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第三章『神々の黄昏』
chapter21「天上人の憂鬱1」
しおりを挟むどんな人間にだって悩みくらいはある。
それはくだらないものだったり、抱えきれないものだったりと個人によるもので……。
人前には決して出さないけど、誰もが何かしら抱えているものなのだろう――。
やや薄暗い団地の廊下。
長い憂鬱な道を僕は歩く。
聞こえてくるのは怒号。
こんな所まで響くものなのか。
醜い。耳をふさぎたくなる。
欲求。進めるべき足を止めたくなる。
それらに抗い、僕は扉の前に辿り着く。
鍵を開け、扉を開く。
中から聞こえてきたのは――。
「だから、あの女は何なのかって聞いてるんでしょ!?」
「何度も言わせるな。部下だよ部下。せっかく仕事を切り上げる努力をして定時に上がって来たってのに。久々に早く帰ったらこの仕打ちか。勘弁してくれよ」
「何よ! 連絡も無しにいきなり勝手に帰ってきて……! そんなこと、誰がお願いしたっていうのよ!」
廊下兼キッチンの先、4畳程度の質素なリビングもどきの奥には敷居でしきられただけの質素な部屋がそれぞれ5畳程度づつある。
まぁ、あえて言うなれば小さな家だ。
取り得と言えば、設置してあるトイレが風呂と別である事と、団地アパートゆえの安さ。
後は、まるで牢獄のようなワンルームだけのアパートよりは遥かにマシ、って程度……かな。
「俺の家に帰ってきて何が悪い。それに、しただろう? いつだかに。毎日毎日、飯がさめるまで帰ってこないだかなんだかって」
「ふんっ、貴方の家……ねぇ。随分と小さな家ですこと。そもそもそれ、いつの話? しかも曖昧。私の言葉なんて全部適当にしか聞いていないって事じゃない」
――僕の場合はこれだ。
扉の外にまで聞こえてくるがなり声。
男女の言い争う、醜い声。
それが両親のものだなんて、考えたくもない。
「お前がいなくなればもう少しマシな所に引っ越せるな。で、そんな事は言ってないだろうに。被害妄想はいい加減にしなさい」
「はぁ!? 何それ……!! 言ってるのと同じでしょ!? 大体、そんな昔の話を今頃持ち出すだなんて……女々しい男!」
「おい、それはセクハラだぞ?」
「セクハラ? ハハッ、大の大人の男がセクハラ!?」
「今の時代は男だってセクシャルハラスメントで訴えていい時代なんだよ。お前みたいに不勉強な奴は知らない事かもしれんがな」
「あら、すいませんね。どうせ私は外に出してもらえない籠の鳥ですから、外の変化なんてわかりかねます」
「お前が選んだ事だろうが……」
「何よ!!」
――けど、それが現実なんだ。
「ただいま」
「あぁ、おかえりなさい……」
「おう、おかえり」
僕は黙って自分の部屋へと向かう。
部屋と言っても、小さな壁に仕切られた5畳程度の……机のせいでさらに狭くなった。寝るためだけの部屋に帰る。
「ご飯、そこにあるから」
「うん、わかった」
荷物を置いてキッチンへ戻ると、ラップがされた冷めたご飯があった。
それをレンジで加熱する。いつもの味だ。
たいした味じゃない。まともに料理の勉強もしていない母の料理は……まぁ、食べられるだけマシ、と言った所。
正直な話をすれば、コンビニで買うか、チェーン店のハンバーガーの方が美味い。
だからか、それを自身で理解したのか。最近では総菜屋で買ってきた物や冷凍物が増えてきた。
これが、父さんが母さんを嫌う理由の一つだった。
当然だ。汗水たらして、他人に頭を下げて、疲れた足を引きずって、また頭を他人に下げて、怒鳴られて、怒鳴られて、その果てに得られる賃金。
母はその苦しみを知らない。
その上で主婦の権利とのたまうのだから。
掃除は機械で楽になり、洗濯も機械で楽になり、食事も買えば済む程度の楽をする。
その上で、マスメディアの口車に乗せられた、主婦の給料などとのたまうのだ。
静まり返ったままのリビングもどきを通り過ぎ部屋に戻ると、僕は一人、食事を取る。
最近はずっとこんな感じだった。会話があるとすれば喧嘩ばかり。
終わりそうで終わらない。もどかしいままの現状。
変えられないもどかしさ。
それは、まるで世界そのものの縮図のようで、僕の心を凍らせるのだ。
僕には何もできない。
何もできることはない。
ただ見守ることしか出来ない。
――まるでモブ(脇役)のような人生。
僕は主人公になれない。
父さんも母さんも主人公ではなかった。
だから何もできない。何も変えられない。変えられないまま、苦痛に満ちた時を過ごす。
主人公になれる人間なんて、ほんの一握りだけなのだ。
だって、世界を変えることなんて出来るはずが無いのだから。
