後、夜まで大げんかをしてしまったのです……今日以降、あの子との関係が壊れてしまってわたしはエスカレートして……あの部屋から出さないように意固地になってしまい……うぅ)
(リエコさん、今は泣くべきではありません。こうやって過去に戻れるのは、一度きりしかないのです。どうしたら
いいか考えましょう)
お母さんは何も言わず、深々と頷いた。
(病室に行って見ましょうか)
お母さんは重そうに身体を持ち上げて、病室へと向かった。
わたしの病室は二階の南角。冬が始まる頃に入院したからもう五ヶ月が過ぎている。
記憶を取り戻しているわたしはその頃を思い浮かべた。化学療法は初回から効果がなく、嘔吐と食欲不振がことさら激しかった。すぐに別の服用に切り変えて合わずにまた変える。その繰り返し。
髪の毛はまだ残っていたけど、本来豊かな黒髪のわたしはやっぱり辛くて、いつもニット帽を被っていた。四月ならまだなんとか動ける体調のはずだ。
お母さんは病室の扉の前に立ち、深呼吸をしてからわたしに話しかけてきた。
(……緊張するわ。どう話したらいいか、分からないけど)
(リエコさん。カノコさんの言葉をしっかり聞くことから始めましょう。まずは耳を傾ける。多分わたしは、どうしたらいいか分からなくて、当たってしまったんだと思います)
(え、わたし?)
(あ、いえ、もしわたしなら、当たってしまうと……)
(そうね、自分の終わりが十五歳で見えてしまうなんて。誰かに当たりたくなるのは当然よね)
(はい……だから話をちゃんと聞きましょう。正しい説明だから納得するわけではないと思うのです)
お母さんは音を立てないように扉をそっと開く。
カノコは窓際に置かれたベッドの背もたれを起こして寄りかかり、ぼんやりと南の空を眺めていた。機嫌を崩して泣きそうな灰色の空は少しだけ怖い印象で、カノコの茶色の瞳は冷たい灰色を映し取って色が薄くなって見える。
その姿は想像以上にやつれていて、白肌もくすんで見えた。着ている薄ピンク色のパジャマでさえ、相対的にその色を強く主張していて、頭に被ったオレンジ色のニット帽が痛々しく眩しい。
「……お母さん……」
やせた顎が小さく開いた。
「カノコ。どう体調は? お昼は……」
お母さんの視線はサイドテーブルに移ったが、出された病院食に手をつけた痕跡は見当たらなかった。
「……でも、今日は顔色、いいわよ」
「そう……かな」
「……」
お母さんは無言のままだった。
(リエコさん。何か会話を)
「カノコ……えっと、薬、やっぱりあまり効果がないみたいね」
「……そうだね。お母さん……今日、ミネラルウォーターが飲みたくて、待合室に買いに行ったんだ。そんなに長い
距離ではないけど……それでもすごく疲れてしまって」
「歩けたら、いいじゃない。悪くなっていない証拠よ」
「でもね……そのあと、わたし……ペットボトル……」
カノコは下を向いて唇を固く閉じたまま、小さく肩を震わせた。角が目立つ痩せた肩はパジャマに突き刺ささり、女性の丸みはもはや失われている。やがてカノコは左手をそっと浮遊させてサイドテーブルを指差した。
ペットボトルの蓋は閉じられたままだった。カノコの手はぱたんとベッドに落ちる。
「……開けることが……できなかったの」
顔を上げたカノコの瞳は崩れて目元は赤く染まっていた。
カノコは左手で目を擦る。枯れた指は生命の息吹が失われていく樣を残酷に表わしていた。
「でも歩けたんでしょう。ペットボトルぐらい誰かに開けてもらえばいいじゃない。カノコはきっと元気になるわ」
カノコは、ぴくりと肩を動かした。
「きっとって何よ、お母さん……どうすればそのきっとが起こるの? どうすればわたしは、高校に行けるの……」
「それは……薬を……ちゃんと飲んで……」
カノコは磨き上げた包丁のような鋭い目つきでお母さんを睨んだ。
「薬がわたしに何をしてくれたのよっ! どう病気を治してくれたのよ! わたしの食欲を、体重を奪って……体をこんなにしたのは誰なのよっ! 蓋すらあけることができないこんな身体」
カノコはやせ細った声でお母さんを突き刺しているようだった。
再び下を向いたカノコは、「もう、治らなくてもいいから、自宅に帰りたい……」とこぼした。
お母さんの視界が黒く染まっていく感じがする。これはきっと良くない感情の色だ。
(リエコさん、落ちつい————)
「治らないなんて言わないでよ! わたしもリノもみんな、カノコが元気になるのを待っているんだから。身体に合う薬だってあるはずよ!」
お母さんは、感情が荒々しく乗った言葉をカノコに叩きつけた。
カノコは沈黙したまま、その唇は動こうとしない。だけどお母さんの黒色は深みを増して、もう止まらなかった。
「何か言いなさい! カノコ!」
カノコはサイドテーブルのペットボトルを乱暴に掴んでお母さんに投げつけようとしたが、振りかぶった時にそれはするりと抜け落ちて、ベッドの枕元に落ちてしまう。
カノコは投げる物を失って震える手を、ただじっと見つめていた。
やがて魂を磨り潰すような唸り声が聞こえた。
「出てって」
お母さんは待合室のソファーに座り、両手で顔を覆っていた。言葉などもう忘れてしまっているようだった。
(リエコさん……大丈夫ですか)
(あ、はい……ごめんなさい。あんな場面を見せてしまって。本当は娘に再び会えるだけで、私、どんなに恵まれているか。それなのに、私は……また、自分の考えだけを押し付けてしまって……本当に駄目ね……また繰り返してしまった)
(リエコさん。落ちついて考えましょう。まだ少し時間があります)
(私……娘を失うなんて耐えられなかったから、たとえ一万分の一の可能性でも賭けたかった……でも、それは私の勝手な思い。あの子の時間なのに、私だけが気の済むようにしてしまった…)
(……自分の思い通りにして、後悔が残ってしまったのなら、今度はカノコさんの思いを汲んで、その中でリエコさんの後悔が生まれないようにしてみてはどうですか?)
お母さんは顔から両手をどかして膝の上に置いた。だが依然として項垂れたままだった。着ている白いワンピースの膝元はくたびれて見えて、薄灰色の病院の床は残酷なほど生命を感じない。
(でも。どうしたら。私、カノコを見たらまた同じことを言ってしまいそうで。私はきっと何を選択しても後悔してしまう。何も変えられない……)
(諦めないでください。わたしも方法を考えます)
お母さんは何も言わなかった。
島崎の時と同じように、わたしの姿をイメージしてみる。わたしはお母さんの意識から離れ、金色の幻像となってその姿を表し、島崎の時と同じように左肩の上に浮かんでいた。
突然、お母さんの左隣りに人が座って、わたしは驚いて飛んで逃げてしまう。思わず頭を抱えたけど今度はごちん
とぶつけなくて。見えない壁は無いようだ。
(リエコさん。左を向いてくれますか?)
お母さんは左を向いて「えっ!」と大声を出した。他の人には見ないと分かっているけど、わたしはお母さんの頭の後ろに隠れてしまう。
(リエコさん。落ち着いてください。わたしの身体はリエコさんにしか見えません)
わたしはお母さんの頭を飛び越えて、目の前で浮かんで見せた。
(あら、なんて姿……ごめんなさい。びっくりさせて。いきなりだったからつい……でも妖精みたいで可愛いわ)
わたしは少しだけはにかんで見せた。
(ちょっとカノコさんの様子を見てきます。ここにいてください)
羽音は鳴らないけどそういう気分で、わたしはふわふわと浮きながらカノコの病室に向かった。
もはや壁すら透過できそうな気もするが、やっぱり頭ごちんは嫌だから、少しだけ開いている扉の隙間から中に滑り込んだ。
部屋の中は随分と冷たく感じる。
窓に目を受けるとガラスの無い裸の空は黒に変色していておどろおどろしい。
空気は随分と湿っていて、雨の気配が漂っていた。
カノコは窓際に立ち、吸い込まれそうな黒い空を見つめていた。色を消失したような横顔が痛々しい。
ここに来る前は、自分のことなど簡単に分かると思っていたが、それは浅はかな考えだった。こうやっても外から見る自分は、複雑でまるで考えが分からない。
このまま後悔を解決できなかったら……わたしは消えない。
違うの。わたしは大きくかぶりを振ってそれを否定する。
このまま後悔を消せないと、この失敗の記憶がさらにのし掛かって、お母さんはきっと押しつぶされてしまう。それは駄目、絶対にさせない。
ふわふわと少しずつ、カノコに近づいていった。その時、突如としてカノコは振り返って、同じ双眸は時間を超えて重なり合う。
あれ、わたし見られてるの?