世界に影響を及ぼす事ができる存在のことを、人は主人公と呼ぶのだから。
静けさの中、くだらないテレビの喧騒だけが木霊する。
映されるのは選ばれたヒーローだけ。ブラウン管の中にだけ存在しうる、主人公。
極わずかな勝率のオーディションに勝利したタレント達。
極わずかな勝率で有名になった物語を題材にしたアニメ、ドラマ。
極わずかな勝率で勝ち残った政治家達、アスリート達、著名人たち。
みんな、みんな選ばれたヒーローばかりだ。
僕みたいな一般人など一人もいない。
僕らとは明らかに違う。遥かに縁遠い世界の存在達。
テレビの音が聞こえてくる。
いつものくだらない宣伝(コマーシャル)だ。
『一家の和やかな団欒に。お家(ハウス)な麦茶♪』
一家の団欒なんて無かった。
『林檎と蜂蜜っ♪』
世の中そんなに甘くない。辛みたっぷり激辛モードだ。
『バテレンジャーソーセージ! 布教シール入り!』
正義のヒーローなんていないんだよ。
『魍魎茶! 飲(ぬ)んでます』
有名人(てめぇ)が飲んでるからって売れると思ってんじゃねぇ。
選ばれし者どもめが……。
最後の一口を口にする。
起源的(オリジン)な総菜屋の味がした。
「CMばっかだな」
嫌味とばかりに父が口にする。
「嫌ならテレビ消しますけど」
嫌味とばかりに母が返す。
「そんな事いってないだろ」
手持ち無沙汰なのかチャンネルが変えられた。
『あれからもう二年になるんですねぇ』
『不気味な話ですよね』
ニュースのようだ。
『赤井法介(あかいほうすけ)君、加賀武美(かがたけみ)さん、香山友里恵(かやまゆりえ)さん、近藤王牙(こんどうおうが)くん、増田星子(ますだしょうこ)さん、森村真理(もりむらまり)さん。以上6名の生徒が突如行方不明となったというこの事件なのですが……』
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「物騒になったもんだな。北の拉致か?」
「やめてくださいよ。食事中に」
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『もし、何か知っている方がいればこちらへ』
チャンネルを再度変える父。
「飯が不味くなるわ」
「貴方が変えたんじゃない」
嫌味を続ける母。
『魔法少女☆マジカルスキャンティ~♪ この後すぐ!』
「ほら、ケイト。アニメだぞ~。お前好きだろ? こういうの」
「ごちそうさま」
僕は無言でリビングもどきを経由し、キッチンで皿を洗う。そして部屋に戻る。
「ほら、そんな子供みたいなのはもう卒業したって。貴方とは違うのよ」
別に卒業はしてないけど。
タケシがはまってたっけかな。
内容的に、あの作品は両親には見て欲しくない類だ。
『魍魎茶! 飲(ぬ)んでます』
そしてお前はもういいっ。誰なんだよお前は。
……たまにCMってうざいよね。
再度、静けさが続く。
そして。
「で、あれは誰なのって聞いてるんですけど」
「だから、部下だって言っただろ?」
また始まった。
「へぇ~、あなたの会社では、部下と上司は腕を組んで歩くものなのね~。ずいぶんと変わった会社ですこと」
「それはアイツが勝手にやった事だ。説明しただろ? 何度も言わせんな」
「はぁ? 何を今さら……! 開き直ってしらばっくれないで! こっちはちゃんと見たって人がいるんですからね!!」
「大体お前こそなぁ、そんなことぐだぐだ言ってる暇があったら、ほら、皿の一つでもさっさと洗ったらどうだ? 少しは家事をしろ。お前の仕事だろうが」
「何よ!! あなたはいいですねぇ……! 毎日毎日歩いてるだけでお給料がもらえて。浮気する余裕があるほど! さぞ時間にお暇があるんでしょうねぇ!」
「そう見えるならそうなんだろうな。お前の目で見える範囲が世界の全てならばな!」
「何なのよ!! 久々にやっと帰ってきたと思ったら! 今まで何してたのよ! どこの女の所にいたのよ!!」
「てめぇに知らせる必要なんざあるかよ」
父は安月給のサラリーマン。
母親はパートどころかアルバイトさえした事も無い箱入り娘の専業主婦。
バブルの余韻が残ってるころはまだよかったのだろう。
けど、父さんが働き出したのは氷河期世代の真っ只中。
なのに世間はまだ、男が稼いで当たり前。と言われる時代。
父さんは現実を見据えていたから母さんが仕事をする事も考えたらしい。
けど、母さんは……。
『そんな恥ずかしい事出来ません』
の一点張り。
父親が家族を養えないなんて恥。大黒柱はそれくらい稼げて当然。時代錯誤の家柄に育った最後の世代……にも関わらず。
『子育ては男女平等に決まってるでしょ?』
『レディファースト。そんな事も知らないの?』
『これからは家事も男がやるべき時代です』
『日曜日だからってダラダラしないで! 邪魔!』
テレビに踊らされ、雑誌に踊らされ、マスメディアに踊らされ、女性の権利にばかり眼を向けて、男をないがしろにした結果。
――父さんは別の女に逃げた。
……母さんは許さなかった。
腹いせとばかりに、父さんが好きだった趣味のプラモデルなど、様々な鉄道コレクションを全部捨て去った。
『断舎利、断舎利。あぁ~気持ち悪い。なんて子供の趣味っ』
と、一瞥もくれずに。
これはある意味で自業自得なんだけど、当然、父さんも許さなかった。二度と取り戻せない希少価値のあるものもあっただろう。けどそれだけじゃない。かつての、子供の頃の思い出。今は亡き祖父、つまりは父親との思い出の全てさえも、身勝手な理由で捨てられたのだから。これが父さんが母さんを嫌う第二の理由だ。
「しっかし、不味い飯だなぁ……! 主婦ならまず家事についてもうちょっと考えたらどうだ? これはお前の仕事だろう!?」
「なんですって!? 元はと言えばあなたが原因でしょう!? あの女、一体何なのよ! はっきりしなさいよ!!」
「だから、部下だって言ってるだろ? 何度も言わせんな。やるべきことも満足にできないで、他人に意見できると思っているのか? 仕事舐めんじゃねぇぞ!」
「あなたが浮気なんてするから……! うぅぅ……!」
「浮気する前からこうだったろうが……! 人のせいにばっかすんじゃねぇ! しかも最後は泣きゃあ何とかなると思ってやがる、これだから女は……」
「それこそセクハラじゃない!! 私は好きなことなんてほとんど出来てないの! 家事だって子育てだって……! ずっと私がやらされて来たんじゃない! 私はこの家の家政婦じゃないのに!!」
「だから、お前がそれを選んだんだろうが! 家庭をきり盛りするのがお前の仕事だろうが! お前がそれを選んだんだろうが! その癖なに被害者面してやがるんだ! 嫌ならてめぇが稼いでみろ! 何も出来やしねぇ癖に! 俺の稼いだ金で生きてる癖に偉そうな口叩くんじゃねぇ!!」
世間体だのなんだの言って、離婚は避けながら、どんどんどんどん父さんを追い詰めていった。
父さんは今、半分別居状態にある。
帰ってくる時は別の女の匂いを付けて来る。当然だ。その女の家に泊まっているのだから。そしてそれが母さんを余計に怒らせる事を理解した上で父さんはやっているのだ。滑稽にも程がある。
父さんがわざわざたまに帰ってくる理由は一つ。嫌がらせだ。
父さんはもう冷めてる。だから離婚して終わらせたいんだ。
だが、母さんのプライドがそれを許さない。
バツイチなんて恥。今までの時間が無駄になる。無駄ではなかった事にしたい。世間体。周りへの目。そういったものに固執して、もうとっくに終わっているのにしがみついて、余計にいらだって吼えて、どんどん父さんの心を遠ざけてる。まるで狂った北風と太陽だ。
母さんに別の男でもできればすぐに事は済んだだろう。
けど、ろくに他者と関わるコミュニティを持たない母さんには別の男を作る力が無かった。
父さん以外の男を知らない。可愛そうな箱入り娘の成れの果て。前時代的なしきたりに縛られ、前衛的なマスメディアの謳う夢に踊らされた、哀れなピエロ。それが母さんだった。
……面倒くさい。
僕は着替えると、部屋を出る。
両親に一言もかわす事なく、急いで靴を履き、逃げるように扉を開ける。
外のひんやりとした空気が心地よかった。
エレベーターへと向かう途中。また、二人の声が聞こえてきた。
「俺にだって夢があったんだ! お前となんか一緒になってなければ……!」
「あんたの夢なんて叶うもんですか! 私と一緒になってなければ落ちぶれて死んでるだけでしょうが!」
もうエレベーターの前だというのに聞こえてくる叫び声。
「うるせぇぞ!!」
隣の部屋の人がキレて壁を叩く。
いいぞ、もっとやれ。
「……」
やっと静かになる。
エレベーターが来た。
今日も今日とて逃げるのだ。
僕は逃げることしかできない。
だって僕は勇者でもなんでもない。
主人公未満のモブ風情に過ぎないのだから。
エレベーターに逃げるように入り込む。
向かうはアキラの家だ。
アキラの家はご家族が早朝まで帰ってこない。僕の密かなユートピアだ。
「……」
寂れたエレベーターの天上を見上げると、自然とため息がこぼれ出る。
もう、とっくに終わっているのに。
それなのに、滑稽な事を繰り返す二人の姿を見て、僕は何を学べばいいと言うのだろう。
学べることなんて唯一つしかない。
それは、人は無力だという事。
そして――。
――僕が無力だという事。
それだけだった。
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