なんとなくそんな気配にわたしは動きを止めた。
「……誰か、そこにいるの?」
わたしは一応の確認で後ろを向いてみたけど、そこには誰もいない。予想外の展開に、緊張で身体が縮こまりそうだった。
「……誰です……か」
カノコはもう一度、呟いた。どうやらわたしの姿は見えていないようだ。
視線の軌道上から逸れたわたしは、カノコの右肩あたりに移動する。だけどカノコの視線はそのままで、やはり見えていない。
わたしは右肩に座ってみた。
(ん!?)
身体は不意にパジャマに沈み込んだ。
カノコは顔をわたしに向けて「きゃっ!っ」と叫び、弱々しくベッドに飛び込んで逃げた。ベッドの上に座ったカノコは布団を掴んで顔を隠す。しばらくすると徐々に布団を下げて、目だけでわたしを探し始めた。
瞳は右往左往するが、当然、わたしを見つけられない。やがてカノコは布団をどかして黒色の空を背景に浮かんでいるわたしの辺りをじっと見つめてきた。見えないけど何かを感じているようだ。口だけが、誰? と動いて、その
次は両腕で身体を抱きしめた。瞳孔は驚いた時のように大きく開いている。
「……死神さん……」
わたしは盛大に宙でこけた。
いやいや、どうしてそうなる、と思ったが、目の前にいるのは間違いなく過去のわたしで、非難すると自己否定だからとりあえず踏み留まった。でもこの想定外の出来事はチャンスだ。カノコに触れられるなら話すことができるかもしれない。わたしはベッド上に飛んでいって、もう一度、右肩に座った。
「こんにちは」
わたしの声が部屋に響いた。
「ひっ!」
声を上げたカノコは硬直して動けないようだ。
「……やっぱり死神さん……ですか」
「違うわよ! 右肩にいるから、ゆっくりと顔をこちらに向けてみて」
カノコは恐る恐る顔を向ける。視線がわたしを捕らえるとカノコは大きく口を開いて、ぱくぱくさせた。
「こんにちは。カノコさん」
カノコは前を向いて目を瞑り、手を胸の前で合わせて、「ごめんなさい。たくさん悪いことしたけど、地獄だけは……」と拝み出した。
あ————これは面倒なやつだけど、わたしらしい。
「こんな可愛いわたしがどうして死神なのよ。ちゃんと見なさい。ほら。人のかたちをしているでしょう? ま、信じろと言うのは難しいと思うけど、目の前に居る訳だから信じられるでしょう?」
カノコは右目の端でもう一度わたしを捕らえる。
「……あなたは誰……?」
「わたしは……あなたよ」
「わたし?」
「そう……わたしは、もっと生きたいという、あなたの強い想いが産んだ幽霊。カノコ……あなたは、死んでしまうの」
わたしは正直に話すことがいいと思った。それしか思いつかなかったというのが実のところ正しい。正直な気持ちを伝えてカノコの本心を聞き出すしかない、そう思った。
幽霊になって六年間、彷徨っていたこと、妙音鳥という人に拾ってもらって、仕事の手伝いをしていること、自分が幽霊だと気づかずに過ごしてきたこと、お母さんとリノが訪ねてきて、カノコを病院に閉じ込めたことが後悔となって、お母さんが六年間苦しんでいること、その発端が今日の大げんかだということを話した。
そして今ここにいるお母さんは六年後から来ているということも。
「今ここにいるのは、お母さんの後悔を消化してあげたいから。六年後の世界で苦しむお母さんを……救ってあげたいの」
カノコは前を向いたまま話を聞いていたが、少しだけ顔をわたしに傾けて「……リノは成長した?」と訪ねてきた。
「ええ、もちろん。ちょっとませた感じだけどね」
わたしは腕を組んで眉根に力を入れた。
「そっか……あれだけわたしの後ろを追いかけて来たリノがね……」
ベッドの脇に座り直したカノコは両足をぴんと浮かせて、元に戻した。
「わたしね……もう、難しいのはなんとなく分かっているよ。あなたもそうだったでしょう? だって、薬も駄目、食事も取れないとなると……」
カノコは手をわたしに見せた。
「こうなっちゃうじゃない。もう病気は止まらない」
立ち上がったカノコは少しよろけてしまう。わたしもつられて肩の上で、ぽんぽん、弾んだ。
カノコは開いた窓に近づいて空を見つめた。
「まだ、なんとか立てて歩けるけど、それあと少しだけだと思う。だから自宅に戻って、最後を……と思うのは別に変ではないでしょう?」
「……うん」
「でも同時に、治療に専念してほしいというお母さんの気持ちも……うん、話を聞いた今なら分かる」
カノコのやつれた顔は少しだけ微笑んだ。
黒い空が吐き出した冷たい風が吹く。オレンジ色のニット帽に収まらない毛先だけが揺れていた。
「六年後のわたしは、お母さんの後悔が消化されると消えてしまうの?」
「……うん。そうだと思う。病院に閉じ込められたことで、未来を生きたいと強く願って……ある意味、怨念よね。それが今の幽霊のわたしを産むきっかけとなったから……」
「そっか————。じゃぁ、あなた的には、わたしカノコはこのまま怨念に塗れて死んだほうがいいのね。病室に閉じ込められたまま……」
いたずらっぽく、両手はあの真似。
ああっ、この対応。つまりこの頃からわたし成長していない……としょんぼりして溜め息をついた。
「そうなるとお母さんの後悔も残ってしまうでしょ……」
「そうよね……ねえ、さっきの喧嘩が仲直りできて、お母さんがわたしを病院に閉じ込めないと言ったら……六年後のお母さんはどうなるの?」
「今日を起点に生まれる後悔は消化される。歴史は改変され、六年後のお母さんの記憶も変わるはずよ。後悔がない新しい世界線に上書きされるの。そうなると、改変前の後悔に紐づく全ての記憶は消える。後悔がなければわたしはここに来ないからね。そうゆう仕組み」
「それは……この会話の内容も、わたしは忘れちゃうということ?」
「そう。それがルール。そして後悔の消化に失敗した時は、元の歴史のままで記憶は改変されない。つまり、わたしが過去に来ていないということになる。だからカノコにこの記憶は残らない」
「あなたの記憶は?」
「わたしはどちらにしても覚えているわ。実際、以前に後悔を消化してあげた依頼主のことを、わたしは覚えているもの」
「……そうなんだ。聞いてもいい? 六年後のわたしは……消えてしまってもいいの?」
「……いい。お母さんを助けたい」
「……そう。なら方法はこれがいいわ」
カノコは思いのほか、弾む声を出した。
「え、何?」
「お母さんはさ、何か一方を取ると、残りを考え過ぎて後悔する性格じゃない。結局、どちらを選んでも後悔するという」
言われてみればお母さんはそういう所がある。
「じゃあ、どうすればいい? となると、両方選択するしかないじゃない」
「それは、つまり、どういうこと?」
カノコは脅かすように肩を揺らして、わたしはぐらついた。
「もう、しっかりしてよ、六年後のわたし。お母さんがわたしの意見を聞いてくれても、それは今日の時点で生まれる後悔が消えるだけ。そう思わない?」
「……そう、かもしれない」
「自宅に戻ったとしても、お母さんはきっと後悔しちゃう。治療すれば良かったとね。そうなると、また新しい後悔が生まれる。だから『病院で治療と自宅に戻る』の両方を上手くやりこなせばいいのよ。どっちかの行為を取るのではなく、どっちも取って、その過程でお母さんが後悔しなければいいじゃない。それに……」カノコは目をらんらんと輝かせて、「この会話、忘れないと思う」
わたしは、えっ、と咄嗟に呟いた。
「何となく。根拠はないけど。ねぇ、賭けてみようよ。残りの短い人生を上乗せした最後の賭け。予想外を起こす、ルールを曲げる戦いよ。勝てば会話を覚えているわたしは、最後までやり遂げられると思う」
どう? とカノコの目はわたしに迫ってきた。
「わたし、死ぬと分かった時、未来が消えて何をしていいか分からなくなってしまったの……でもね、あなたと話して、わたしが幽霊になる未来があると知って、でもそこではお母さんが六年間も苦しんでいて……そうゆう未来を今変えられるなら、未来に関われるなら、ほんの少しだけ前を向けそうな気がするの」
カノコは少し間をおいて、「最後までやることがあるって、言えるの。わたし」と微笑むと、優しい赤色が、後光のように溢れていた。
わたしは、もう……少しだけなら泣いていいはずだ。
「あり……が……とう。カノコ……」
「もう。六年後のわたし、どうしてそんなに涙もろいの? なんかやだっ」
「え、知らないよ。そんなの。今日、わたしが来なかったらこうなるのよ。残念!」
わたしは、べ~と舌を出して揶揄すると、嬉しそうに応えてカノコの若い口角はきゅっと上を向く。天は割れずにいつの間にか黒色は消え去っていて、雲の隙間から降臨を思わせる光の柱が地表へと伸びている。背後から静かに扉が開く音がした。
「カノコ……」
お母さんの声だ。
わたしは外を眺めているカノコの眼前に移動した。
カノコが、ゆっくりと振り返って、わたしは頭の後ろに隠れている。
「お母さん」
それは小さく、でも背筋がぴんと伸びたような声だった。
「さっきはごめん。……どうしたらいいか、一緒に考えちゃおう」
語尾は柔らかく、それはわたしの記憶の限りだと病気になる前のお母さんの口調。わたしはお母さんの中で、何かが変化したんだと感じた。
そっとカノコの頭の後ろから覗くと、お母さんは落ち着いた青色に包まれていた。
「うん。家族にとっていい方法と、わたしにとってもいい方法……ってあると思うの。治療はする。でも外出もしたいの。ね、いいでしょう? お母さん」
お母さんはにっこりと微笑みながら、「もう、しょうがないわね。お医者さんには怒られそうだけど、わたしが何とかしましょう」と言ってくれた。
カノコは小さく胸の前でガッツポーズをして、わたしだけに聞こえるように、「ほら、決めきれないお母さんだから、両方って言えば大丈夫でしょう?」とおどけた声で囁いた。
「何かいった? カノコ」
「あ、ははっ。いや何でも……ねえ、お母さん……」
カノコは窓際からベッドのそばにゆっくりと移動した。
わたしはカノコの頭の後ろから背中へ移動し、そのままベッドの下を通り抜けて反対側に立つお母さんの後ろに移動した。
「わたし、苦しくても治療をする。可能性は捨てないよ。でもね、それは半分。半分は……そうなることも考えて準備をしたいの。それもわたしの生き方だって認めてくれる?」
そう話すカノコは、お母さんと同じ濃度の青色を身体から解き放っていた。
(リエコさん、聞こえますか?)
(あ、カノさん)
どこか置いたようなリエコの声。
(先ほどから後ろにいます……今です。今なら……お互いに歩み寄れます。何か……カノコさんに声をかけてあげてください。きっと通じ合えます)
お母さんは目を瞑り、少しだけ沈黙したあと、しっかりとカノコを見すえた。
「カノコ。あたなの生き方、ちゃんと見ているわ」
カノコの瞳は崩れ、それは顔全体にあっという間に広がっていく。ベッドに這い上がり、四つん這いのまま前に進んで反対側にいるお母さんに飛びついた。決して早く動けた訳ではないけど、それは生命を感じさせる足取りだった。
カノコは嗚咽まじりの声にならない何かを、懸命に吐き出していた。お母さんは泣きながらも、しっかりとカノコを抱きしめている。
「もう、十五歳でしょう。しっかりしなさい」
二人だから出せる優しく深い赤色が、その場の空気まで染めていった。その赤色はわたしの目にも染みて、二人がぼやけて見える。
後のことはカノコ次第。だけどカノコはきっと今日のことを忘れない。わたしは、わたしを信じている。
辺りがほんわりと白くなっていく。どうやらその時が来たようだ。
(リエコさん、もう戻らなければならないようです)
白色の侵食は勢いを増して、わたしの視界は埋め尽くされていく。
カノコがわたしに向けて微笑んだ気がした。
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